国学とは
江戸時代の中期、日本は徳川幕府による長期的な安定を享受していました。 この時代は、国内の平和、政治的安定、そして経済成長によって特徴づけられます。 社会秩序は固定化され、士農工商という階級間の移動は禁じられていました。 人口の約8割を占める農民は、権力者の安定した収入源を確保するため、農業以外の活動に従事することを禁じられていました。 このような厳格な社会構造の中で、徳川幕府は国外からの思想的・軍事的介入を警戒していました。 特に、スペインやポルトガルのアジアにおける植民地拡大がキリスト教宣教師の活動によって可能になったことを認識していた幕府は、宣教師を自らの支配に対する脅威と見なすようになります。 1630年代にはキリスト教を完全に禁止する鎖国令が発布され、日本人の海外渡航や帰国が禁じられ、外国との接触は長崎の出島における一部の中国人とオランダ人商人に限定されました。
このような鎖国体制下で、国内の知的関心は、幕府が公認した学問である朱子学へと向かいました。 朱子学は、中国の宋代に確立された儒教の一派であり、その教えは日本の教育の根幹をなし、親孝行、忠誠、服従、そして恩義といった徳目を重視しました。 しかし、この朱子学の支配的な影響力に対して、17世紀から18世紀にかけて新たな知的運動が台頭します。それが国学です。 国学は、文字通り「国の学問」を意味し、中国由来の儒教や仏教の研究から離れ、日本の古典籍に研究の焦点を戻そうとする文献学・哲学の学問的潮流でした。
国学の思想家たちは、外来思想、特に儒教と仏教の全面的な導入を嘆き、日本の歴史と文学に関する学問の欠如を批判しました。 彼らは、日本の歴史を三つの時代に区分しました。第一に、日本の固有で独創的な精神が最も純粋な形で現れた古代。第二に、その精神が中国文化、特に儒教と仏教の導入によって「汚染」され、抑圧された中世。そして第三に、日本の古代の独創的な精神が復活し、再発見される近世です。 国学は文学や文献学など様々な研究分野を含んでいましたが、その核心には宗教的な関心がありました。
国学の源流は、17世紀から18世紀にかけての「古学」や「和学」、あるいは本居宣長が好んで用いた「古学(いにしえまなび)」といった呼称にまで遡ることができます。 これらの学問は、神道と日本の古代文学に深く依拠し、文化と社会の黄金時代を振り返るものでした。 国学者たちは、中世の封建秩序が台頭する以前の古代和歌などを引き合いに出し、日本の情念を示そうとしました。 国学という言葉自体は、漢学(中国研究)と区別するために作られ、19世紀に平田篤胤によって広められました。 これは、中国中心主義的な朱子学理論への応答を意味していました。 国学の学者たちは、儒教思想家の抑圧的な道徳主義を批判し、外来の思考様式や行動様式が流入する以前の日本文化を再確立しようと試みたのです。
興味深いことに、国学の思想は、徳川幕府の権威に対してある程度破壊的な側面を持っていました。 国学者たちは、源氏の台頭と鎌倉幕府の成立以来不在であった、天皇による直接統治の復活を支持したからです。 これらの思想家たちの多くは反中国中心的であり、日本を他国より優れた神の国と見なしていました。 彼らの多くは、伝統的に中国に与えられてきた呼称である「中国」という言葉で日本を指しました。 しかし、皮肉なことに、この反中国中心的な国学の理論自体が、中国中心的な朱子学の方法論に基づいていたのです。
国学の台頭には、朱子学そのものが刺激を与えたという側面もあります。 朱子学者が中国古典文学の重要性を強調したことが、日本の学者たちに自国の古典に目を向けさせるきっかけとなったのです。 例えば、水戸藩の学者たちは、中国の歴史書の体裁に倣って、記念碑的な著作『大日本史』の編纂を開始しました。 しかし、やがて国学運動は、仏教や儒教を含むすべての外来の影響を排除しようとする試みへと発展していきます。
国学の思想は、江戸時代後期に「尊皇攘夷」運動に影響を与え、最終的には1868年の徳川幕府の崩壊とそれに続く明治維新につながる思想的基盤の一つとなりました。 明治時代に入ると、国学に根差した思想は、新たに形成された国民国家を支えるイデオロギーの構築に貢献しました。 これには、日本の君主が伝統的に国家の中心であり、国家は拡大された家族として見なされるという主張や、アジアおよび世界における日本と日本人の特権的な地位と運命の明確化が含まれていました。
国学の四大人:その思想と貢献
国学の伝統において、特に重要な人物として「国学の四大人」と称される四人の学者がいます。 それは、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、そして平田篤胤です。 彼らは、江戸時代の日本の文献学、宗教学、哲学の分野で最も重要な人物として認識されています。
荷田春満:国学の先駆者
荷田春満(1669-1736)は、江戸時代初期の詩人であり文献学者でした。 彼の思想は、日本の国学という学問分野の形成に大きな影響を与えました。 春満は、代々伏見稲荷大社の神職を輩出してきた学者の家系に生まれました。 幼い頃から和歌や神道の思想・信仰を学び、その早熟さから1697年には霊元天皇の第五皇子である妙法院宮堯延親王の歌道指南役に抜擢されます。
1700年3月、春満は勅使として江戸に派遣された大炊御門経光に随行し、和歌や神道の研究を教え始めました。 彼の生徒の多くは神職であり、祝詞や神道の儀式について指導を受けましたが、カリキュラムには『万葉集』や『日本書紀』といった古代のテキストも含まれていました。 特に『万葉集』の研究においては、仏僧契沖の恩恵を大きく受けており、この二人は国学という思想運動の創始者と見なすことができます。
春満は儒学を荻生徂徠に学びましたが、中国研究とは別個の、そしてそれと同等な日本の学問を強調する必要性を感じていました。 彼は幕府に国学の学校設立を請願しましたが、返答があったかどうかは不明です。 この「国学創設の請願書」は、春満の死後に出回り、彼が国学の創始者として位置づけられる一因となりましたが、この文書が本当に春満によって書かれたものか、また彼の意図を正確に反映しているかについては疑問も呈されています。
春満は江戸に1713年4月まで滞在し、その後一時的に伏見に戻りますが、同年10月には再び江戸に戻り、1年間の俸給を得て仕えました。 彼は長岡藩の牧野氏からの誘いを断り、故郷の伏見で研究に専念し、老母を支えました。 幕府関係者からは、古代の宮廷儀式や慣習に関する古記録について頻繁に相談を受けました。 1722年に母が亡くなると、彼は再び江戸に戻ります。
春満の学問は、宮中からの許しや家伝の秘伝といった家学の権威を誇る一方で、実証的な文献研究も行っていました。 例えば、『日本書紀』の神代巻を神話の領域に属するものとするなど、注目すべき見識を示しています。 晩年は病に苦しみ、亡くなる前に学統を甥の荷田在満に託しました。 1736年、68歳でこの世を去りました。
春満の国学への貢献は、彼が設定した神道的な基調、彼が擁護した歴史言語学の方法論、漢学との二項対立の確立、そして私塾という制度的な発展、さらには彼の弟子たちの功績にあります。 春満の死後、国学の中心は京都から江戸へと移りました。 彼の弟子である賀茂真淵は、春満が始めた国学をさらに発展させていくことになります。
賀茂真淵:古道の探求者
賀茂真淵(1697-1769)は、江戸時代中期の国学者、詩人、文献学者でした。 彼は、荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに国学の四大人と見なされています。 真淵は、古代日本の精神を『万葉集』やその他の古代文学の研究を通して探求し、「まごころ」の理論を説きました。 彼はこれを日本の歴史の根幹をなすものと考えました。
真淵は1697年、遠江国(現在の静岡県浜松市)の飯田村で、岡部政信の三男として生まれました。 岡部家は京都の賀茂神社の世襲神職でしたが、彼の父は分家の出身で農民でした。 1707年、彼は浜松で私塾を開いていた国学者であり、荷田春満の弟子でもあった杉浦国頭のもとで学び始めます。 37歳の時、真淵は京都に移り、荷田春満に直接師事しました。 1736年に春満が亡くなると、真淵は1738年に江戸に移り、国学を教えました。 1746年には、徳川家の一門である田安家の当主、徳川宗武に仕えることになります。
真淵の研究は『万葉集』に集中しており、その一環として祝詞の研究も行いました。 彼は、古代の言語を正しく理解することを通して古道の理想を体得し、その理想を自ら詩で表現できる境地に達することを目指しました。 そこから生まれた古道論は、単なる文学鑑賞や深い感動の産物ではなく、皇国主義の原則に基づいた反儒教的な知的深みを帯びていました。
真淵は、儒教や仏教など外来の影響から切り離された、日本の「古道」や「国のてぶり」を明らかにし、明確に表現しようと努めました。 彼はいくつかの著作で、日本の道を、物事の間の曖昧さや移り変わりを強調し、厳格なカテゴリーを拒絶するものとして描写しています。 他の国学者と同様に、彼は日本の明確な四季の重要性を強調しますが、それぞれの季節が常に満ち欠けし、他の季節へと移り変わっていくという、天候の絶え間ない変化に注意を向けました。 対照的に、彼は中国の道(からのてぶり)を、厳格な定義、鋭い区別、そして合理主義的な偏見を強調するものとして特定しました。 彼は、中国人はその生来の無秩序な傾向のためにそのような道徳的な教えを必要としたのであり、生来道徳的で調和のとれた日本人にとっては、そのような影響を取り除き、古道とのより純粋な日本の関係に戻ることによって、自らと社会を向上させることができると主張しました。
彼はまた、散文よりも詩(韻文)の方が感情を直接表現する能力に優れており、感情が人々の行動や態度を形成し、道徳を鼓舞する能力に優れていると書いています。 要するに、彼は『古事記』や『万葉集』のようなテキストが、日本の「古道」の真正で、精神的、感情的、人間的な教訓を伝えることによって、中国の冷たく、硬直的で、人為的な著作よりも道徳的なテキストとして優れていると感じていました。
真淵は、古代の言語の優位性について新たな説明を提供しました。彼は、中国の書物を通じて外来の音が導入されたことが、古代の言語を「堕落」させたと主張したのです。 彼は、古代文学や和歌を、一般的な儒教的解釈に従うのではなく、理性ではなく自然な感情を用いて解釈すべきだと提案しました。 この伝統的な日本文化の復興は、徳川幕府にまで浸透しました。 真淵は政府に雇われ、国学運動をめぐって生じた意見の対立を解決する役割を担いました。 彼は15年間その職を務め、その学識だけでなく、生来の善良さと謙虚さによって、国学運動に絶大な影響を与えました。
真淵の弟子には、本居宣長、荒木田久老、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦、塙保己一、内山真龍、栗田土満などがおり、女性も数名含まれていました。 特に、本居宣長との出会いは、国学の歴史において極めて重要な出来事でした。1763年5月、伊勢神宮参拝の帰途にあった真淵とその弟子たちが松阪の宿に立ち寄った際、宣長は真淵と会う機会を得ました。 この「松阪の一夜」と呼ばれる出会いをきっかけに、宣長は真淵の弟子となり、国学研究に生涯を捧げることになります。
本居宣長:もののあはれの探求
本居宣長(1730-1801)は、江戸時代の国学者であり、国学の四大人の中でも最も卓越した学者と見なされています。 彼は、日本の伝統と古典の研究である国学を大成させたと評価されています。
宣長は伊勢国松阪(現在の三重県松阪市)で生まれました。 彼の先祖は代々伊勢国の北畠氏の家臣でしたが、江戸時代初期に武士の身分を捨て、姓を小津と改め、松阪に移り住み、木綿問屋となりました。 当初、家業は繁栄し、江戸にも店を構えていました。 兄の死後、宣長は小津家を継ぎましたが、本好きの少年は商売には向いていませんでした。 22歳の時、母の勧めで京都へ医学を学びに行きます。 京都では、儒学者の堀景山のもとで漢学と国語学も学びました。 この時期に宣長は日本の古典に興味を持つようになり、荻生徂徠や契沖の影響を受けて国学の道に進むことを決意します。
1757年に松阪に戻った宣長は、内科医として開業しましたが、彼の主な関心は依然として日本の初期国家の文学的・歴史的遺産である「古学」にありました。 彼の初期の著作には、和歌の本質を論じた『あしかけおぶね』、『源氏物語』の分析である『紫文要領』、そして有名な「もののあはれ」の概念を展開した『石上私淑言』などがあります。
宣長は、賀茂真淵の古代日本古典の注釈に感銘を受けていました。 既に高名な学者であった真淵は江戸で古典を教えており、宣長は江戸が松阪から遠くなければ真淵を訪ねたいと思っていました。 1763年5月、真淵とその弟子たちが伊勢神宮からの帰途、松阪の宿に立ち寄ったことで、宣長に大きな転機が訪れます。 新上屋という宿で二人は出会い、宣長は『古事記』を注釈する意向を真淵に伝えました。 真淵もまた、『古事記』やその他の古典を解明したいという願望を語りました。 この出会いは運命的であり、宣長はその後34年間にわたって『古事記』の研究に専念することになります。 その研究の成果が、彼のライフワークである44巻に及ぶ『古事記伝』です。
宣長の最も重要な業績は、約35年の歳月をかけて完成させた『古事記伝』と、『源氏物語』の注釈です。 宣長は、国学と考証学の手法を用いて、『古事記』が日本最古の現存するテキストであると主張しました。 彼は『古事記』の古代性を利用して、後に国家神道の理念の発展に用いられることになる、日本固有の宗教と法の理念を発展させました。
宣長は、外来の儒教が、感情と精神における自然な自発性という古代日本の伝統と矛盾すると考えました。 若い学者であった頃、宣長は荻生徂徠の方法に従い、儒教的な概念を取り除いて古代日本の古典の真の意味を見出そうとしました。 しかし、彼は徂徠が依然として中国の思想と言語に強く影響されていると批判しました。 1763年の著作『石上私淑言』で、宣長は、和歌がこれらの自然な感情に焦点を当てることで、日本人の「真心」の中に真実で素朴な性質を育むと主張し、これを中国の詩人の「人為的に巧妙な心」と対比させました。
宣長以前の儒学者の古典文学研究は、『万葉集』の雄大さや男性的な力強さを好み、『源氏物語』のような男性的でない、女性的と見なされる作品を嫌う傾向がありました。 仏教学者にとって、『源氏物語』はインドの法華経を文学的に表現したものでした。 宣長は、『源氏物語』の地位を復活させ、それを日本独自の「もののあはれ」の表現であると見なしました。 「もののあはれ」とは、賀茂真淵も語った「まごころ」に関連する概念で、宣長が日本文学の本質を形成すると主張した、はかなさに対する特別な日本の感受性、「哀しみ」です。
「もののあはれ」は、文字通りには、何かを経験した直後に感じる感情や情愛を意味し、宣長はこれを『源氏物語』を統合する概念と考えました。 この概念を用いて、彼は文学分析を当時の批評の道徳主義から解放しようと試みました。 人間の経験そのものを重視する彼の姿勢は、神道に対する彼の理解の基礎を形成しました。
宣長にとって、「もののあはれ」を知ることは、月や桜の花だけでなく、この世に存在するあらゆるものの力と本質を見極め、その一つ一つに心を動かされることでした。 桜の花が散るのを残念に思うことは、始まりに過ぎません。それは、世界に対する私たちの基本的な感情的なつながりを証明するものです。 そこから進化するということは、花の運命、つまり突然の到来、輝く光、そして消滅を、私たちすべての美しい運命として真に理解することを意味します。
宣長は、神道を、畏敬の念を抱かせる、あるいは優れた力を持つあらゆるものと定義した「神」の道であり、したがって本質的には天照大神の直系の子孫である天皇の道であると見なしました。 宣長によれば、私たちが関心を持つべきは死後の運命ではなく、生命そのものに対する自発的で自然な感謝です。 この生命を肯定する倫理において、彼は神の意志への喜びにあふれた依存を提唱し、各人は人為的な倫理体系を不要にする生来の道徳的廉直さを持っていると主張しました。 宣長にとって、これらの態度は、古代から受け継がれてきた伝統そのものでした。
宣長の『古事記』に関する研究は、日本の神の道(神道)に対する彼の理解の基礎を形成しました。 彼は、テキストを「真実の書」として根本的に信頼し、『古事記』に記述されているように、日本の固有の道は、輸入された中国の道のように人間によって創造されたものではなく、すべての人間の行動と活動に最終的に責任を負う固有の神々によって創造された道であると主張しました。 そして、宣長の日本の固有の道に関する思想における神の中心性ゆえに、国学は時に神道復興運動とも呼ばれてきました。
平田篤胤:国学の普及者
平田篤胤(1776-1843)は、国学の四大人の中で第三世代に属し、本居宣長の思想を継承しつつも、独自の神学体系を構築した人物です。 彼は、国学の最も効果的な普及者と見なされています。
篤胤は、儒教と仏教の影響を根絶し、神道のアイデンティティを明確にし、その優位性を確立するために、徳川時代に禁じられていたキリスト教の教えを利用しました。 彼は、儒教や仏教の思想だけでなく、師である宣長が依拠した老荘思想さえも排斥し、純粋な神道の復興を唱えました。 しかし、実際には彼もまた、国学のイデオロギーを推進するために、特定の外来思想が有益であることを見出していました。
篤胤の神学は、儒教と仏教に対する神道の優位性を確立しようとするものでした。 彼は、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビの三神を「三位一体」であると論じ、これを「ムスビの大神」(偉大なる創造神)と同一視しました。 また、人間の魂は死後、冥界で大国主命による最後の審判を受け、生前の行いに基づいて永遠の幸福か苦難かが決まるという考えを提唱しました。
篤胤は、祖先崇拝が神道の実践の中心であると主張しました。 血縁関係に限定されていた中国の祖先崇拝とは異なり、神道の祖先崇拝は、特に創造神と皇祖神を、皇室を筆頭とする国民全体の祖神として崇拝しました。 篤胤は、祖神を祀る宗教的儀式、祈りの言葉の作成、神道の実践の推進を制度化しました。
篤胤の思想の遺産は、その政治的な含意にあります。 天皇が全人民の最高支配者である天皇制が、日本の政体の本来の形であると主張することで、彼はその制度を最も純粋で自然な統治構造として位置づけました。 彼の見解では、徳川幕府は神道に合致しない後代の付加物であり、したがって皇室の神聖な起源に対して不敬であるとされました。 篤胤の批判は、19世紀の政治運動に宗教的な基盤を提供し、1868年の明治維新をもたらしました。
篤胤は、国学の創始者を契沖から荷田春満に代え、皇国の道の研究を強調することで、自らを正統な国学者として位置づけました。 彼の思想は、江戸時代後半に起こった集団的アイデンティティと「日本らしさ」の構築に大きく貢献しました。 明治時代に入っても、国学の伝統に根差した思想は、国民国家を支えるイデオロギー構築に同様に貢献し続けました。
国学の影響と遺産
国学は、単なる文献学や哲学の運動にとどまらず、日本の近代化への移行期において、政治的、社会的に大きな影響を及ぼしました。
国学運動は、江戸時代後期に西洋の文化や思想の影響が強まることへの反動として生まれました。 1853年のペリー来航など、外国からの圧力に直面する中で、知識人たちは伝統的な日本文化と価値観の復興を提唱しました。 固有の文学や哲学の研究を通じてナショナリズムを強調することは、日本のアイデンティティを強化し、外国の支配に抵抗する方法と見なされ、幕府の衰退期における広範な感情と一致しました。
国学の思想家たちが推進した思想は、グローバル化が進む世界の中で日本のアイデンティティを定義し、保護しようとする将来の運動の基礎を築きました。 幕府が外国の圧力に直面して弱体化するにつれて、国学運動はナショナリズムの高まりに貢献し、近代化への移行において重要な役割を果たしました。
明治維新後、国学運動、神道復興、そして水戸学の尊王思想はすべて結びつき、天皇親政の復活と神道の国家祭祀としての確立につながりました。 国学に根差した思想は、近代化を急速に進めながらも文化的アイデンティティを維持しようとする日本にとって、西洋の革新と伝統的価値観のバランスをとるための枠組みを提供しました。 この統合により、日本は近代的なシステムを導入しつつ、自国の遺産に誇りを持つことができ、最終的には近代国家として台頭することを可能にしました。
国学はまた、明治時代における国家神道の確立にも役割を果たしました。 それは、仏教、キリスト教、そして「迷信」と名付けられた多くの日本の民間信仰に対して、統一され、科学的に根拠があり、政治的に強力な神道のビジョンを推進しました。
しかし、国学が日本のナショナリズムの源流の一つとなり、それがアジア全域に甚大な苦しみをもたらし、1945年の日本の無条件降伏につながったという側面も指摘されています。 戦後の日本のリベラルな政治理論の重鎮である丸山眞男は、戦前の日本社会のいくつかの特徴を、国学の学者、特に本居宣長が提唱した思想にまで遡って論じています。
国学は、日本が中国ではなく自国に焦点を当てた学問を指す言葉として、広い意味で使われてきました。 18世紀から19世紀にかけては、仏教や儒教とは異なる固有の道を日本の最古の書物の中に見出し、その道を現代に蘇らせようとする努力を指す、より狭い意味で使われるようになりました。 徳川時代(1600-1868)の国学は、厳密には一つの運動や学派ではなく、それぞれが独自の方向性と専門性を持つ私塾の連続でした。 1868年の明治維新後、国学はイデオロギー的に帯電した学問分野となり、国内外で帝国と帝国臣民を創出するために利用されました。
国学は、日本の自己認識を形成する上で、複雑で多面的な役割を果たした知的運動であったと言えるでしょう。それは、外来思想への対抗から生まれ、日本の固有の文化と精神を探求し、最終的には近代日本のナショナリズムの形成に深く関わっていきました。