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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)

朝鮮通信使とは わかりやすい世界史用語2435

著者名: ピアソラ
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朝鮮通信使とは

朝鮮通信使は、15世紀初頭から19世紀初頭にかけて、朝鮮王朝が日本の室町幕府、豊臣政権、そして江戸幕府へと派遣した大規模な外交使節団です。その目的は多岐にわたり、両国間の平和的な関係の構築と維持、国書の交換、外交交渉、そして文化交流など、幅広い役割を担っていました。これらの使節団は、単なる外交使の往来に留まらず、東アジアにおける国際関係の安定に寄与し、また、両国の文化に深く、そして永続的な影響を与えたという点で、歴史的に非常に重要な存在であったと考えられます。

朝鮮通信使の起源と初期の展開

朝鮮通信使の歴史は、15世紀初頭、日本の室町時代にまで遡ります。この時期の東アジアは、倭寇と呼ばれる海賊集団の活動が活発化し、朝鮮半島や中国の沿岸部に深刻な被害をもたらしていました。朝鮮王朝は、建国当初から倭寇の禁圧を重要な外交課題と位置づけており、日本との間でこの問題に関する交渉を重ねていました。1404年、室町幕府の将軍足利義満が「日本国王」として明から冊封を受けたことを契機に、朝鮮王朝は日本との公式な外交関係を樹立し、倭寇問題の解決と通交関係の正常化を目指しました。この文脈の中で、最初の公式な使節団が派遣されることになります。
初期の通信使は、主に倭寇の禁圧と、それに伴う被虜人の送還を目的としていました。朝鮮王朝は、幕府に対して倭寇の取り締まりを強く求めると同時に、捕らえられた朝鮮人を本国へ送還するよう要求しました。これに対し、室町幕府も一定の協力姿勢を見せ、両国間の交渉が進展しました。この時期の使節団は、まだ「通信使」という正式な名称で呼ばれていたわけではありませんが、その後の通信使制度の原型となる役割を果たしていたと言えます。彼らは、両国間の懸案事項を解決するための交渉役であると同時に、日本の国内情勢を視察し、その情報を本国に報告するという重要な任務も担っていました。
1429年に派遣された朴瑞生を正使とする使節団は、その後の通信使の基本的な形式を確立したという点で、特筆に値します。この使節団は、将軍足利義教の就任を祝賀するという名目で派遣されましたが、実際には倭寇問題や通交に関する実務的な交渉も行われました。この頃から、使節団は数百人規模の大規模なものとなり、正使、副使、従事官といった主要な役職者に加え、書記、画家、医師、音楽家、そして護衛の武官など、多様な専門技能を持つ人々で構成されるようになります。これは、通信使が単なる外交交渉の場に留まらず、朝鮮の高度な文化を日本に披露し、その国威を示すという側面も持っていたことを物語っています。
室町時代を通じて、通信使の派遣は断続的に行われましたが、15世紀後半になると、日本の国内情勢が不安定化し、応仁の乱に代表される戦乱の時代へと突入します。幕府の権威が失墜し、各地で戦国大名が台頭する中で、日朝間の公式な外交関係は次第に途絶えがちになりました。この時期、対馬の宗氏が日朝間の貿易や外交を仲介する役割を担うようになりますが、倭寇の活動は依然として続いており、両国関係は緊張をはらんだ状態にありました。
豊臣秀吉の朝鮮侵攻と国交断絶

16世紀末、日本の国内統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる目標として明の征服を掲げ、その足がかりとして朝鮮に対して服属と協力を要求しました。朝鮮王朝は、長年にわたる明との宗属関係を理由にこれを拒否しました。その結果、1592年、秀吉は大規模な軍勢を朝鮮半島に送り込み、壬辰倭乱(文禄の役)が勃発しました。この戦争は、朝鮮半島全土を荒廃させ、数多くの人々の命を奪いました。朝鮮は明の援軍を得て激しく抵抗し、戦況は膠着状態に陥ります。一度は講和交渉が行われたものの決裂し、1597年には丁酉再乱(慶長の役)が再び勃発しました。
この二度にわたる侵攻は、日朝関係に深刻な亀裂をもたらしました。朝鮮側から見れば、これは未曾有の国難であり、日本に対する不信感と敵愾心は極限にまで高まりました。多くの文化財が略奪・焼失し、陶工をはじめとする多くの技術者が日本へ連行されました。これらの出来事は、朝鮮の人々の心に深い傷跡を残し、その後の両国関係に長く暗い影を落とすことになります。1598年、秀吉の死によって日本軍は朝鮮半島から撤退しますが、両国間の公式な国交は完全に断絶した状態となりました。この戦争による破壊と断絶は、それまで積み重ねられてきた交流の歴史を一旦リセットし、新たな関係構築をゼロから始めなければならないという困難な状況を生み出したのです。
江戸幕府の成立と国交回復への道

豊臣政権が崩壊し、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くと、対外関係の再構築が急務となりました。家康は、秀吉の対外侵略政策とは一線を画し、近隣諸国との平和的な関係を築くことを目指しました。特に、朝鮮との国交回復は、幕府の権威を内外に示し、安定した国際環境を確保する上で極めて重要な課題でした。家康は、対馬藩主である宗氏を介して、朝鮮側との交渉を開始します。
しかし、国交回復への道は平坦ではありませんでした。朝鮮側には、先の戦争による深い傷と日本に対する根強い不信感が存在していました。朝鮮王朝は、国交回復の条件として、第一に、戦争を引き起こした張本人である秀吉の墓を暴き、その首を差し出すこと、第二に、戦争中に日本の将兵が朝鮮王陵を暴いたことに対する謝罪、そして第三に、連行された朝鮮人捕虜をすべて送還することを要求しました。これらの要求は、特に第一の点において、日本側が受け入れることは到底不可能なものでした。
交渉は難航しましたが、対馬藩の宗氏は、両国の間に立って粘り強く調整を続けました。宗氏は、朝鮮側の面子を立てつつ、日本側が実行可能な妥協点を探るという、極めて繊細な外交手腕を発揮します。例えば、朝鮮側が要求した「戦争犯罪人」として、実際の戦争指導者ではなく、対馬にいた罪人を身代わりとして朝鮮側に引き渡すといった策を講じました。また、国書の形式をめぐっても両者の主張は対立しましたが、宗氏は国書を偽造するという大胆な手段を用いてまで、交渉の妥結に努めました。
こうした対馬藩の並々ならぬ努力と、平和を希求する両国の一部の指導者たちの判断が実を結び、ついに国交回復への道筋が見えてきます。朝鮮側も、国内の復興と北方の女真族(後の清)の台頭という新たな脅威に直面する中で、南方における日本との関係を安定させることの戦略的重要性を認識し始めていました。最終的に、1607年、朝鮮は「回答兼刷還使」と名付けた使節団を日本に派遣することを決定します。この使節団は、徳川幕府からの国書に対する返答と、捕虜の送還を主な目的としており、これが江戸時代の朝鮮通信使の第一回目とされています。この国交回復は、戦争という最悪の関係を乗り越え、平和共存の道を再び歩み始めたという点で、歴史的な転換点となりました。
江戸時代の朝鮮通信使:その構成と旅程

江戸時代に派遣された朝鮮通信使は、1607年から1811年までの約200年間に、合計12回に及びました。その主な目的は、徳川将軍の代替わりを祝賀する「将軍襲封祝賀」であり、これにより両国間の友好関係を確認し、継続する意思を相互に示しました。使節団は、まさに「通信」、すなわち信(よしみ)を通わすための使者としての役割を担っていたのです。
使節団の規模は非常に大きく、正使、副使、従事官の三使を筆頭に、数百人、時には500人を超える人々で構成されていました。その内訳は、外交文書を作成する書記官、旅程を記録する製述官、漢詩の応酬を担当する文人、日本の風景や風俗を描く画家、医療を担当する医師、そして楽隊や曲芸師といった文化的な技能を持つ人々、さらには彼らを護衛する武官や、馬の世話をする者、雑用をこなす者まで、実に多岐にわたっていました。この壮大な行列は、朝鮮王朝の国力と文化水準の高さを日本に示すための、一大デモンストレーションでもあったのです。
彼らの旅は、朝鮮の首都である漢城(現在のソウル)を出発するところから始まります。陸路で釜山まで南下し、そこから海路で対馬へと渡ります。対馬では、藩主である宗氏の丁重な出迎えを受け、しばらく滞在した後、壱岐、そして九州本土の藍島へと進みます。ここから先は、瀬戸内海を東へと進む航路がとられました。下関、鞆の浦、室津、兵庫といった港町に寄港しながら、最終的に大坂(現在の大阪)に上陸します。
大坂からは陸路となり、淀川を船で遡って京都に入ります。京都では数日間滞在し、その後、東海道を通って江戸を目指しました。この江戸までの道中は、各藩が総力を挙げて使節団の接待と警護にあたりました。街道は整備され、宿泊施設である本陣は改築され、豪華な食事が提供されました。沿道には、異国の使節を一目見ようと、数多くの人々が見物に訪れたと言われています。この行列は、当時の日本人にとって、数年に一度の国家的な一大イベントであり、一種の「祭り」のような様相を呈していました。
約半年をかけて江戸に到着した使節団は、江戸城で将軍に謁見し、朝鮮国王からの国書を奉呈します。これが、通信使の最も重要な儀式でした。その後、幕府の役人たちとの間で饗宴が催され、そこでは詩文の交換や音楽の演奏など、華やかな文化交流が行われました。江戸での滞在を終えた使節団は、再び同じルートを辿って帰国の途につきます。往復で約1年にも及ぶこの長大な旅は、参加者にとって肉体的にも精神的にも過酷なものでしたが、同時に、異文化に触れる貴重な機会でもありました。
文化交流の担い手としての通信使

朝鮮通信使が果たした役割の中で、最も注目すべき点の一つが、文化交流の担い手として機能したことです。使節団には、当代一流の学者、文人、画家、書家、医師、音楽家などが随行しており、彼らは旅の道中、日本の知識人たちと積極的に交流しました。この交流は、両国の文化に計り知れないほど豊かで、多面的な影響を及ぼしました。
学問と文学の交流

特に活発だったのが、漢詩文を通じた交流です。当時、東アジアの知識人にとって、漢文は共通の教養であり、国際的なコミュニケーションの手段でした。通信使が各地に立ち寄ると、日本の儒学者や文人たちが彼らの宿舎を訪れ、筆談や詩の応酬(唱酬)を行いました。朝鮮の学者たちは、本場中国の朱子学に精通しており、その学識の深さは日本の学者たちに大きな刺激を与えました。新井白石や雨森芳洲といった江戸時代の著名な学者たちも、通信使との交流を通じて、その知識を深めたことが知られています。
朝鮮の文人たちが詠んだ漢詩は、日本の文壇で高く評価され、彼らの詩集は日本で出版されることもありました。逆に、日本の学者たちが作った詩文に対して、朝鮮の文人が批評を加えるといった場面も見られました。こうした知的な交流は、互いの学問的水準を高めるとともに、国境を越えた知識人のネットワークを形成する上で重要な役割を果たしました。それは、単に知識を交換するだけでなく、異なる視点や解釈に触れることで、自らの学問を客観的に見つめ直し、より深化させる機会となっていたのです。
芸術と技術の伝播

芸術の分野でも、通信使は大きな足跡を残しています。使節団に随行した画家たちは、道中の風景や日本の風俗、接待の様子などを詳細な絵図として記録しました。これらの絵画は、当時の日本の姿を伝える貴重な視覚資料となっているだけでなく、その画風が日本の画家たちに影響を与えた可能性も指摘されています。特に、朝鮮の山水画や人物画の技法は、日本の画壇にとって新鮮なものであり、新たな表現の可能性を拓くきっかけとなったかもしれません。
また、書においても、朝鮮の書家たちの力強く流麗な筆致は、日本の書道家たちを魅了しました。彼らが書き残した書は、多くの人々に珍重され、手本とされました。通信使がもたらした書や絵画は、単なる美術品としてだけでなく、朝鮮文化の粋を伝える媒体として、日本の人々の美意識に影響を与えたと考えられます。
音楽もまた、重要な交流の要素でした。使節団には「楽隊」が随行し、朝鮮の宮廷音楽である雅楽を各地で演奏しました。その荘厳で優雅な調べは、日本の聴衆に深い感銘を与えました。これらの音楽は、日本の伝統音楽とは異なる旋律やリズムを持っており、日本の音楽家たちにとって新たなインスピレーションの源泉となったことでしょう。
さらに、医学の分野でも交流がありました。朝鮮の医師たちは、当時最先端の医学知識を持っており、日本の医師たちと処方や治療法について意見を交換しました。鍼灸などの技術も伝えられ、日本の医学の発展に貢献した側面があったと考えられます。このように、通信使は、学問、文学、絵画、書、音楽、医学といった幅広い分野において、朝鮮の先進的な文化や技術を日本に伝える重要なパイプ役を果たしたのです。
通信使が日本社会に与えた影響

朝鮮通信使の来訪は、日本の社会や文化に多岐にわたる影響を及ぼしました。それは、幕府や大名といった支配者層に留まらず、一般の民衆のレベルにまで及ぶ、広範なものでした。
幕府の権威の誇示と国際秩序

江戸幕府にとって、朝鮮通信使の受け入れは、その権威を内外に示すための絶好の機会でした。鎖国政策をとっていたとされる江戸時代において、朝鮮は、琉球王国、オランダ、そして中国(ただし公式な国交はなかった)と並ぶ、数少ない正式な外交相手国の一つでした。その朝鮮から、将軍の代替わりごとに大規模な祝賀使節が来訪するという事実は、徳川将軍が日本を統治する正統な君主であり、国際的にも承認された存在であることを人々に強く印象づけました。
幕府は、通信使の接待に莫大な費用を投じ、国家的な威信をかけてこれに臨みました。江戸城での謁見の儀式は厳格な作法に則って行われ、その様子は幕府の権威を象徴するものでした。また、通信使を平和的に受け入れることで、幕府は、秀吉の侵略戦争の時代とは異なる、平和を基調とする新たな国際秩序を東アジアに構築しようとする姿勢を示したのです。この日朝間の安定した関係は、約200年間にわたる江戸時代の平和(いわゆる「パクス・トクガワ」)を支える重要な柱の一つであったと評価できます。
経済的効果と地域振興

通信使の行列が通過する沿道の藩や町々にとって、その接待は大きな経済的負担であった一方で、地域経済を活性化させる効果ももたらしました。使節団が宿泊する本陣や宿場の整備、道路や橋の修築といったインフラ整備が進められました。また、使節団に提供する食料や物資の調達は、地元の商人や農民にとって大きなビジネスチャンスとなりました。
さらに、通信使の来訪は、各地に文化的な活気をもたらしました。使節団を一目見ようと多くの人々が集まり、宿場町は普段以上の賑わいを見せました。この「イベント」は、人々の消費を促し、地域経済に潤いを与えたと考えられます。接待を担当した藩は、その威信をかけて豪華な準備を整えましたが、それは結果として、地域の文化施設や産業の振興につながった側面もあったかもしれません。
民衆レベルでの異文化理解

通信使の影響は、民衆レベルにも及んでいました。沿道に集まった人々は、朝鮮の役人たちの異国風の衣装や、珍しい音楽、曲芸などを見て、遠い隣国の文化に直接触れる機会を得ました。これは、鎖国下の日本において、庶民が外国の文化に触れることのできる、極めて稀な機会でした。
当時の様子を描いた絵巻物や浮世絵には、通信使の行列を興味深げに眺める人々の姿が生き生きと描かれています。彼らの目には、通信使はどのように映ったのでしょうか。おそらく、それは驚きと好奇心に満ちたものであったでしょう。通信使に関する情報は、瓦版などを通じて広く伝えられ、人々の異国への関心をかき立てました。こうした経験は、たとえ断片的なものであっても、日本人の世界観を広げ、多様な文化が存在することへの理解を促す上で、少なからぬ役割を果たしたと考えられます。通信使は、政治的な使節であると同時に、民衆レベルでの異文化理解を促進する「文化の使者」でもあったのです。
通信使から見た日本

朝鮮通信使の旅は、彼らが日本を観察し、その社会や文化について記録する機会でもありました。使節団に随行した書記官や製述官は、詳細な旅行記録(「聞見録」)を残しており、それらは当時の日本社会を朝鮮人の視点から捉えた貴重な一次資料となっています。
彼らの記録には、日本の都市の繁栄や、よく整備された街道、そして人々の勤勉さに対する驚きや賞賛の言葉がしばしば見られます。特に、大坂の経済的な活気や、江戸の壮大さには、深い感銘を受けたようです。また、日本の自然の美しさ、例えば瀬戸内海の多島美などを称える詩文も数多く残されています。これらの記述は、当時の日本が、彼らの予想以上に発展し、安定した社会を築いていたことを示唆しています。
一方で、日本の風俗や習慣に対する違和感や批判的な見方も記録されています。例えば、男女混浴の習慣や、武士が刀を差していることに対する警戒心、あるいは日本の仏教が朝鮮の儒教的な価値観とは異なる側面を持つことへの戸惑いなどが記されています。これらの記述は、文化的な背景の違いから生じる相互認識のギャップを示しており、非常に興味深いものです。
また、彼らは日本の学問や芸術の水準にも高い関心を示しました。日本の学者との交流を通じて、その知識の深さに感心することもあれば、時にはその解釈の違いについて議論を交わすこともありました。彼らの記録は、日本の知識人たちが朝鮮文化や中国の古典に対して深い敬意を払っていたことを伝えています。
これらの「聞見録」は、単なる旅行記に留まらず、異文化を理解しようとする知的な営みの記録でもあります。彼らは、自らの儒教的な価値観を基準としながらも、日本の社会を多角的に観察し、その長所と短所を冷静に分析しようと努めました。通信使の残した記録は、鏡のように、当時の日本社会の姿を映し出すと同時に、朝鮮の知識人たちがどのような世界観を持っていたのかを私たちに教えてくれるのです。
通信使の終焉とその歴史的遺産

1811年の第12回を最後に、朝鮮通信使の江戸への派遣は途絶えます。この最後の通信使は、財政的な理由から、江戸まで赴くことはなく、対馬で国書の交換を行うという簡略化された形式で実施されました。その後も、将軍の代替わりに伴い、通信使派遣の計画は持ち上がりましたが、両国の国内事情や財政難、そして変化しつつあった国際情勢の中で、実現することはありませんでした。
19世紀に入ると、東アジアの国際環境は大きく変動します。欧米列強のアジアへの進出(いわゆる「西洋の衝撃」)は、日朝両国に新たな外交課題を突きつけました。日本は開国と明治維新を経て、近代化への道を歩み始め、その過程で対外政策も大きく転換します。朝鮮もまた、内政の混乱と外国勢力の圧力の中で、困難な時代を迎えていました。かつてのような、善隣友好を基調とした通信使の往来は、もはや時代にそぐわないものとなっていたのかもしれません。日朝関係は、その後、近代的な条約関係へと移行し、やがて不幸な植民地支配の時代へと突入していくことになります。
しかし、朝鮮通信使が約200年間にわたって築き上げた平和と文化交流の歴史は、決して色褪せることはありません。通信使の往来は、戦争によって断絶した両国関係を修復し、長期にわたる安定した平和共存を実現しました。これは、武力ではなく、対話と相互尊重によって国際関係を構築しようとした、近世東アジアにおける特筆すべき成果であったと言えるでしょう。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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