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18_80 内陸アジア世界の形成 / モンゴル民族の発展

トルコ=イスラーム文化とは わかりやすい世界史用語2084

著者名: ピアソラ
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トルコ=イスラーム文化とは

14世紀後半、中央アジアの広大な領域を席巻したティムールによって建国されたティムール朝は、軍事的な征服活動でその名を馳せる一方で、芸術と科学の分野で目覚ましい発展を遂げた文化的な黄金時代、いわゆる「ティムール・ルネサンス」を現出させました。 この時代に形成された文化は、支配者層のテュルク・モンゴル的な出自と、長きにわたり地域の文化的基盤であったペルシアの伝統が融合した、二重の性格を持つものでした。 ティムール朝の君主たちは、イスラームを信奉し、ペルシア文化を積極的に後援したことで、中央アジアからイラン、アフガニスタンに至る広大な地域は、後世に多大な影響を与える独自の文化圏として成熟しました。



文化融合の背景:テュルク・モンゴル的伝統とペルシア文化の出会い

ティムール朝の起源は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの軍団にルーツを持つバルラス部族に遡ります。 中央アジアに定住した彼らは、現地のテュルク系住民と交わる中で言語や習慣の面でテュルク化が進みました。 さらにイスラームへの改宗を通じて、イスラーム初期から中央アジアの文化を豊かにしてきたペルシアの文学や宮廷文化を深く受容しました。 この結果、ティムール朝のエリート層は、ペルシア・イスラームの洗練された宮廷文化に同化していくことになります。
ティムール朝の宮廷では、公用語、行政、歴史、文学、詩作の言語としてペルシア語が採用されました。 一方で、ティムール家の人々の母語であり家庭内の言語は、テュルク諸語の一つであるチャガタイ語でした。 科学、哲学、神学、宗教学の分野ではアラビア語がその卓越した地位を保っていました。 このように、ティムール朝の文化は、テュルク・モンゴル的な軍事・政治的背景と、ペルシア的な行政・文化的枠組みが共存する複合的な社会構造の上に成り立っていました。 支配者と軍人はテュルク系またはテュルク語を話すモンゴル系であり、行政官や知識人階級はペルシア系が中心を占めるという社会構造が、この文化の二重性を象徴しています。

壮麗なる帝都:サマルカンドとヘラートの建設

ティムール朝の文化政策は、壮大な都市建設において最も顕著に表れています。ティムールは、自身の帝国の首都としてサマルカンドを選び、この都市を「イスラーム世界の宝石」と呼ぶにふさわしい壮麗な都へと変貌させました。 彼は征服した各地から優れた建築家、職人、芸術家をサマルカンドに強制的に移住させ、彼らの技術を結集させることで、イスラーム美術史上でも類を見ない輝かしい時代を築き上げたのです。
ティムールがサマルカンドで着手した主要な建築事業には、アク・サライ宮殿、アフマド・ヤサヴィー廟、そしてティムールの墓所であるグール・アミール廟などがあります。 特に、妻の名にちなんでビビ・ハニム・モスクとして知られる巨大な金曜モスクは、その圧倒的なスケールで帝国の威光を示しました。 これらの建築物に共通する特徴は、記念碑的な巨大さ、複数のミナレット、色鮮やかな多色タイル装飾、そして大きく膨らんだ二重構造のドームです。 建築材料としては、この地域で伝統的に用いられてきたレンガが主に使用されました。 ティムール朝の建築家たちは、セルジューク朝やイルハン朝の伝統を引き継ぎつつ、それをさらに洗練させ、前例のない規模と豪華な装飾を持つ独自の様式を確立しました。 青とターコイズ色のタイルを組み合わせた複雑な幾何学文様やカリグラフィーが建物のファサードを飾り、内部も同様の装飾や漆喰の浮き彫り、絵画で豊かに彩られました。
ティムールの死後、息子のシャー・ルフは首都をヘラートに移しました。 シャー・ルフとその妻ゴウハルシャードの庇護のもと、ヘラートはサマルカンドに代わる新たな文化の中心地として繁栄の頂点を迎えます。 シャー・ルフは平和を重んじる学者肌の君主で、彼の治世下でヘラートは安定と経済的繁栄を享受し、イスラーム世界の知的・芸術的生活の重要な拠点となりました。 彼は芸術家、建築家、哲学者、詩人らを宮廷に集め、ヘラートはイタリア・ルネサンスにおけるフィレンツェに匹敵するほどの文化的な中心地として栄えたと評されています。 ゴウハルシャードもまた建築の熱心な後援者であり、彼女がヘラートに建設したモスク、マドラサ、そして自身の霊廟からなる複合施設は、ティムール朝建築の傑作として知られています。

知の探求:科学と天文学の飛躍

ティムール朝は、芸術だけでなく科学、特に天文学の分野でも大きな功績を残しました。その中心人物が、ティムールの孫であり、自身も君主としてサマルカンドを統治したウルグ・ベクです。 彼は統治者であると同時に、卓越した数学者・天文学者でした。
1417年から1420年にかけて、ウルグ・ベクはサマルカンドのレギスタン広場に壮麗なマドラサを建設しました。 このマドラサは単なる宗教学校ではなく、数学や天文学が主要科目として教えられる高等教育・研究機関であり、イスラーム世界の各地から多くの学者や学生が集まりました。 ウルグ・ベクは、このマドラサに当代随一の学者たちを招聘しました。
彼の科学分野における最大の功績は、1420年代にサマルカンド郊外に建設した巨大な天文台です。 この天文台は、当時イスラーム世界で最も優れた施設の一つと見なされていました。 天文台の中心には、半径約40メートルの巨大なファフリー式六分儀が設置されており、これを用いて極めて精密な天体観測が行われました。 ウルグ・ベクは、ギヤースッディーン・ジャムシード・カーシャーニーやアリー・クーシュチーといった優れた学者たちと協力し、天体の位置を詳細に観測しました。
この天文台での観測結果を基に編纂されたのが、ペルシア語で書かれた天文表『ズィージ・スルターニー』です。 この天文表には994個の恒星の位置が記録されており、その計算の正確さは、古代ギリシャの天文学者プトレマイオスのものと、後のティコ・ブラーエのものとの間で最も優れた星表であると高く評価されています。 ウルグ・ベクは、プトレマイオスの観測データに多くの誤りがあることを発見し、独自の観測に基づいて修正を行いました。 彼の業績は、三角法や球面幾何学といった数学分野の発展にも大きく貢献しました。 しかし、ウルグ・ベクの統治者としての手腕は科学的才能には及ばず、最終的には息子によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げました。 彼の死後、天文台は破壊され、多くの学者がサマルカンドを去ることになりました。

書物の芸術:写本製作とミニアチュール絵画の黄金時代

ティムール朝の文化的な洗練は、「書物の芸術」において頂点に達しました。ティムール朝の君主や王子たちは、芸術の偉大な後援者であり、特に豪華な装飾が施された写本の製作に情熱を注ぎました。 彼らは宮廷に図書館兼工房であるキターブハーネを設立し、そこに最高の書家、彩飾師、挿絵画家、製本職人を集め、数々の傑作を生み出させたのです。
この時代、ペルシアの伝統的な書物芸術は吸収され、さらに発展を遂げました。 羊皮紙に代わって紙が普及し、豊かな色彩と精緻なデザインで彩られた挿絵入りの写本が数多く製作されました。 これらの写本に描かれたミニアチュールは、物語の内容を視覚的に表現するだけでなく、それ自体が高度な芸術作品としての価値を持っていました。
特にシャー・ルフの息子であるバイスングルは、歴史上でも屈指の書物愛好家として知られています。彼はヘラートの宮廷工房を主宰し、ペルシア文学の最高傑作の一つであるフェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の豪華な写本を製作させました。この写本は、その卓越した書と絵画の質で高く評価されています。
ティムール朝後期のヘラートでは、ミニアチュール絵画がさらなる高みに達し、「ヘラート派」として知られる流派が形成されました。 この流派は、ペルシア絵画の頂点と見なされることも少なくありません。 その中心的な画家が、カマールッディーン・ビフザードです。 彼は、ティムール朝最後の偉大な君主であるスルタン・フサイン・バイカラの宮廷で活躍しました。 ビフザードの作品は、ダイナミックで力強い構成、人物の生き生きとした描写、そして豊かな色彩表現を特徴としており、後のペルシア絵画、さらにはムガル絵画やオスマン絵画にも絶大な影響を与えました。 彼の登場により、画家は単なる挿絵の制作者から、自己の想像力や技巧を表現する芸術家としての地位を確立するようになりました。
写本製作は、書、絵画、彩飾、製本といった様々な技術の集大成であり、ティムール朝の君主たちの後援のもと、これらの技術は飛躍的な発展を遂げました。 書家では、スルタン・アリー・マシュハディーなどが有名です。 また、翡翠の彫刻や金属工芸といった他の豪華工芸品も、この時代に大きな成果を上げました。

言語と文学:ペルシア語とチャガタイ語の共演

ティムール朝の宮廷は、二つの言語が花開いた場所でもありました。行政と高等文化の言語としてはペルシア語が不動の地位を占めていましたが、同時に、支配者層の母語であるチャガタイ・テュルク語も文学言語として急速な発展を遂げました。
ペルシア文学は、ティムール朝のエリート層がペルシア・イスラームの宮廷文化に同化する上で中心的な役割を果たしました。 君主たちはペルシア文化を後援し、宮廷には多くの詩人が集いました。 この時代の最も著名なペルシア語詩人の一人が、ジャラールッディーン・ルーミーの思想に深く影響を受けた神秘主義詩人、ヌーレッディーン・アブドゥッラフマーン・ジャーミーです。彼はスルタン・フサイン・バイカラの宮廷で活躍し、その詩はイスラーム世界の広範囲で愛読されました。
一方で、15世紀を通じて、ティムール朝の宮廷ではチャガタイ語による詩作が盛んになりました。 この動きを主導したのが、スルタン・フサイン・バイカラの寵臣であり、自身も優れた詩人、学者、政治家であったミール・アリーシール・ナヴァーイーです。彼はチャガタイ語の文学的地位を高めることに大きく貢献し、ペルシア文学に匹敵するレベルの洗練された詩作を数多く残しました。ナヴァーイーは、チャガタイ語がペルシア語と同様に豊かな表現力を持つ言語であることを証明しようと試み、その功績から「チャガタイ文学の父」と称されています。彼の存在は、ティムール朝の文化が単なるペルシア文化の模倣ではなく、テュルク的な要素を内包した独自の文化であったことを示しています。スルタン・フサイン・バイカラ自身もチャガタイ語で詩作を行うなど、君主自らがこの新しい文学の潮流を後押ししました。

歴史叙述の隆盛

ティムール朝時代は、歴史叙述の分野でも大きな発展が見られました。この時代の歴史書は、モンゴル時代以降のペルシア語による公式な宮廷年代記の伝統に深く根差しています。 ティムール朝の歴史家たちは、普遍史、王朝史、地方史、伝記、さらには回想録といった多様なジャンルで優れた作品を生み出し、ホラーサーン地方の歴史叙述は一つの規範として確立されました。
ティムールの治世下では、彼の支配の正当性を確立し、イデオロギー的な枠組みを構築することが歴史叙述の重要な役割でした。 ニザームッディーン・シャーミーやシャラフッディーン・アリー・ヤズディーによって書かれた『ザファル・ナーメ』は、ティムールの征服活動を英雄的に描いた代表的な年代記です。
シャー・ルフの治世になると、ハーフィズ・アブルーといった歴史家が活躍し、より包括的な歴史書が編纂されました。ティムール朝後期には、ミールホーンドやその孫のホーンダミールといった歴史家が登場し、彼らの著作は後世のイスラーム世界全体で歴史書の標準となりました。
また、この時代には、聖者廟の地誌や巡礼案内といった、地方史の新たなジャンルも生まれました。 ティムール朝の創始者の一族であり、後にインドでムガル帝国を建国するバーブルが著した自伝『バーブル・ナーマ』は、チャガタイ語で書かれた文学作品としても歴史資料としても極めて価値の高いものであり、ティムール朝の文化が生んだユニークな産物の一つです。

後世への影響

ティムール朝の帝国自体は比較的短命に終わりましたが、その文化的な遺産は後世に絶大な影響を及ぼしました。 ティムール朝の芸術と建築様式は、西はアナトリアのオスマン帝国、東はインドのムガル帝国、そしてイランのサファヴィー朝へと受け継がれ、それぞれの地域で独自の発展を遂げる基盤となりました。
特に、ティムールの子孫であるバーブルが建国したムガル帝国は、ティムール朝の正統な後継者としての意識を強く持ち、ティムール朝の文化をインドの地で再び花開かせました。 ムガル建築の最高傑作であるタージ・マハル廟の設計には、サマルカンドのグール・アミール廟など、ティムール朝建築からの影響が色濃く見られます。
ティムール朝によって育まれた芸術、科学、文学は、中央アジアとイランの文化遺産の重要な一部を形成しています。 壮大な建築物、精緻なミニアチュール絵画、高度な天文学的知識、そしてペルシア語とチャガタイ語による豊かな文学作品は、テュルク・モンゴルの力強さとペルシア文化の洗練が見事に融合した、ティムール朝時代の輝かしい文化の達成を物語っています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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