新規登録 ログイン

18_80 ヨーロッパ世界の形成と変動 / 西ヨーロッパ世界の成立

キエフ公国とは わかりやすい世界史用語1438

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
キエフ公国とは

キエフ公国は、9世紀後半から13世紀半ばにかけて存在した東スラヴにおける最初の国家で、現代のロシア、ウクライナ、ベラルーシに大きな文化的・政治的影響を与えました。この国家の成立はノルマン人の一派であるヴァリャーグ人によるものであり、特にオレーグ賢公がその創設に重要な役割を果たしました。オレーグは879年頃にノヴゴロドの摂政となり、勢力を南方へ拡大。882年にはキエフを占領し、同地を首都とするキエフ大公国を築きました。オレーグの統治のもと、キエフ公国は様々なスラヴおよびフィン系の部族を統合し、ビザンツ帝国との交易路を確立して経済的な繁栄を遂げました。



キエフ公国の最盛期は、ウラジーミル1世(980年~1015年)とヤロスラフ賢公(1019年~1054年)の治世に訪れました。特にウラジーミル1世は、988年頃にビザンツからキリスト教を受け入れたことで知られています。このキリスト教化は、異なる民族を共通の宗教で結びつけ、ビザンツとの文化的交流を推進しました。これにより識字率の向上や建築の発展、法制度の整備が促進されました。

ヤロスラフ賢公は法制度の整備にも力を入れ、初めての成文法典「ルスカヤ・プラーヴダ」を導入しました。また、ヨーロッパ各国の王室との婚姻政策を通じて外交関係を強化し、キエフ公国の国際的な地位を向上させました。

しかし、1054年にヤロスラフが亡くなると、キエフ公国は後継者間の争いやペチェネグ族、さらにはポロヴェツ族などの遊牧民からの外圧によって分裂が始まりました。明確な継承ルールがない中で、公子たちの間での内紛が激化し、中央集権が徐々に弱体化していきました。

12世紀には、ヨーロッパの商業環境の変化やビザンツ帝国の影響力低下が原因で交易路が変わり、キエフ公国の衰退が進みました。そして、13世紀半ばのモンゴル帝国による侵攻が、この国家にとどめを刺しました。1240年にはバトゥ・ハーン率いるモンゴル軍によってキエフが陥落し、キエフ大公国は終焉を迎えました。この出来事をもって、多くの旧キエフ公国領がモンゴルの支配下に入り、「タタールのくびき」として知られる時代が始まりました。

キエフ公国は中世における重要な国家であり、東スラヴの文化と統治の基礎を築いた国家でした。その繁栄は、強力な指導者たちの下での統一、キリスト教化による文化の発展、広範な交易ネットワークに支えられていました。しかし、内紛と外敵の侵攻によって衰退し、最終的には各国へとつながる複数の公国に分裂していきました。
Tunagari_title
・キエフ公国とは わかりやすい世界史用語1438

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 2,363 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。