ピピンの寄進とは
ピピンの寄進は、8世紀中頃(754年、756年)にフランク王国の王ピピンとローマ教皇ステファヌス2世との間で締結された重要な政治的および領土的合意を指します。この合意は教皇領の設立の基盤を築き、教皇庁とフランク王国の関係における画期的な瞬間を示しています。
フランク王国の権力変動と教皇の承認
751年、ピピンはメロヴィング朝の最後の王キルデリク3世を教皇ザカリアスの承認を得て廃位し、新たな王朝を築きました。この行動は、西ヨーロッパにおける権力のダイナミクスの変化を象徴し、教会が世俗の権威を正当化する上でより積極的な役割を果たすことを示しています。教皇の支持は、ピピンの統治にとって神聖な正当性を与え、彼の支配に不可欠なものでした。
ランゴバルドの脅威と教皇の支援要請
寄進の直接的な背景には、ランゴバルド王アイストゥルフによる教皇領への脅威がありました。754年までに、アイストゥルフは中央イタリアの教皇領を含む重要な地域を占領していました。これに対抗するため、教皇ステファヌス2世はピピンに軍事的支援を求め、754年1月にポンティオンで会談し、両者にとって長期的な影響を持つ同盟を結びました。
ピピンの約束と寄進の成立
この会合において、ピピンはアイストゥルフから奪われた土地を教皇に返還することを約束しました。この約束は754年4月のキエルジー=シュル=オワーズでの集会で正式に取り交わされ、ピピンの寄進として知られるようになりました。この寄進にはラヴェンナや他の都市が含まれており、これらは当時ビザンツ帝国の一部でしたが、ランゴバルドの支配下にありました。
軍事遠征と教皇領の確立
この合意の重要な成果は、755年と756年のアイストゥルフに対するピピンの軍事遠征の後に訪れました。ピピンは勝利を収めた後、アイストゥルフに対して占領地を教皇ステファヌス2世に返還することを求める平和条約を締結しました。この条約は、教皇庁に土地を移譲し、後に教皇領として知られるようになる地域の公式な始まりを示しました。これらの都市の鍵は儀式的に教皇ステファヌス2世に渡され、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の祭壇に置かれ、教皇の権威への服従を象徴しました。
寄進の意義と中世ヨーロッパへの影響
ピピンの寄進の意義は、その即時の政治的影響を超えており、中世ヨーロッパにおける教会と国家の関係の先例を確立しました。教皇はもはや単なる精神的な指導者ではなく、明確な領土的権利を持つ世俗の支配者となりました。この二重の権威は、世俗の支配者と教皇庁の間の継続的な対立を助長し、何世紀にもわたってヨーロッパの政治に影響を与えました。
フランク王国と教皇庁の連携強化
さらに、この出来事は、800年に教皇レオ3世がカール大帝をローマ皇帝として戴冠する際の基盤を築き、フランク王国の王権と教皇の権威の同盟を強化しました。また、寄進はイタリアに対するビザンツの主張に対抗する手段としても機能し、アイストゥルフの敗北後、西ヨーロッパにおけるビザンツの影響を事実上終わらせることとなりました。
ピピンの寄進は教皇領を確保するだけでなく、宗教的正当性と世俗権力を結びつけることで西ヨーロッパにおける政治的権威を再定義した変革的な出来事でした。この出来事は中世の歴史における重要な分岐点を示し、教会と国家の関係やヨーロッパ全体の領土統治におけるその後の発展に影響を与えました。