教皇領とは
教皇領、または教皇国家は、756年から1870年にかけて中央イタリアに存在した重要な政治的および宗教的な地域であり、教皇によって直接統治されていました。その起源と発展は、カトリック教会の歴史とイタリアの政治的状況と深く結びついています。
教皇領の起源
教皇領の起源は4世紀にさかのぼります。この時期、ローマの司教たちは「聖ペテロの遺産」として知られるローマ市周辺の土地を取得し始めました。この土地の蓄積は、当初は東ローマ帝国の領土の一部でしたが、西ローマ帝国が5世紀に衰退するにつれて、教皇の影響力が増していきました。特に、ランゴバルド族などの侵略からの保護を求める人々が増加し、教皇グレゴリウス1世(590-604年)はこの時期に教皇の所領を統合し、難民への援助を提供する重要な役割を果たしました。
教皇領の正式な設立
教皇領の正式な設立は756年に実現しました。教皇ステファヌス2世は、ランゴバルド族によって奪われた領土を取り戻すためにフランク王ピピン3世(短躯王)に支援を求めました。ピピンの軍事介入によって、彼は教皇に重要な土地を寄進し、これにより教皇のこれらの領土に対する主権の法的基盤が築かれました。この基盤は、カール大帝とその子孫からの後続の寄進によってさらに強化され、中央イタリア全体にわたる教皇の権威が拡大しました。
中世の教皇領
中世を通じて、教皇領は権力と領土の変動を経験しました。教皇たちは地元の貴族や神聖ローマ皇帝などの外部勢力からの挑戦にもかかわらず、支配を維持しました。1075年から1122年にかけての叙任権闘争は、教皇と皇帝の権威の間の重要な衝突を示し、最終的には教皇の独立を確認する結果となりました。12世紀までには、インノケンティウス3世のような教皇のもとで、教皇領はヨーロッパの紛争における政治的駆け引きによって大幅に拡張されました。
ルネサンス期の教皇領
ルネサンス期には、教皇領は繁栄と挑戦の両方を経験しました。教皇たちは影響力のある世俗の支配者となり、他のイタリアの国々と戦争を行い、同盟を結びました。しかし、この時期はまた、アヴィニョン捕囚(1309-1377年)により教皇がフランスに居住したことで、イタリアにおける教皇の権威が弱まるなど、内部の争いや外部の脅威にも直面しました。
宗教改革と教皇領
16世紀の宗教改革は教皇領にとって転機となりました。プロテスタントの台頭はカトリックの支配を脅かし、教皇の世俗的権力に疑問が投げかけられました。その後の紛争、特にフランスやスペインを巻き込んだ戦争は、さまざまな地域に対する教皇の支配をさらに侵食しました。
19世紀と教皇領の終焉
19世紀には、教皇領の衰退が加速しました。これはナショナリズムの高まりとイタリア統一運動の中で進行しました。フランス革命やナポレオン戦争は、その領土の統合に大きな影響を与えました。1860年までに教皇領の大部分は新興のイタリア王国に併合され、ラツィオとローマだけが教皇の支配下に残されました。最終的な打撃は1870年にフランス・プロイセン戦争中にイタリア軍がローマを占領した際に訪れ、教皇領の残りがイタリアに併合されました。
教皇領の起源と発展は、宗教的権威と政治的権力の複雑な相互作用を反映しています。フランク王からの寄進による設立から、イタリア統一の過程での最終的な解体に至るまで、教皇領はイタリアにおける教会と世俗の統治の両方を形作る上で重要な役割を果たしました。