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18_80 イスラーム世界の形成と拡大 / イスラーム帝国の成立

メディナとは わかりやすい世界史用語1243

著者名: ピアソラ
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メディナとは

メディナは、アラビア半島の歴史において、イスラーム共同体(ウンマ)が確立され、その後の拡大の拠点となった極めて重要な都市です。預言者ムハンマドがマッカ(メッカ)での迫害から逃れ、聖遷(ヒジュラ)したこの都市は、もともとヤスリブとして知られていました。ヒジュラ以降、ヤスリブは「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビーと呼ばれるようになり、やがて単にメディナとして広く知られるようになりました。この改称は、都市のアイデンティティと役割が、イスラーム共同体の中心地となったことによって根本的に変化したことを示しています。

イスラームがメディナにもたらされたのは、622年のヒジュラによってです。しかし、その重要性を理解するためには、まずヒジュラ以前のヤスリブがどのような場所であったのかを知る必要があります。



ヒジュラ以前のヤスリブ:社会的、経済的、宗教的景観

ヤスリブは、アラビア半島のヘジャーズ地方、メッカ(マッカ)の北約300kmに位置する広大なオアシス都市でした。その地理的な利点、特に豊富な水資源は、農業、とりわけナツメヤシの栽培を可能にし、その経済基盤となっていました。ヤスリブの住民は、主に農耕に従事していましたが、手工業や、北へ向かう貿易ルートにおける中継地としての商業活動も行っていました。しかし、マッカのような国際的な商業の中心地ではありませんでした。

ヒジュラ以前のヤスリブの社会構造は、複雑かつ分裂したものでした。主要な住民は、アラブ系の部族であるアウス族とハズラジュ族でした。これら二つの部族は、兄弟部族でありながら、長年にわたり激しい対立と血なまぐさい抗争を繰り返していました。彼らの間には絶え間ない争いがあり、これはヤスリブ社会の安定を著しく損なっていました。

アラブ部族に加えて、ヤスリブには重要なユダヤ系部族が複数存在していました。これらのユダヤ系部族は、アラブ系部族よりも早くからヤスリブに定住していたと考えられており、灌漑システムや農業技術において進んでいました。また、商業や手工業、特に金細工や武器製造といった分野でも大きな経済力を持っていました。彼らはしばしば、アウス族またはハズラジュ族のいずれかと同盟を結んでおり、アラブ部族間の対立に深く関与していました。ユダヤ系部族の存在は、ヤスリブ社会に別の層の複雑さをもたらしていました。

宗教的には、ヒジュラ以前のヤスリブは多様な様相を呈していました。アラブ系部族の大多数は、多神教を信仰しており、様々な偶像崇拝を行っていました。一方で、ユダヤ系部族はユダヤ教を信仰しており、彼らのコミュニティは一神教の伝統を持っていました。ヤスリブには、マッカとは異なる宗教的雰囲気が存在しており、一神教の概念はある程度知られていました。ユダヤ教徒の存在は、将来の預言者や最後の審判といった概念に対する一定の予備知識を、ヤスリブの住民に与えていた可能性があります。

政治的には、ヒジュラ以前のヤスリブには統一された中央権力が存在しませんでした。各部族は独立しており、部族の指導者がそれぞれの集団を率いていました。アウス族とハズラジュ族の絶え間ない抗争は、誰か一人、あるいは一つの部族が都市全体を支配することを妨げていました。彼らは、自分たちの間の紛争を解決し、都市に平和と秩序をもたらすことができる外部の調停者を求めていました。

ヒジュラ:預言者ムハンマドの到着

メッカにおける預言者ムハンマドと初期ムスリムたちは、クライシュ族の支配層、特に多神教徒からの激しい迫害に直面していました。ムハンマドの教えは、マッカの伝統的な多神教信仰や社会構造、特にクライシュ族の経済的・政治的既得権益を脅かすものと見なされていたからです。マッカでの状況が絶望的になるにつれて、ムハンマドは新たな支持基盤を探す必要がありました。

この時、ヤスリブからマッカへの巡礼者がムハンマドの教えに触れ、イスラームを受け入れ始めました。ヤスリブの住民は、前述のように、自らの部族間の対立に苦しんでおり、外部からの調停者を必要としていました。ムハンマドの評判は、公正な人物としてヤスリブにも届いていました。

620年頃から、ヤスリブからの巡礼者とムハンマドの間で秘密の交渉が持たれるようになりました。これがアカバの誓いとして知られる出来事です。第一のアカバの誓い(621年)では、ヤスリブからの少数の者たちがイスラームを受け入れ、偶像崇拝を行わないこと、盗みをしないこと、姦通しないこと、子供を殺さないことなどを誓いました。第二のアカバの誓い(622年)はより大規模で決定的でした。ヤスリブからの70人以上の男女がイスラームを受け入れただけでなく、ムハンマドとそのマッカからの追随者たちをヤスリブに受け入れ、彼らを自分たちの家族と同様に守ることを誓約しました。この誓いは、イスラーム共同体にとって転換点となる、ヤスリブへの移住(ヒジュラ)の基盤を築きました。

アカバの誓いの後、ムハンマドはマッカのムスリムたちにヤスリブへの移住を指示しました。ムスリムたちは秘密裏に、または少人数でヤスリブへと旅立ちました。そして622年、ムハンマド自身も最も親しい友であるアブー・バクルと共に、マッカの監視をかいくぐってヤスリブへのヒジュラを実行しました。この出来事はイスラームの歴史における紀元となり、ヒジュラ暦の起点となっています。

ムハンマドのヤスリブへの到着は、都市の住民にとって大きな出来事でした。彼はヤスリブに迎え入れられ、アウス族とハズラジュ族の間の調停者としての役割を果たすことになります。ヤスリブの住民でイスラームを受け入れた人々はアンサール(「援助者」「助け手」の意)として知られるようになり、マッカから移住してきたムスリムたちはムハージルーンとして知られるようになりました。ヒジュラは、単なる地理的な移動ではなく、新しい共同体、すなわちイスラーム共同体(ウンマ)を確立するための重要なステップでした。

メディナの確立とウンマの形成

ムハンマドがヤスリブに到着した後、都市は急速に変貌を遂げました。まず、ヤスリブは正式にマディーナ・アン=ナビー、すなわちメディナと改称されました。これは、この都市が預言者の町となり、イスラームの中心地となることを象徴していました。

メディナでの最初の重要な事業の一つは、マスジド・アン=ナビー、すなわち預言者のモスクの建設でした。このモスクは単なる礼拝所ではなく、イスラーム共同体の中心としての役割を果たしました。ムスリムが集まって礼拝を行う場であるだけでなく、政治的な集会所、裁判所、学校、そして貧しい人々や旅行者のための避難所としても機能しました。モスクの建設は、新しい共同体の一体感を育む上で極めて重要でした。

次に、ムハンマドはムハージルーンとアンサールの間の関係を確立することに着手しました。マッカから来たムハージルーンは、家も財産も置いてきており、メディナでの生活基盤を持っていませんでした。一方、アンサールはメディナの住民であり、土地や家屋を持っていました。ムハンマドは、ムハージルーンとアンサールの間に「兄弟関係」を結ばせました。これは単なる象徴的な行為ではなく、具体的な経済的・社会的支援を伴うものでした。アンサールはムハージルーンを自分たちの家に受け入れ、財産を分け与え、農業を手伝いました。この兄弟関係は、新しい共同体内部の連帯と相互扶助の精神を育みました。

最も画期的な成果の一つは、メディナ憲章、アラビア語でサヒーファト・アル=マディーナとして知られる文書の制定です。この文書は、ムハンマドの指導の下、メディナに住む多様な集団、すなわちムハージルーン、アンサール(アウス族とハズラジュ族のムスリム)、そしてユダヤ系部族(バヌー・カイヌカーウ、バヌー・ナディール、バヌー・クライザなど)の間で合意されたものです。メディナ憲章は、近代的な意味での憲法とは異なりますが、メディナに住む全ての共同体(ウンマ)の権利と義務、そして彼らの間の関係を定めるものでした。

メディナ憲章の主要な内容は以下の通りです。

一つのウンマの形成: メディナの住民は、信仰の違いを超えて「一つの共同体(ウンマ)」を形成する。これは、それまでの部族単位の社会を超えた、新しい共同体意識の確立でした。
相互扶助と防衛: ウンマの構成員は、外部からの攻撃に対して互いに助け合い、共に都市を防衛する。これは、ヤスリブ時代のアラブ部族間の抗争に終止符を打ち、共同体の安全を確保するための規定でした。
内部紛争の解決: ウンマ内部で紛争が生じた場合、その裁定はアッラーとその預言者ムハンマドに委ねられる。これにより、ムハンマドは最高権威者および調停者としての地位を確立しました。
異なる集団の権利と義務: ムスリムだけでなく、ユダヤ教徒を含む非ムスリム集団もウンマの構成員と見なされ、彼らの信仰の自由や財産、安全が保障される一方で、ウンマ全体の防衛や公共の費用負担といった義務を共有する。これは、当時の基準から見て非常に進歩的な、複数宗教・複数部族の共存を目指した試みでした。
マッカとの関係: マッカのクライシュ族との敵対関係が明確にされ、ウンマの構成員はクライシュ族を支援したり、彼らに避難場所を提供したりしてはならないとされました。
メディナ憲章は、単なる部族連合ではなく、信仰と共通の利益に基づいた、政治的な実体としてのウンマを確立した画期的な文書でした。それは、ムハンマドが宗教指導者であるだけでなく、有能な政治家、外交官、立法者でもあったことを示しています。憲章は、メディナに秩序をもたらし、多様な集団を一つの政治的枠組みの下に統合するための基盤を提供しました。

イスラーム成立期メディナの政治・社会構造

メディナにおける政治権力は、預言者ムハンマドに集中していました。彼はアッラーからの啓示を受け取る宗教指導者であり、ウンマの最高権威者、軍の司令官、裁判官、そして外交官でもありました。この権力構造は、ヒジュラ以前のヤスリブにおける、統一性のない部族支配とは根本的に異なっていました。ムハンマドの指導の下、中央集権的な権力が徐々に確立されていきました。

社会的には、メディナは部族の絆から、イスラームという新しい信仰に基づく共同体へと変貌を遂げました。ムハージルーンとアンサールの間の兄弟関係は、旧来の部族主義を乗り越えるための重要なメカニズムでした。彼らは互いを助け合い、新しい社会の基盤を築きました。ウンマへの帰属意識は、次第に個人の部族への帰属意識よりも重要になっていきました。

しかし、この変革は円滑に進んだわけではありませんでした。メディナには、ムスリム、ユダヤ教徒、そしてイスラームを受け入れたと見せかけながら、内心ではムスリム共同体を妨害しようとする者たち、すなわち偽信者(ムナーフィクーン)が存在しました。偽信者たちは、特にメッカとの軍事衝突が激化するにつれて、ウンマ内部の不安定要因となりました。

当初、ユダヤ系部族はメディナ憲章の枠組み内でウンマの一員として認められていました。しかし、ムスリム共同体の力が強まるにつれて、ユダヤ系部族との関係は悪化していきました。これには複数の要因がありました。宗教的な教義の違いに加えて、ユダヤ系部族が経済的な優位性を保持していたこと、彼らの一部がマッカのクライシュ族と通じているという疑念、そして特に軍事的な危機における彼らの行動が、ムスリム共同体にとって脅威と見なされたことが挙げられます。

メディナでの主要なユダヤ系部族は、最終的にメディナから追放されるか、その男性戦闘員が処刑されるといった運命を辿りました。これは、それぞれの部族がムスリム共同体との協定を破ったり、戦時に敵と結託したりしたと判断されたためです。これらの出来事は論争の的となっていますが、イスラーム共同体が直面していた厳しい生存競争の文脈で理解される必要があります。ユダヤ系部族の追放や排除は、メディナにおけるムスリムの支配を確立し、ウンマ内部の結束を固める結果となりました。

社会階層においては、ムハージルーンとアンサールがウンマの核を形成しました。彼らは初期のイスラーム共同体の柱であり、ジハード(奮闘、広義には聖戦)において中心的な役割を果たしました。その後、メディナ周辺のベドウィン部族や、マッカ征服後にイスラームを受け入れた人々がウンマに加わり、共同体は拡大していきました。

女性は、イスラームの教えによって一定の権利を与えられ、メディナ社会において役割を果たしました。彼女たちは礼拝に参加し、知識の探求を奨励され、商業活動を行う者もいました。戦争時には負傷者の手当てや水の運搬などの支援活動にも参加しました。アーイシャのような預言者の妻たちは、重要な知識の伝達者となり、後のイスラーム法学や伝統において権威ある存在となりました。

奴隷制度は当時のアラビア社会に存在していましたが、イスラームは奴隷に対する扱いを改善し、奴隷解放を奨励しました。多くの初期ムスリムが奴隷を解放しました。解放された奴隷や同盟者(マワーリー)もウンマに組み込まれ、社会の一員となりました。

メディナの経済生活

メディナの経済は、ヒジュラ以前と同様、農業、特にナツメヤシの栽培が基盤でした。灌漑システムの維持・拡大は、住民の生活を支える上で不可欠でした。ユダヤ系部族は農業において重要な役割を果たしていましたが、彼らの追放後、その土地や財産はムスリムの手に渡り、アンサールやムハージルーンに分配されました。

ヒジュラ後、商業活動の重要性も増しました。メディナは、北に向かう貿易ルート上に位置しており、貿易の中継地としての役割を果たしました。しかし、マッカとの敵対関係は、従来の貿易ルートに影響を与えました。初期のムスリム共同体は、経済的な困難に直面することがありました。マッカから来たムハージルーンは財産を持たず、メディナでの生活に慣れる必要がありました。

このような状況の中で、初期のイスラーム共同体は、マッカのクライシュ族に対する軍事行動と結びついた経済活動を展開するようになります。クライシュ族の貿易キャラバンに対する襲撃は、ムスリム共同体にとって経済的な収入源となると同時に、クライシュ族に圧力をかける手段でもありました。バドルの戦いは、このような襲撃の一つから発展した大規模な衝突でした。戦利品(ガニーマ)は、ムスリムの間で分配され、共同体の経済を支える一助となりました。

ヤスリブ時代から存在していた市場(スーク)は、メディナでも重要な役割を果たしました。ムハンマドは、既存の市場に加えて、新しい市場を設立し、そこでの公正な取引を奨励しました。ユダヤ系部族が追放された後、彼らが支配していた市場や特定の商業活動(例:金細工)は、ムスリムの管理下に置かれました。

経済活動においては、イスラームの原則が導入されました。利息(リバー)の禁止、公正な計量と計測、契約の遵守などが強調されました。共同体の貧しい人々を支援するためのザカート(喜捨)やサダカ(任意による施し)といった制度が確立され、富の再分配と社会保障の仕組みが構築されました。

時間の経過とともに、メディナはイスラーム共同体の拡大に伴い、経済的にも発展していきました。周辺地域の征服や同盟関係の構築により、貿易ルートが確保され、より安定した経済活動が可能になりました。

イスラーム成立期メディナの宗教的景観と展開
ヒジュラ以降、メディナの宗教的景観は劇的に変化しました。ヒジュラ以前は多神教とユダヤ教が共存していましたが、イスラームが急速に広まり、優勢な宗教となりました。

預言者ムハンマドは、メディナにおいてイスラームの教えを説き、礼拝の指導を行い、クルアーンの啓示を受け取り続けました。アンサールは、ムハンマドの教えを熱心に受け入れ、イスラーム共同体の強固な基盤となりました。彼らは、マッカからのムハージルーンと共に、イスラームの拡大に尽力しました。

メディナにおける初期のイスラーム共同体は、信仰の確立と実践に重点を置きました。一日五回の礼拝(サラー)、断食(サウム)、喜捨(ザカート)、巡礼(ハッジ、後に義務化)といったイスラームの五柱が実践され、ムスリムの生活の基礎が築かれました。アザーン(礼拝への呼びかけ)は、共同体の時間を律する重要な要素となりました。

キブラ、すなわち礼拝の方向も、メディナ時代に定められました。当初、キブラはエルサレムでしたが、後にカアバ神殿があるマッカへと変更されました。このキブラの変更は、イスラームがユダヤ教やキリスト教といった既存の一神教から独立した独自の宗教であることを明確にする上で象徴的な意味を持っていました。

前述のように、ユダヤ教徒はメディナ憲章の下で一定の権利を享受していましたが、彼らとムスリムとの関係は、宗教的な違い、政治的な不信、そして軍事的な圧力によって悪化しました。ムハンマドはユダヤ教徒にイスラームへの改宗を強制しませんでしたが、彼らのコミュニティとの政治的な摩擦は避けられませんでした。バヌー・カイヌカーウ族はバドルの戦い後、バヌー・ナディール族はウフドの戦い後、バヌー・クライザ族はハンダク(塹壕)の戦い後に、それぞれメディナから追放されるか、処罰されました。これにより、メディナにおけるユダヤ教徒のコミュニティは事実上消滅し、イスラームが都市で支配的な宗教となりました。

メディナは、イスラーム神学、法学(フィクフ)、ハディース学といった様々な分野における知識の中心地でもありました。預言者ムハンマドの言行(スンナ)は、彼の教友(サハーバ)によって注意深く記憶され、後の世代に伝えられました。メディナで受け取られたクルアーンの啓示(マディーナ章)は、共同体の組織、法、社会規範に関するものが多く、初期のイスラーム国家の基盤を形成しました。

イスラーム成立期メディナの軍事的重要性と対外関係
メディナは、イスラーム共同体がその生存を確保し、拡大するための軍事的な拠点となりました。ムハージルーンとアンサールからなるムスリム軍は、外部からの脅威、特にマッカのクライシュ族からの攻撃に立ち向かう必要がありました。

クライシュ族は、メディナに逃れたムスリムたちを敵視しており、イスラーム共同体を滅ぼそうと試みました。これが一連の軍事衝突へと発展しました。

バドルの戦い(624年): 初期イスラームにとって決定的な勝利となった戦いです。少数のムスリム軍が、数で勝るクライシュ族の軍隊を打ち破りました。この勝利は、ムスリムの士気を高め、メディナにおけるムハンマドの権威を確立し、周辺部族に対するムスリムの力を示しました。
ウフドの戦い(625年): ムスリムが敗北を喫した戦いです。クライシュ族はバドルの復讐を果たすためにメディナを攻撃しました。ムスリムは一時優勢でしたが、一部の兵士がムハンマドの指示に背いたために形勢が逆転し、大きな損害を受けました。この戦いは、規律の重要性や、共同体内部の偽信者の危険性を示す教訓となりました。
ハンダク(塹壕)の戦い(同盟部族の戦い、627年): クライシュ族と多数の同盟部族からなる大規模な連合軍がメディナを包囲しました。ムスリムは、サルマーン・アル=ファーリスィーの提案に基づいてメディナの周囲に塹壕を掘るという、アラビアでは珍しい戦術を採用しました。この包囲戦は数週間に及びましたが、寒さ、食料不足、そしてアッラーの助けとされる強風によって連合軍は撤退を余儀なくされました。この勝利は、メディナのムスリムが容易に打ち負かされないことを示し、クライシュ族のメディナに対する攻撃力を著しく低下させました。
これらの主要な戦いに加えて、ムスリム軍は周辺の部族に対する小規模な遠征や、マッカのキャラバンに対する襲撃を行いました。これらの軍事活動は、イスラーム共同体の安全を確保し、影響力を拡大し、経済的資源を獲得するために重要でした。

対外関係において、ムハンマドは周辺の部族と交渉を行い、同盟を結びました。また、マッカのクライシュ族との間では、衝突と交渉が繰り返されました。フダイビーヤの和約(628年)は、マッカとメディナの間で結ばれた重要な条約です。この和約は、表面的にはムスリムにとって不利に見えましたが、10年間の休戦を定め、メディナのイスラーム共同体がマッカから政治的な実体として認められることにつながりました。また、ムスリムが自由にメディナとマッカの間を移動し、ハッジやウムラを行う道を開きました。和約の結果、多くの人々がイスラームを受け入れるようになり、ムスリム共同体はさらに拡大しました。

フダイビーヤの和約は、最終的にクライシュ族によって破られましたが、これはムスリムがマッカを征服する口実となりました。630年、ムハンマドは1万人からなる大軍を率いてマッカを無血開城させました。マッカ征服は、アラビア半島におけるイスラームの優位性を確立する決定的な出来事でした。

マッカ征服後もメディナはイスラーム世界の政治的な中心であり続けましたが、マッカがイスラームの宗教的な中心地としての地位を取り戻しました。

メディナの遺産

イスラーム成立期におけるメディナでの経験は、後のイスラーム世界の発展に計り知れない影響を与えました。メディナは、単に預言者が住んだ場所であるだけでなく、最初のイスラーム国家が建設され、イスラーム共同体(ウンマ)の青写真が描かれた場所です。

ウンマのモデル: メディナ憲章によって確立されたウンマの概念は、信仰に基づく共同体というイスラームの理想の基礎となりました。それは、部族や民族を超えた、より大きな連帯の枠組みを提供しました。
政治の中心: メディナは、預言者ムハンマドの死後、正統カリフ時代においてもイスラーム帝国の首都であり続けました。アブー・バクル、ウマル、ウスマーンの三人のカリフはメディナから広大な領域を統治しました。
知識の中心: メディナは、預言者の教えやスンナ、そしてクルアーンの啓示が保存・伝承された重要な学術の中心地となりました。預言者の教友やその次の世代(タービウーン)はメディナに集まり、イスラーム法学、ハディース学、クルアーン解釈学などの基礎を築きました。マディーナ学派は、初期のイスラーム法学における最も重要な学派の一つでした。
宗教的重要性: メディナは、マッカに次ぐイスラーム第二の聖地として、今日でも世界中のムスリムから崇敬されています。預言者のモスクには、預言者ムハンマド自身が埋葬されており、多くのムスリムが巡礼(ハッジまたはウムラ)の際にメディナを訪れ、預言者の墓を参拝します。
イスラーム成立時のメディナは、ヤスリブという分裂したオアシス都市から、預言者ムハンマドの指導の下、宗教的、政治的、社会的に統一された共同体へと劇的に変化しました。この時期にメディナで築かれた基盤、すなわちウンマの概念、政治構造、社会規範、そして軍事力は、イスラームがアラビア半島全体、そして世界へと拡大していく上での礎となりました。メディナでの経験は、イスラームの歴史、文化、そして法体系を理解する上で不可欠なものです。この都市は、イスラーム共同体の誕生と成長を見守り、そのアイデンティティを形成する上で中心的な役割を果たしました。

このように、イスラーム成立期のメディナは、単なる地名ではなく、新しい時代の幕開け、新しい社会秩序の創造、そして新しい世界宗教の確立という、歴史上最も重要な転換点の一つを象徴する場所なのです。預言者ムハンマドのヒジュラは、この都市の運命を変え、人類の歴史の針路を変えました。メディナでの日々は、イスラーム共同体が試練に立ち向かい、自己を定義し、将来の繁栄のための基盤を築いた時代でした。その影響は1400年以上を経た今も、世界の各地に暮らすムスリムたちの生活と信仰の中に深く根付いています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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