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18_80 東アジア世界の形成と発展 / 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)

羯とは わかりやすい世界史用語525

著者名: ピアソラ
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羯とは

羯(けつ)は、五胡の一つとして知られる古代中国の民族です。彼らは4世紀に北中国に住んでいた部族で、漢民族からは「五胡」の一つとして認識されていました。

羯の起源と名称

羯の正確な民族的起源については諸説ありますが、一般的にはインド・ヨーロッパ系の起源を持つとされています。彼らは高い鼻、濃い髭、深い目を持つと記述されており、これがインド・ヨーロッパ系の特徴と一致します。

羯という名称は、彼らが住んでいた羯室に由来するとされています。また、羯の祖先は多民族からなる匈奴の一部であったとされています。



羯の歴史

羯は、五胡十六国時代において重要な役割を果たしました。特に、石勒(せきろく)とその家族の下で、後趙という王朝を建て、319年から351年までの間、北中国の大部分を支配しました。後趙は、羯が中国史において最も影響力を持った時期とされています。

しかし、後趙の崩壊後、羯は歴史の表舞台から姿を消しました。これは、冉閔(ぜんびん)による羯の大量虐殺命令と、それに続く戦争によるものです。この虐殺により、羯は中国史において重要な役割を果たすことがなくなりました。

羯の文化と社会

羯の文化や社会についての詳細な記録は少ないですが、彼らは遊牧生活を営んでいたとされています。彼らの社会は、戦士階級を中心に構成されており、戦争や略奪が主要な活動であったと考えられます。

また、羯は他の遊牧民族と同様に、馬を重要視していました。馬は戦争や移動の手段としてだけでなく、社会的な地位を示す象徴でもありました。

羯の言語

羯の言語についても諸説ありますが、彼らが話していた言語はエニセイ語族に属する可能性があるとされています。エニセイ語族は、現在のシベリア地方に住むケット人の言語と関連があるとされています。

羯の後裔

羯は後趙の崩壊後、歴史の表舞台から姿を消しましたが、一部の歴史家は、後の時代の著名な人物の中に羯の子孫が含まれている可能性があると考えています。

羯は、五胡の一つとして中国史において重要な役割を果たした民族です。彼らは後趙を建て、一時期北中国を支配しましたが、冉閔による虐殺と後趙の崩壊により、歴史の表舞台から姿を消しました。彼らの文化や言語についてはまだ多くの謎が残されていますが、インド・ヨーロッパ系の起源を持つ可能性が高いとされています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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