ミタンニ王国
ミタンニ王国は、紀元前1500年から紀元前1360年頃にかけて、北メソポタミアに栄えたヒッタイト、アッシリア、ホルリ人と対抗した国家でした。その最盛期には、キルクーク(古代のアッラッパ)やザグロス山脈から地中海に至るまでの広大な領域を支配していました。ミタンニ王国の住民は主にホルリ人でしたが、支配層はインド・イラン系の言語を話すマリヤンヌと呼ばれる戦士階級でした。ミタンニ王国はエジプトにはナハリンやメタニとして、アッシリアにはハニガルバトとして知られていました。
ミタンニ王国の起源は不明ですが、紀元前21世紀には、ホルリ人の言語を話すティシュ・アタルという王がウルケシュにいたことが碑文から分かっています。紀元前17世紀には、ミタンニ王国はハビガルバトと呼ばれ、バビロニアの文書に登場しています。紀元前16世紀には、ミタンニ王国はエジプトとシリアで争っていましたが、紀元前1420年頃には、サウスタタルという王のもとで最大の版図を築きました。サウスタタルはアッシリアの首都アッシュールを略奪し、エジプトのファラオと娘を嫁がせるなど、強力な国力を誇りました。
ミタンニ王国の最も有名な王は、サウスタタルの後継者であるトゥシュラッタでした。トゥシュラッタはエジプトのアメンホテプ3世やアクエンアテンと親密な関係を築き、アマルナ文書として知られる手紙をやりとりしました。トゥシュラッタは金を欲しがり、馬や戦車を贈りましたが、エジプトはミタンニ王国の敵対勢力であるヒッタイトとも同盟を結びました。紀元前1360年頃、トゥシュラッタは暗殺され、ミタンニ王国は内紛に陥りました。
この弱体化に乗じて、ヒッタイトの王スッピルリウマ1世はミタンニ王国に侵攻し、首都ワシュカンニを占領し、多くの住民を捕虜として連れ去りました。スッピルリウマ1世はトゥシュラッタの息子であるマッティワザを傀儡の王として残しましたが、ミタンニ王国の版図は大幅に縮小しました。その後、アッシリアの王アダド・ニラリ1世やシャルマネセル1世がミタンニ王国の残りの領土を征服し、アッシリアの属国としました。紀元前1245年頃、アッシリアの王トゥクルティ・ニヌルタ1世はヒッタイトを破り、ミタンニ王国の名残を完全に消滅させました。
ミタンニ王国の文化は、ホルリ人とインド・イラン系の影響を受けていました。ホルリ人の言語はウラル・アルタイ語族に属すると考えられていますが、ミタンニ王国の文書は主にアッカド語で書かれていました。ミタンニ王国の宗教はホルリ人の神々とインド・イラン系の神々を混合したものでした。ミタンニ王国の王は、インドラ、ミトラ、ナスアティヤ、ウルナなどの神々に誓いを立てていました。ミタンニ王国は馬の飼育と戦車の技術に優れており、世界最古の馬の訓練法を記した文書が残っています。
ミタンニ王国は、古代オリエントの歴史において重要な役割を果たした国家でしたが、その記録は他の国家の文書に依存しています。ミタンニ王国の遺跡はまだ十分に発掘されておらず、その歴史や文化には多くの謎が残っています。しかし、ミタンニ王国はエジプト、ヒッタイト、アッシリアなどの大国と対等に交渉し、影響を与えたことは間違いありません。ミタンニ王国は、古代オリエントの多様性と複雑性を示す一例と言えるでしょう。