レオナルド・ダ・ヴィンチとは
彫刻家、建築家、技術者、そして卓越したデッサンの巨匠(チョーク画やペン画など)であり、「エルミンを持つ婦人の肖像」「モナリザ」など肖像画や「最後の晩餐」など歴史画の巨匠でもありました。
岩窟の聖母
ルネサンス期を代表する傑作のひとつで、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品には、ルーヴル美術館に所蔵されている「岩窟の聖母」と呼ばれる初期作品と、ロンドン・ナショナルギャラリーにある後期作品の2つが現存しています。最初の作品は、レオナルドがミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えて間もない頃に描かれたもので、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会内にある無原罪の礼拝堂のアンコーナ(像を飾るための木彫りの祭壇)を飾る一連のパネル絵の依頼でした。1483年4月、無原罪の聖母会のメンバーは、レオナルド(中央の聖母子像を担当)、アンブロジオ・デ・プレディス兄弟(両脇のパネルに8人の音楽天使を制作)、エヴァンジェリスタ・デ・プレディス(アンコーナの装飾を担当)とプロジェクトを分担しました。「岩窟の聖母」は1484年頃までに完成し、意図したとおりに無原罪の聖母の礼拝堂に設置されたと考えられています。その後、サン・フランチェスコ・グランデ教会の再建時に依頼されたロンドン版(1495-1508年頃)は、レオナルドとその助手たちによって制作され、当初の目的通り設置されました。この2つの宗教画は、ダ・ヴィンチの手による唯一の作品として、ルネサンス美術の傑作とされています。
この祭壇画は、マリアが原罪を犯さずに受胎したことを示す「無原罪の聖母」の教義を尊重し、聖母を描くことを条件にレオナルドに発注されました。図像の舞台はその名の通り岩窟で、4人の人物がピラミッド型の配置で石の床に座り、視線や身振りを交わしているようにみえます。右側では、大天使ガブリエルが謎めいたまなざしで挨拶し、聖ヨハネの子供の姿にジェスチャーで向かっています。もう一方の手で、隣に座っているキリストの子を支えています。ピラミッドの頂点には聖母(マドンナ)が座っており、その手は手のひらを下にして幼いキリストの頭上に上げられ、まるで祝福を与えるかのようです。聖母の手とキリストの頭の間には、幼子ヨハネを指差すガブリエルの手が横一列に並び、あたかも見えない十字架を完成させるかのようです。一方、幼子キリストの小さな右腕は、手を合わせて祈る幼子ヨハネに向けて、祝福のジェスチャーを繰り出しています。聖母は腕を伸ばして幼子ヨハネの頭を包み込み、輪を完成させています。
光と影を巧みに操り、ルネサンス期の絵画に最も大きな貢献をしたレオナルドの作品は、ほぼ完璧です。洞窟の暗闇から浮かび上がる人物は、画面左上から降り注ぐ光に照らされています。キアロスクーロ(明暗差)が人物の立体感を高め、スフマートの技法が人物の顔や体の明暗の境界をリアルに表現しています。この自然主義は、レオナルドの絵画の最高峰であると同時に、フィレンツェのルネサンス美術のスタイル、すなわちボッティチェリ(《プリマヴェーラ》(1482-3年頃)や《ヴィーナスの誕生》(1484-6年、ともにウフィツィ美術館蔵)など、解剖学の正確さに芸術性を委ねた情緒的手法からの脱却を示すものです。
この絵に奥行きを感じさせる線遠近法は、洞窟内のギザギザの黒い岩と、遠くの山の頂上の不明瞭な横顔の対比によって実現されており、モノクロームの背景の限られた色調を考えると、その成果は決して小さくはなといえるでしょう。
この宗教画は、ロンドン版の《岩窟の聖母》とは異なり、レオナルドが全面を描き、多くの下絵を描いたもので、ロンバルディアとローマのルネサンス美術に大きな影響を与えました。(ラファエロの《システィーナの聖母》など参照)。岩窟という舞台は、自然な母性の概念を呼び起こすのに適切なメタファーで、蝋燭が灯されたサン・フランチェスコ・グランデ教会では、光り輝く額縁と、その影から聖像が浮かび上がる暗い岩の組み合わせが、原始の洞窟を思わせ、無原罪の聖母の神秘を語るのに理想的な舞台であったと考えられています。
ナショナルギャラリーの岩窟の聖母
ロンドンのナショナル・ギャラリーの《岩窟の聖母》は、人物像の光背や幼い聖ヨハネの葦の十字架など、ルーヴル版では画家が一般的に軽視していたディテールを含んでいます。また、大天使ガブリエルが幼いヨハネに向かって身振りをしなくなり、一部ではなく内側を向いていること、ドレープがより軽く、露出度が高いこと、洞窟内の照明がより多く、より拡散して様々な光源から発していること、などの相違点があります。しかしながら、この作品は助手の関与により、ルーヴル美術館にある比類なき作品と比べると、まったく違ったものと考えられています。