第1次長州征討と薩英戦争
八月十八日の政変により勢力を失った長州藩は、1864年(元治元年)に京都の旅館池田屋で尊王攘夷派志士が
近藤勇率いる京都
新撰組によって殺傷された
池田屋事件に憤激し、藩兵を京都に送りました。しかしこの軍事行動も、幕府側の薩摩・会津・桑名の藩兵と戦った
禁門の変(蛤御門の変)で敗北し、幕府側は京都御所付近で起こった禁門の変の罪を問うという理由で朝廷から
長州征討(第1次)の勅書を出させ、長州藩を攻撃しました。
長州征討に対し、自由貿易を妨げる尊王攘夷派に攻撃を加えたいと考えていた列強は、イギリス公使
オールコックの主導により、前年の長州藩外国船砲撃事件の報復として、
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸上部隊を上陸させ下関砲台などを占領しました。この
四国艦隊下関砲撃事件と幕府の攻撃をうけた長州藩は敗北し、尊王攘夷派に代わり
俗論派という上層部が藩の実権を握り、禁門の変の当事者として家老三人を切腹させ、幕府に恭順・謝罪の意を表しました。
一方薩摩藩でも、1863年(文久3年)に生麦事件の報復としてイギリス艦隊から攻撃を受け、
薩英戦争が起こりました。この結果、薩摩藩も大きな被害を受け、強力な軍事力を有する外国勢力に対する攘夷が不可能であるということが次第に認識されるようになりました。
イギリスなど4カ国は、尊王攘夷派は衰退の機会を利用して、1865年(慶応元年)に兵庫沖に艦隊を送り朝廷に圧力をかけ、
兵庫開港は認めさせられなかったものの、通商条約の勅書を得て、さらに朝廷内の攘夷方針をやめさせることに成功しました。更に翌年、列強は兵庫開港を認めなかった代償として、通商条約により定められた20%の関税率を廃止し、一律5%に引き下げる
関税約書を結ばせました。
列強の代表国として対日外交にあたったイギリスは、公使
パークスが幕府権力が衰退していることを見抜き、幕府に代わる天皇を中心とした雄藩連合政権の樹立を望むようになりました。一方薩英戦争により攘夷が不可能であると悟った薩摩藩でも、
西郷隆盛(1827~77)・
大久保利通(1830~78)ら下級武士が中心となり藩政を主導し、イギリスとの関係を改善し、武器輸入・人材の西欧派遣・洋式工場建設などを進めるようになりました。
一方列強の中でも、長年イギリスと対立していたフランスは、逆に幕府を支持し、フランス公使
ロシュは内政・外交助言、600万ドルの借款など様々な援助を与えました。朝廷・雄藩と幕府の対立は、イギリス・フランスの対立と重なり、外国勢力の介入を招く危険性が高まりました。