守護大名と国人一揆
室町幕府は、北条得宗政権下の配置をならって、全国に守護を置きました。当時、武士同士が田地をめぐって争い、自分の所有権を主張して稲を一方的に刈る
苅田狼藉が頻繁に発生していたことから、各地の守護は大犯三カ条のほかに、苅田狼藉を取り締まる権限を与えられました。そのため、守護は苅田狼藉の取り締まりを名目に、管轄地の武士の争いに介入するようになりました。また、室町幕府の判決を受け取った守護が使者を現地に派遣し、判決内容を強制的に執行する
使節遵行も行われ、守護はさまざまな司法権を手に入れました。
1352年(観応3年,文和元年)、室町幕府は軍費調達のために
半済令を出しました。戦乱の多かった近江・美濃・尾張の3国に限り、1年の約束で守護に一国内の荘園・公領の半分を徴発する権限を与えました。やがて半済令は全国的・永続的に守護に与えられるようになり、1368年(応安元年)には、応安の半済令が出され、年貢のみならず土地自体を分割するようになりました。守護は半済令をもとに荘園や公領を侵略し、配下の武士に土地や年貢を分け与えました。
足利義満の時代に守護職は世襲されるようになり、守護たちは守護代という代理者に統治を任せ、自身は京都に住み幕府に仕え、有力守護は政治の中枢に参画しました。経済的には、荘園領主が年貢の徴収を守護に請け負わせる守護請が盛んになり、荘園領主の権限や影響力が縮小していきました。こうして守護は、室町幕府政権下において荘園・公領へ進出し、国衙の機能を吸収し、各地で地域的支配権を確立していきました。軍事・警察権のみを有した鎌倉幕府の守護と区別して、この時代の守護を
守護大名といい、その支配体制を守護領国制と呼ぶ場合があります。
守護に服従する武士も多かった一方で、各地の土着の武士は国人と呼ばれ、独立志向の高い国人は
国人一揆という地域的な集団を形成しました。彼らはしばしば守護と対立し、その支配に抵抗しました。