元寇(文永の役・弘安の役)
1268年(文永5年)、フビライは高麗を通じて日本へ国書を送り、朝貢を求めます。これに対し、幕府は返書を送らないことを決め、西国の守護に「蒙古の凶心への用心」を命令しました。このとき、北条宗家の
北条時宗(1251〜84)が18歳の若さで執権につき、指揮することになりました。
翌年の1269年にもフビライは国書を送ってきたため、朝廷は拒否の返書を送ることを提案しましたが、北条時宗はこれを拒絶しました。1271年(文永8年)、元の使者超良弼が九州に到来し、朝貢するよう迫りましたが、この時も北条時宗は国書を黙殺し、九州地方の所領を持つ東国御家人に、九州におもむき「異国の防御」に当たることを命令し、筑前・備前の防御を固めました。
1274年(文永11年)10月、元は忻都・洪茶丘を将軍とし、元兵2万・高麗兵1万を900隻の艦隊に載せ、朝鮮南端の合浦から出港させました。元軍は対馬に上陸後、守護代の宗資国を敗死させ、壱岐・松浦を襲撃後、博多湾に侵入しました。鎌倉幕府は、筑前守護の
少弐資能・経資親子を大将とし、九州の御家人とともにこれを迎え撃ちました。元軍の集団戦法や「
てつはう」という火薬兵器により日本軍は苦戦し、太宰府近くの
水城まで退却しました。しかし、元軍が日没とともに母船に引き返すと、その夜暴風雨がおこり多くの兵船が沈没しました。大損害をこうむった元軍は退却し、合浦まで引き返しました。これを
文永の役といいます。
その後も元軍は日本征服を諦めず、1275年(建治元年)に服属を勧告する使者杜世忠を長門へ送りました。北条時宗は使者一行の5人を鎌倉で切り捨て、徹底抗戦の意思を示し、
異国警固番役を設け九州北部を警備させ、
長門警固番役を設け、長門国守護には北条氏一門を任命しました。これは
長門探題とも呼ばれました。
本来、貴族や寺社などは幕府の命令の及ばない地域でしたが、元寇に備える必要性から守護の指揮下に配置され、本所への年貢は兵糧米として徴収されました。こうして、鎌倉幕府の影響力は貴族や寺社などの「
本所一円地」にも広がっていきました。
1279年(弘安2年)に元は南宋を滅ぼし、
1281年(弘安4年)に2度目の日本遠征軍を派遣しました。忻都・洪茶丘率いる東路軍4万は対馬・壱岐に侵攻し、宋の降将范文虎率いる江南軍10万はその後を追いました。6月に博多湾に侵攻した東路軍は、準備していた日本軍の防戦により上陸を阻まれ、一旦備前の鷹島に退き江南軍の到着を待ちました。寧波を出発した江南軍は7月に日本海近海に到着し、東路軍と合流し総攻撃の体制を整えました。しかし、この時大型の台風がおこり、元の大船団は4000隻の大半が沈み、兵は溺死しました。元軍は4分の3の兵力を失い、無事に帰国できたものは3万人だったといわれています。これを
弘安の役といい、先の文永の役と合わせ
元寇(蒙古襲来)と呼びます。