摂関政治
安和の変以降、摂政・関白が常置され、摂関政治の時代がはじまりました。摂政・関白の地位は藤原忠平の子孫が独占し、これを
摂関家と呼びました。摂関家の中でも、摂関として政治権力を握ったものは藤原氏の「氏の長者」となりましたが、兼通と兼家、道隆と道兼、伊周と道長など、摂関家内で長者をめぐり争いが起こりました。
このような争いに最終的に勝利した
藤原道長は、一族をまとめ上げ、その子頼通の時代に摂関家は全盛期をむかえます。道長は4人の娘を皇后や皇太子妃とし、後一条天皇の外祖父として権力を握り、息子の頼通も外伯父として、
後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の摂政・関白として政治を動かしました。
摂関政治とは天皇の権威や権限を摂政・関白が使い国家を運営していくことですが、当時の貴族社会では夫婦は妻方の家で生活し、その子供は妻の父(外祖父)が養育・後見するという慣行があったため、天皇の外戚、特に外祖父となることが非常に重要でした。
摂関政治の時代、政治のシステムとして律令国家の官制が残っていました。そのため天皇や摂関が太政官の幹部の
公卿(議政官)の合議などを参考に決裁し、それ以外の事項は公卿が処理するという仕組みでした。
摂関は位階の授与(叙位)と官職の任命(除目)に大きな権限を持ち、公卿や皇后・東宮・太上天皇など(院宮王臣家)に官吏を推挙する権利もあったため、任官を希望する貢献物により、摂関などには莫大な富が集まりました。
国際関係の変化
9世紀から10世紀にかけて、東アジアでは様々な変化が起こり、特に中国では
安史の乱をきっかけに907年に
唐が滅亡し、979年に
宋(北宋)が統一するまで、
五代十国の混乱した時代が続きました。
朝鮮半島でも、さまざまな勢力が覇権を争い、最終的に935年に王建が建国した
高麗が朝鮮半島を統一しました。更に、中国東北部では、
耶律阿保機(やりつあぽき)に率いられた契丹族が
遼(契丹)を建国し、926年に
渤海を滅亡させました。
大陸が激動期に入るにつれ、日本は政治的混乱が波及するのを恐れ、孤立主義を取るようになります。この流れを受け、894年(寛平6年)遣唐大使に任命された菅原道真は、
遣唐使の停止を建議しました。
遣唐使の停止後も一定の条件下での交易は行われたものの、政治的な交流は途絶えました。
しかし、10世紀後半に宋が中国を統一すると、
奝然・寂照・成尋などの僧が入宋し、高麗とのあいだでも民間交易が盛んに行われるようになりました。