令制改革
桓武天皇は、26年の長期在位の間に、自ら積極的に政治改革を進めました。地方政治においては、定員外の国司や郡司を廃止し、新たに
勘解由使を設けて、国司交代の事務引き継ぎを厳しく監視させました。任期中に問題がなかった前任国司に対し、新任国司が与える解由状の授与も厳重に審査されるようになりました。
また、従来の兵役を廃止し、新たに
健児の制を設け、郡司の子弟や有力農民の志願により精鋭の健児を採用し、国府の警備や国内の治安維持に当たらせ、九州には選士1320名、陸奥には健士2000名を置き、体外防衛に備えました。
桓武天皇が始めた様々な改革は、その後
平城天皇や
嵯峨天皇にも引き継がれていきます。平城天皇は役人の整理・統合を進め、嵯峨天皇は天皇の秘書官として
蔵人頭や警察・裁判を司る
検非違使を設置し、新しい官職を設けました。
嵯峨天皇は、法制の整備も進め、律令を補足・修正した
格と、施行細則である
式に分類し、
弘仁格式の編纂を命じました。この後も法典の編纂は続き、清和天皇の
貞観格式、醍醐天皇の
延喜格式が編纂され、これらを
三大格式といいます。
三代の格を集めた『
類聚三代格』、式としては『
延喜式』が現代にも残っています。その他、国司交替を規定した延暦・貞観・延喜の『
交代式』、令の条文解釈を統一した『
令義解』が編纂されました。
農村と貴族社会の変化
8世紀後半から
調・庸など租税の貢進が遅れると、次第に国家財政の維持が難しくなっていきました。こうした状況に対処するため、政府は国司・郡司の租税徴収を取り締まり、823年(弘仁14年)に太宰府内に
公営田、879年(元慶3年)に畿内に
元慶官田を設け、財源を確保しようとしました。
官司たちも、次第に自らの収入源として諸司田を持ち、国家から支給される禄に頼れない官人も墾田を集めて自分たちの生活基盤を維持しようとしました。9世紀には、天皇も
勅旨田を持つようになり、皇族にも天皇から
賜田が与えられるようになりました。
こうした中、天皇や皇族と親しい関係の貴族は、立場を利用して私的に多くの土地を集め、勢力を拡大します。この特権的な皇族・貴族は
院宮王臣家(権門勢家)と呼ばれ、その力はますます強大になっていきました。