イギリスと清の貿易関係
18世紀以降、
イギリスは競合国である
ポルトガルや
オランダの勢力を一掃し、
清朝との貿易を独占していました。
ところが1757年以降、乾隆帝の時代に
広州が唯一の
外国貿易港と決められ、諸外国は
公行という清朝が指定した
特許商人(広東十三行)を通じた極端な制限のもと中国との貿易を行わなければなりませんでした。
貿易港が制限され、取引相手が特許商人のみという状況は、
綿織物など製品を売り込み、
茶などの嗜好品を手に入れたいイギリスにとって好ましいものではありませんでした。
イギリスの使節
1793年、ほぼ鎖国状態だった中国の貿易を拡大すべく、イギリスから政府の使節として政治家・外交官でもあった
マカートニーが中国に到着し、乾隆帝に謁見しました。
(マカートニー)
続いて1816年に
アマースト、1834年に
ネーピアが使節として派遣されますが、こうした外交交渉はすべて失敗してしまいます。
外交交渉が失敗した理由は2つありました。まず、当時の中国は資源や生産物が豊富で、イギリスの主力製品である綿織物も自国で作っていたことから、諸外国との貿易を積極的に拡大する意欲がありませんでした。もう一つが中国の伝統的儀礼である
三跪九叩頭の礼を、イギリスの使節団が拒否したことです。
三跪九叩頭は清朝皇帝に謁見する際に必要な中国の伝統儀礼です。(1)「跪」の号令で跪き、「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。(2)「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。(3)「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。(4)「起」の号令で起立する。これを計3回繰り返し、合計9回行うものでした。
こうした清朝の伝統的な儀礼を拒否した結果、中国側がこれをよしとせず、イギリスは度重なる使節の派遣にもかかわらず貿易交渉を締結することができませんでした。
片貿易から三角貿易へ
制限貿易により、イギリスの対清貿易は、イギリス国内で嗜好品として人気の高かった茶を中国から輸入し、代価を銀で支払うものでした。
当時のイギリスと中国のように、2国間の貿易が平等ではなく、一方が輸出超過または輸入超過におちいった状況を片貿易といいます。
同時期、
アメリカ独立戦争が起こり、イギリスは重要な北米植民地を失い、中国への銀の支払いが国家財政の負担になっていきました。
この状況を打開するため、18世紀末にイギリスは恐ろしい解決策をとるようになります。
影響下に置きつつあった
インドで麻薬である
アヘン(阿片)を生産させ、イギリスの綿織物をインドに輸出しアヘンを購入し、インド産アヘンを中国に輸出し茶の代価にあてるという三角貿易を始めたのです。
(片貿易から三角貿易への変化)
アヘンとは、強力な麻酔作用を持つ麻薬です。ケシという植物に傷をつけ、そこから出た樹液をもとに精製します。中毒作用や習慣性が強く、長い期間吸い続けるとやがて廃人になり、死に至ります。清朝のはじめにオランダ人によって中国に持ち込まれましたが、1729年雍正帝により禁令が出されていました。
(アヘンを吸う人々)
三角貿易の結果、中国国内でアヘンを吸う人々の数は爆発的に増え、清朝政府が禁止令を出してもアヘンの密輸は止まりませんでした。1830年代に入ると、アヘンの対価として茶だけでは足りなくなり、ついに中国は銀もイギリスに払わなければならない状況になりました。
当時アヘンの密輸や様々な貿易を担ったのが、1832年に広州に設立されたジャーディン=マセソン商会(中国名:怡和洋行)というイギリスの商社でした。現在でも世界的大企業の一つとして大きな影響力を持っています。
中国から大量の銀がイギリスに流出した結果、中国国内の銀が不足したことで急激に銀の価値が上がりました。その結果、
地丁銀制で税額が決められていた一般民衆の負担が増大し、人々の生活は急速に貧困化していきました。