アメリカの奴隷制とロシアの農奴制
1600年代以降アメリカで初められた
奴隷制度は、イギリス産業革命の影響で大幅に需要が増えた綿花を栽培をするため、18世紀以降拡大されます。
また、中世以来ロシアの農奴制も継続され、
エカチェリーナ2世の治世までに、
ツァーリズムとともに拡大されました。
この2つの制度は、アメリカ、ロシア両国の経済の基盤であったと同時に、
近代化を妨げていた要因でもありました。
それぞれの廃止の経緯
まずアメリカでは、工業生産が主力で、イギリスとの貿易で競合関係にあった北部と、イギリスを第一の顧客とみなし、綿花栽培を主な産業にしていた南部で対立が深まり、
南北戦争(1861年~1865年)がおこります。
奴隷制反対を訴える共和党の大統領
リンカーンは、戦争中の1863年に
奴隷解放宣言を出し、奴隷制度廃止の第一歩が始まります。
南北戦争が終結すると、1865年12月
アメリカ合衆国憲法修正第13条という法案で、奴隷制は正式に禁止されます。
奴隷制の禁止とともに、南部のプランテーションは解体され、アメリカの国内統合が進み、近代産業が発達していくことになります。
一方ロシアの農奴制は、クリミア戦争で大敗した事実を受け、
皇帝アレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を発布し、正式に廃止されました。
アメリカと比べ上からの改革だった農奴解放令の結果、自由になった農民の一部は、都市に流入し工場労働者になったため、その後のロシアの近代化を支える要因になっていきます。