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日米修好通商条約とは?不平等なのになぜ結んだのかをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)とは、江戸幕府がアメリカと結んだ、貿易についての条約です。1858年(安政5年)に調印され、日本は本格的な貿易に踏み出しました。一方で、関税と裁判の面で日本に不利な内容を含み、のちに「不平等条約」と呼ばれます。この記事では、幕府がなぜ条約を結んだのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる日米修好通商条約」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・「不平等」といわれる中身は何か

・アメリカの総領事は、幕府をどう説得したのか

・天皇の許しがないまま、なぜ調印に踏み切ったのか


1分でわかる日米修好通商条約


日米修好通商条約とは、一言でいえば、「イギリス・フランスが来る前に、アメリカと結ぶべきだ」というアメリカ総領事(日本に駐在する外交官)ハリスの説得を受けて、幕府が結んだ条約です。

不平等といわれる2つの中身

輸入品の税率を、日本だけでは決められませんでした(関税自主権がない)。また、日本で罪を犯したアメリカ人は、アメリカの領事がアメリカの法律で裁きました(領事裁判権を認めた)。

ハリスの説得

1856年に下田へ着任したハリスは、貿易の条約を求めましたが、幕府は通商を嫌って応じませんでした。1857年に江戸へ出たハリスは、幕府の老中(政治を担う幹部)の堀田正睦らに、清がイギリス・フランスに攻められている状況を伝え、両国の艦隊が日本にも来るおそれを説きました。先にアメリカと条約を結ぶほうが日本のためだと訴えています。

勅許のないままの調印

幕府は天皇の許可である勅許を求めましたが、得られませんでした。さらに、清に勝ったイギリス・フランスが日本に来るとの知らせを受け、ハリスに調印を迫られました。そして1858年、勅許のないまま調印に踏み切りました。


「不平等なのに、なぜ結んだのか」への答えは、イギリス・フランスの脅威を前に、先にアメリカと結ぶ道を幕府が選んだから、というものです。不平等な部分が直るまでには、この後、半世紀以上かかりました。

おまけトリビア

この条約の調印書は、日本語・英語・オランダ語の3つの言語で作られました。原本は外務省の外交史料館に伝わり、1997年(平成9年)には国の重要文化財に指定されています。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、日米修好通商条約をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■条約の背景


1853年のペリー来航を受けて、幕府は翌1854年に日米和親条約を結びました。この条約で下田と箱館が開かれましたが、貿易の規定はありません。貿易の条約を結ぶためにアメリカが送り込んだのが、初代総領事のタウンゼント・ハリスです。ハリスは1856年(安政3年)に下田へ着任し、玉泉寺に領事館を置きました。

幕府は通商を嫌い、ハリスが江戸に出て将軍に会いたいと何度求めても認めませんでした。状況を変えたのは、アメリカの軍艦が下田に入港したことです。幕府は姿勢を改め、1857年(安政4年)にハリスを江戸城に迎えます。ハリスは13代将軍の徳川家定に大統領の国書を渡し、老中の堀田正睦とも会見しました。

その席でハリスが語ったのは、清の情勢です。当時の清は、イギリス・フランスの連合軍と戦っていました。ハリスは両国の艦隊が日本にも来るおそれを指摘し、まずアメリカと条約を結ぶことが日本にとって有利だと説きます。幕府は条約を結ぶ方向へ動き出しました。

■人物と流れ


年出来事
安政3年(1856年)ハリスが下田に着任し、貿易の条約を求める
安政4年(1857年)ハリスが江戸城で将軍に会い、老中の堀田正睦に英仏の脅威を説く
安政5年(1858年)の初め下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震を全権とする交渉がまとまる
同年、その後堀田正睦が京都で勅許を求めるが、孝明天皇に許されない
安政5年6月19日(1858年)神奈川沖の米艦ポーハタン号の艦上で調印


交渉がまとまっても、調印には進めませんでした。幕府は条約の勅許を得ようと、堀田正睦を京都に上らせます。しかし孝明天皇(こうめいてんのう)は許さず、幕府は勅許が得られないことを理由に、ハリスへ調印の延期を求めました。

状況が動いたのは、安政5年6月の中ごろです。清での戦いでイギリス・フランスが勝ったことが伝わり、両国が日本へ向かうとの情報も入りました。ハリスは両国の脅威を説いて調印を強く促し、大老の井伊直弼は調印に踏み切ります。6月19日、ポーハタン号の艦上で条約が結ばれました。

幕府は同じ年のうちに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びます。まとめて安政の五カ国条約と呼ばれます。

条約は全14か条です。箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港の開港と、江戸・大坂の開市(商取引を認めること)を定め、アヘンの輸入を禁じました。神奈川は実際には横浜、兵庫は現在の神戸にあたります。和親条約で開かれた下田は、神奈川の開港から6か月後に閉じられることになりました。

貿易が始まると、輸出が急増した生糸が品不足になり、物価が高騰します。金と銀の交換比率が日本と外国で違ったため、金貨が大量に海外へ流れ出し、経済は混乱しました。

■史実と学説


「井伊直弼(いいなおすけ)が条約に調印した」という言い方をよく見かけますが、これは少し圧縮された表現です。井伊直弼は大老、つまり幕府の最高職として調印に踏み切った立場でした。ポーハタン号に赴いて実際に署名したのは、下田奉行の井上清直(いのうえきよなお)と目付の岩瀬忠震(いわせただなり)です。井伊直弼が自ら主導したのか、勅許を得てからの調印を主張しながら押し切られたのかは、書き方が分かれています。

この条約を「不平等条約」と呼ぶこと自体は定着した評価です。関税自主権のない協定関税と領事裁判権を柱に挙げる点は共通していて、これに片務的な最恵国待遇(日本だけが相手国に最恵国待遇を与える形)を加えて説明されることもあります。


■その後と条約改正


不平等な内容は、直すまでに長い時間がかかりました。領事裁判権の撤廃が実現したのは1894年(明治27年)、関税自主権の回復は1911年(明治44年)です。調印から数えて半世紀以上、条約改正は明治政府の大きな課題であり続けました。

試験に出るポイント

「1858年・日米修好通商条約・無勅許調印」が基本セットです。不平等の中身は関税自主権がないことと領事裁判権を認めたことの2点を答えられるようにしておきましょう。開港場は「箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫」、開市は「江戸・大坂」で、下田が入っていない点が引っかけになります。

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日本史用語集 山川出版

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