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17_80 近代日本の形成とアジア / 開国・明治維新

松下村塾の塾生たちのその後とは?明治まで生き残ったのは誰かをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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このテキストでは、松下村塾の主だった塾生たちのその後について扱っています。萩(はぎ)にあった吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ若者たちは、幕末の京都で命を落とした者、長州藩を倒幕へ導いた者、明治の政府の中心になった者に分かれました。この記事では、「明治まで生き残ったのは誰か」を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる松下村塾の塾生たちのその後」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・幕末の京都で倒れた塾生は、誰だったのか

・高杉晋作と奇兵隊は、長州藩をどう動かしたのか

・明治まで生き残った塾生は、新しい国で何をしたのか


1分でわかる松下村塾の塾生たちのその後


松下村塾の塾生たちのその後は、一言でいえば「幕末の動乱で倒れた者と、明治の政府を担った者に分かれた」という話です。

京都で倒れた塾生たち

1864年、京都で新選組が長州藩士らを襲った池田屋事件で吉田稔麿が、その後の禁門の変で久坂玄瑞と入江九一が、それぞれ命を落としました。禁門の変は、長州藩が京都の御所の周辺で会津藩や薩摩藩などと戦って敗れた戦いです。

藩を倒幕へ導いた高杉晋作

高杉晋作は、農民や町人も加わった奇兵隊をつくりました。のちに長州藩の主導権を握り、藩を幕府と戦う方向へ進めています。倒幕とは、幕府を倒そうとすることです。しかし高杉は1867年、肺結核のため明治を待たずに世を去りました。

明治の政府を担った伊藤博文と山県有朋

伊藤博文は1885年に初代の内閣総理大臣となり、山県有朋は第3代と第9代の内閣総理大臣を務めました。品川弥二郎や山田顕義も塾生のひとりで、明治の政府で活躍しました。


同じ萩の塾で学んだ若者の一部は明治を待たずに命を落とし、別の一部は明治に内閣を率いる側に立ちました。明治まで生き残った塾生の代表が、伊藤博文と山県有朋です。

おまけトリビア

山県有朋は、高杉晋作がつくった奇兵隊に加わっていました。のちに徴兵令を進めて軍の制度を整える人物は、若いころ、同じ塾で学んだ仲間のつくった部隊に加わって活躍していました。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、塾生たちのその後をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■松下村塾は、どんな塾だったのか


松下村塾は、長州藩の萩城下にあった松本村(現在の山口県萩市)の私塾です。もとは吉田松陰の叔父、玉木文之進が開いた塾で、松陰は創立者ではなく、その塾を引き継いだ人物にあたります。

松陰は身分や階級にとらわれず、若者を塾生として受け入れました。この塾から、のちに明治維新で活躍する人材が多く出ました。ただし松陰が塾生を直接教えた期間は限られていました。1858年の末に松陰が投獄されると、松陰の指導はそこで終わります。塾生たちの「その後」は、師のいない状態から始まったことになります。

■幕末の京都で倒れた塾生たち


1864年、京都では長州藩にとって重い出来事が続きました。まず、新選組が京都の池田屋に集まっていた長州藩士らを襲う池田屋事件が起きます。吉田稔麿は、この事件で命を落とした塾生のひとりです。

知らせを受けた長州藩では、京都へ兵を進めるべきだという声が強まりました。長州藩は御所の周辺で会津藩や薩摩藩などと戦いますが、敗れます。禁門の変です。久坂玄瑞はこの戦いのなかで亡くなりました。久坂は高杉晋作と並ぶ塾の逸材で、「松下村塾の双璧」と呼ばれた人物です。入江九一も塾生のひとりで、同じ禁門の変で命を落としました。高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿の4人は、「松門の四天王」と呼ばれました。このうち稔麿・久坂・入江の3人は1864年に、高杉は1867年に世を去り、4人とも明治を迎えることはありませんでした。

出来事 時期
---------
吉田稔麿 池田屋事件で命を落とす 1864年
久坂玄瑞 禁門の変で命を落とす 1864年
入江九一 禁門の変で命を落とす 1864年


■高杉晋作と奇兵隊


高杉晋作は、1863年に奇兵隊をつくりました。武士だけでなく農民や町人も加わった部隊です。長州藩は外国の艦隊と戦って敗れ、さらに禁門の変にも敗れて苦しい立場に立たされていました。

禁門の変のあと、幕府は長州藩を攻める長州征討に乗り出し、長州藩では幕府に従う姿勢を取る保守的な一派が実権を握りました。その後、高杉晋作は下関で挙兵し、この一派を退けます。こうして倒幕を目指す派が長州藩の主導権を握り、藩は幕府と戦う方向へ進みました。松下村塾で学んだ若者の一人が、藩の進路そのものを動かしたことになります。しかし高杉晋作は肺結核を患い、1867年に世を去り、明治を迎えることはありませんでした。

■明治まで生き残った塾生たち


一方、明治を迎えた塾生は、新しい国の中枢に入っていきます。

伊藤博文は、1885年に内閣制度ができると、初代の内閣総理大臣になりました。山県有朋は松下村塾に学んだのち、明治になると徴兵令を進めて軍の制度を整え、第3代と第9代の内閣総理大臣を務めています。品川弥二郎や山田顕義も同じ塾で学んだ塾生で、明治の政府で活躍しました。

ただし、明治まで生き残った塾生が、みな新しい政府に従ったわけではありません。前原一誠のように、1876年に萩で起きた元武士たちの反乱、萩の乱に加わった元塾生もいました。

■史実と学説


はっきりしているのは、同じ塾から、幕末の動乱で倒れた者と、明治の政府を担った者の両方が出たことです。一方で、細かい点は資料によって書き方が分かれます。

まず、誰を塾生に数えるかは、資料によって幅があります。山県有朋については、国立公文書館・国立国会図書館では「松下村塾に学んだ」と書かれている一方で、松陰が藩校の明倫館で教えた弟子であり松下村塾には入塾していない、とする記述もあります。

松陰が塾を主宰し始めた年は、資料により1855年から1858年までの幅があります。


■トリビアの真相


山県有朋と高杉晋作は、塾を出たあとにもう一度交わっています。高杉がつくった奇兵隊に、山県が加わっていたからです。

奇兵隊は農民や町人も加わった部隊で、国民から兵を集める徴兵令とは別のしくみです。それでも山県有朋は、農民や町人も加わる部隊を経験したのち、明治になって新しい軍の制度づくりを進めました。

試験に出るポイント

松下村塾を開いたのは吉田松陰ではなく、叔父の玉木文之進です。また、塾生には、幕末の動乱で倒れた者と、伊藤博文や山県有朋のように明治の政府を担った者の両方がいます。

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日本史用語集 山川出版

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