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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 戦国時代・安土桃山時代

清洲同盟とは?信長と家康が20年守った同盟をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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清洲同盟(きよすどうめい)とは、戦国時代の1562年に、尾張の織田信長と三河の徳川家康(当時の名は松平元康)が結んだ同盟です。この記事では、清洲同盟が結ばれた背景と、裏切りが当たり前だった戦国時代になぜ約20年も続いたのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる清洲同盟」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・信長と家康、それぞれの事情

・なぜ20年も同盟が続いたのか

・「同盟はいつ成立したのか」をめぐる新しい説


1分でわかる清洲同盟


清洲同盟とは、一言でいえば、織田信長と徳川家康が背中を預け合った、戦国では異例に長続きした同盟です。

1562年、尾張の清洲城で手を結んだ

尾張の織田信長と、三河の松平元康(のちの徳川家康)が手を結びました。信長の居城だった清洲城の名から、清洲同盟と呼ばれます。

きっかけは桶狭間の戦い

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれます。今川氏のもとで人質として育った元康は、父祖の岡崎城を取り戻し、自立への道を歩み始めました。

約20年続いたのは異例

同盟は1582年の本能寺の変で信長が倒れるまで続きます。同盟の締結と破棄が日常だった時代に、これは珍しいことでした。


信長は東の守りを家康に任せ、美濃攻略から上洛へと西に力を注ぐことができました。家康のほうも、今川氏や武田氏という強敵に囲まれながら滅びずに済み、三河から遠江・駿河へと領国を広げていきます。

おまけトリビア

同盟の舞台になった清洲城に、信長はその後長くはいませんでした。翌1563年、美濃の斎藤氏との戦いに備えて小牧山城へ本拠を移しています。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、清洲同盟をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

清洲同盟の背景


1560年の桶狭間の戦いは、東海地方の力関係をひっくり返しました。駿河の今川義元が討たれ、その支配下にあった三河の松平氏は、主君を失った今川氏真のもとに残るか、離れるかの選択を迫られます。

元康が選んだのは離反でした。今川軍が引き払った岡崎城に入り、三河国内の親今川勢力を攻め始めます。これに怒った氏真は、1561年、今川方に置かれていた松平側の人質を殺害しました。東の今川氏と決定的に敵対した以上、西の尾張とだけは争えない。元康の伯父にあたる水野信元は先に信長と結んでおり、その仲介もあって、両家は接近していきます。両家の橋渡し役となったのは、人質時代から元康に付き従った家臣の石川数正で、織田方との交渉にあたりました。

もっとも、織田氏と松平氏はもともと宿敵でした。信長の父・織田信秀の代から戦い続けた間柄で、家臣どうしの遺恨も深く、話はすぐにはまとまりません。

信長と家康、それぞれの事情


信長の側にも理由がありました。このころ信長は美濃の斎藤氏と交戦中で、尾張の統一も途上です。美濃に兵を向けている間に東の三河から攻められては、たまりません。背後が安全になるなら、三河との和解には十分な価値がありました。

一方の元康は、三河一国をまとめるために今川氏と正面から戦わねばならず、西を気にする余裕がありませんでした。守りたい方角が正反対だったこと。これが、宿敵どうしを結びつけた最大の理由です。

できごと
1560年桶狭間の戦い。今川義元が討たれ、元康は岡崎城に入る
1561年今川氏真が松平側の人質を殺害。今川氏と断交
1562年清洲で織田氏と同盟(清洲同盟)
1564年三河国内の一向一揆を鎮圧し、三河平定に成功
1582年本能寺の変。信長の死により同盟は終わる


家康は1563年から翌年にかけて三河国内の一向一揆に手を焼きますが、これを乗り切って三河平定を果たします。西を気にしなくてよかったことが、ここで効きました。

なぜ20年も壊れなかったのか


戦国時代の同盟は、そのほとんどが結んでは破られるものでした。そのなかで、信長が倒れるまでの約20年間、この同盟が維持されたのは異例のことです。

理由のひとつは、両者の利害が長く噛み合い続けたことです。信長にとって家康は、今川氏、のちには武田氏に対する東のでした。おかげで信長は後顧の憂いなく美濃を攻略し、上洛して西へ勢力を広げられます。家康の側は、自国より経済力でも兵力でも勝る相手に囲まれていましたが、信長の援助を取り付けることで滅ぼされずに済み、最終的にはその相手から領地を奪いました。

ただし、対等な関係が最後まで続いたわけではありません。信長の勢力が畿内から北陸・中国へと広がるにつれ、両者の力の差は開いていきます。1582年の甲州征伐のあと、家康は武田氏の旧領のうち駿河一国を与えられますが、それを受け取るために安土城の信長のもとへ出向いていました。形のうえでは同盟者でも、実質は従属に近い関係へ変わっていたのです。

史実と学説


清洲同盟は、実は史料の上でよく分からない点が多い出来事でもあります。

まず、成立の時期が確定していません。1562年(永禄5年)1月とするのが一般的で、教科書もこの年で説明していますが、前年の1561年とする記述もあり、さらに1563年説、1567年説も唱えられています。

次に、家康が清洲城に出向いて信長と会見したという有名な場面についても、疑いが出ています。この会見を記すのは、江戸幕府がまとめた歴史書などです。徳川家の歩みを家の側でまとめた記録には、会見の場面が出てきません。今川氏と戦っている最中の家康に、岡崎城を留守にして清洲まで行く余裕はなかったはずだ、という指摘もあります。

さらに、同盟の中身についても議論があります。1562年以降、信長は斎藤氏と、家康は今川氏と戦っていますが、互いに援軍を送った形跡が確認できません。そこで、この段階ではまだ国境を定めた和睦にとどまり、「攻められたら助ける」という軍事同盟に格上げされたのは、家康の嫡男・松平信康と信長の娘・徳姫の婚姻が成立した1567年ごろだ、とする見方が有力になっています。

成立時期・会見の有無・同盟の性格のいずれについても、研究者の間で説が分かれています。清須同盟と書かれることもあります。


トリビアの真相


清洲城は、もともと尾張の守護所が置かれた城で、尾張支配の中心でした。信長は1555年にこの城を手に入れて本拠とし、1560年の桶狭間の戦いにもここから出陣しています。清洲同盟の名は、この城で同盟が結ばれたと伝えられることに由来します。

ところが信長は、同盟の翌1563年には小牧山城へ本拠を移してしまいます。美濃攻略のため、より前線に近い場所を選んだのです。同盟の名として城の名は歴史に残ったのに、当の信長は早々にその城を出ていた。名前と実態が少しずれています。

なお1582年の本能寺の変のあと、信長の後継をめぐって重臣たちが話し合った清洲会議が開かれたのも、この城でした。

試験に出るポイント

「1562年・清洲・織田信長と松平元康(徳川家康)」の3点セットが基本です。桶狭間の戦い(1560年)で今川氏から自立した家康が、この同盟を背景に三河の一向一揆を鎮圧して三河を平定した、という流れで押さえておくと得点しやすくなります。

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日本史用語集 山川出版

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