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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 戦国時代・安土桃山時代

姉川の戦いとは?浅井長政の離反から決戦までをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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姉川の戦い(あねがわのたたかい)とは、1570年(元亀元年)6月28日、近江の姉川(現在の滋賀県長浜市)で、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉軍を破った戦いです。この記事では、信長の妹婿・浅井長政の離反から決戦、その後の浅井・朝倉氏の滅亡までを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる姉川の戦い」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。

・なぜ「妹の夫」は信長を裏切ったのか

・形勢を変えたのは誰だったのか

・「姉川の戦い」という名前は誰がつけたのか


1分でわかる姉川の戦い


姉川の戦いとは、一言でいえば、義理の弟に裏切られた信長が、その決着をつけた一戦です。

同盟から裏切りへ

信長は妹のお市の方を北近江の大名・浅井長政に嫁がせ、同盟を結んでいました。これには、越前の朝倉氏を牽制する狙いがありました。しかし1570年4月、信長が越前の朝倉氏を攻めた隙に長政が離反。挟み撃ちの危機に陥った信長は、命からがら京へ退きます(金ヶ崎の退き口)。殿(しんがり)を務めたのは木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らと伝わります。


徳川勢が形勢を変えた

2か月後の6月28日、両軍は姉川で激突します。序盤は浅井・朝倉方が優勢でしたが、徳川家康の軍の働きで形勢は逆転し、織田・徳川連合が勝利しました。なお朝倉軍を率いたのは当主の朝倉義景ではなく、一族の朝倉景健です。

浅井・朝倉の滅亡へ

戦いはこの後も約3年続き、1573年に朝倉氏・浅井氏は相次いで滅亡します。お市と3人の娘は生き延び、長女の茶々はのちの淀殿(豊臣秀吉の妻)となりました。


姉川の勝利で信長は畿内での主導権を固めていきます。妹婿の裏切りから始まったこの戦いは、信長の天下への道の、大きな分かれ目でした。

おまけトリビア

「姉川の戦い」という名前は徳川方の呼び方とされ、織田・浅井側は布陣地の名から「野村合戦」、朝倉側は「三田村合戦」と呼んだと伝わります。勝者の呼び名が歴史に残ったんですね。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、姉川の戦いをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

姉川の戦いの背景


浅井長政はなぜ裏切ったのか。よく「浅井家は先祖代々、朝倉家と同盟していたから」と説明されますが、実は離反の理由をはっきり書いている資料はなく、諸説あるのが現状です。攻められる側になる恐れ、信長との関係悪化、将軍・足利義昭の働きかけなど、複数の説が並び立っており、確定していません。

確かなのは、信長にとってこの裏切りが生涯有数の危機だったことです。越前で挟み撃ちの形になった信長は、わずかな供で京へ逃れました。この退却が「金ヶ崎の退き口」です。

経過と流れ


時期出来事
1570年4月信長の越前攻めの最中、浅井長政が離反(金ヶ崎の退き口)
6月28日 未明両軍が姉川を挟んで布陣
戦闘開始。序盤は浅井・朝倉方が優勢
その後徳川勢の働きで形勢逆転。織田・徳川方の勝利
戦後浅井方の横山城が降伏。木下秀吉が城番に


「序盤は浅井・朝倉が押し、徳川の働きで逆転した」という流れは、地元の長浜城歴史博物館を含む複数の資料が一致して伝える骨格です。

史実と学説


兵力は、織田・徳川軍が1万3千から4万、浅井・朝倉軍が1万3千から3万まで、史料によって3倍近い開きがあります。この記事で兵数を書いていないのはそのためです。

また、「浅井方の磯野員昌が織田の陣を十一段まで突き崩した」という有名な逸話(十一段崩し)は、江戸時代の軍記物『浅井三代記』が初出で、同時代に近い『信長公記』などには見えないことから、後世の創作という見方が強いとされます。劇的な名場面ほど、由来の確認が大切な例です。

朝倉方の大将を「朝倉義景」と書く資料もありますが、複数の資料は一族の朝倉景健としています。義景本人は姉川に出陣していません。


トリビアの真相


要約で触れた呼称の話は、布陣地の地名に由来します。織田・浅井方が布陣した野村、朝倉方が布陣した三田村——現在の長浜市野村町・三田町の地名と符合しており、それぞれの側が自分の戦った場所で戦いを呼んだ、という筋の通った由来です。資料にも「野村合戦」「三田村合戦」の別名が併記されています。

そして戦後の小さな人事がひとつ。横山城の城番を任されたのが木下秀吉、のちの豊臣秀吉でした。秀吉と近江の縁はここから始まります。

試験に出るポイント

1570年・織田信長+徳川家康 vs 浅井長政+朝倉氏・場所は近江(滋賀県)。浅井長政が「信長の妹お市の方の夫」である関係と、この戦いが1573年の浅井・朝倉氏滅亡につながる流れが頻出です。

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日本史用語集 山川出版

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