山崎の戦い/山崎合戦とは、1582年(天正10年)6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破った戦いです。本能寺の変から、わずか11日。この短さで決戦にたどり着いた秀吉の行軍が、有名な
中国大返しです。この記事では、戦いの経過と「天下分け目の天王山」の真相を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる山崎の合戦」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。
・およそ200キロを引き返した「中国大返し」の実像
・「天下分け目の天王山」は本当にあったのか
・光秀の天下は、結局どれだけ続いたのか
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1分でわかる山崎の合戦
山崎の合戦とは、一言でいえば、羽柴秀吉が「信長の後継者」の座を決定的にした一戦です。
1582年6月13日、山城と摂津の境
本能寺の変の報せが届いたとき、秀吉は備中高松城で毛利氏と戦っていました。秀吉は毛利氏と急いで和睦を結んで軍を返し、6月13日、京の南西にあたる山崎で光秀の軍とぶつかります。
勝敗を分けた「中国大返し」
備中から山崎まで、およそ200キロ。秀吉はこの道のりを10日たらずで駆け戻ったとされます。信長の弔い合戦という大義を掲げた秀吉のもとには、織田信孝(信長の次男)や丹羽長秀ら織田家の武将が集まりました。
光秀の天下は11日で終わった
敗れた光秀は勝竜寺城を脱出し、居城の坂本を目指す途中、小栗栖で襲われて命を落とします。本能寺の変から、およそ11日。俗にいう「三日天下」の実際の長さです。
秀吉はこの勝利で「主君の仇を討った男」となりました。6月27日、尾張の清洲城で開かれた
清洲会議では、信長の嫡孫にあたる3歳の
三法師(さんぼうし)、のちの織田秀信(おだひでのぶ)が織田家の家督を継ことの確認と、信長の領地の再配分が行われました。信長の存命中は筆頭家老の柴田勝家が最も強い発言力を持っていましたが、この会議を境に、織田家の主導権は秀吉へ移ります。戦国のバトンは、ひと月足らずでまるごと渡ってしまいました。
おまけトリビア
勝負どころを「天王山」と呼ぶのは、この山崎の戦いが由来です。ただし、天王山を奪い合ったという名場面そのものは、後の世に作られた話とみられています。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、山崎の合戦をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■山崎の合戦の背景
1582年6月2日、織田信長が京都の本能寺で明智光秀に討たれます。天下統一を目前にした主君の死。このとき織田家の主力は各地に散らばっており、なかでも秀吉は中国地方で毛利氏と対峙していました。
秀吉が攻めていたのは備中高松城です。城を水に沈める大がかりな攻城戦の最中に、変の報せが届きました。秀吉はすぐさま毛利方と和睦をまとめ、軍を東へ返します。背後に毛利軍がいる状態での撤退は、本来なら命取りになりかねない判断でした。
一方の光秀は、京や近江をおさえ、朝廷にも働きかけて新しい体制を固めようとしていました。ただ、その足場が整うより先に、秀吉が畿内へ戻ってきます。
■経過と流れ
| 時系列 | 出来事 |
| 6月2日 | 本能寺の変。信長が討たれる |
| 6月上旬 | 秀吉が毛利氏と和睦し、備中から反転(中国大返し) |
| 6月13日 昼 | 山崎で両軍が川をはさんで対陣 |
| 6月13日 夕 | 戦端が開かれ、池田恒興らが側面を突く。明智軍は総崩れ |
| 6月13日 夜 | 光秀が勝竜寺城を脱出。小栗栖で落命 |
| 6月27日 | 清洲会議。信長の嫡孫・三法師の家督相続が決まり、推した秀吉が主導権を握る |
戦いそのものは数時間で決着したと記されます。長い前振りに対して、本番はあっけないほど短い一日でした。
■合戦のあと──清洲会議
光秀を討ってから数週間後の6月27日、織田家の重臣が尾張の清洲城に集まりました。議題は2つ。信長の後継を誰にするかと、遺された領地をどう配り直すかです。顔をそろえたのは柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興、そして羽柴秀吉の4人でした。
決まったのは、信長の嫡孫・三法師が織田家の家督を継ぐことです。(三法師が家督を継ぐことは信長の存命中から決定事項だったとする説もあります)。当時わずか3歳だったため、幼い当主を重臣たちが支える体制がとられ、その身のまわりを預かる後見役として堀秀政(ほりひでまさ)が付きました。あわせて領地も配り直され、秀吉は山城と河内を得て、加増の幅は4人のなかで最大となります。信長の存命中は勝家が筆頭家老として最も強い発言力を持っていましたが、この会議を境に、その座は秀吉へ移りました。
秀吉が幼い三法師を担ぎ出して会議を制した、という筋書きはよく知られています。ただ近年は、嫡孫の三法師が家督を継ぐこと自体に異論はなく、争点はむしろ幼い当主を誰が支えるかにあった、という見方も示されています。どちらの見方でも共通しているのは、光秀を討った功績が会議の場で秀吉の発言力を押し上げたことです。そしてこのとき勝家との間に生まれた溝が、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながっていきます。
■史実と学説
いちばん有名なのは「天王山を先に取ったほうが勝つ」という筋書きです。ところが、この争奪戦を裏づける確かな記録は見あたらず、後世の軍記物などによる脚色とみられています。実際に勝敗を左右したのは、秀吉が驚くほど早く戻ったこと、味方を増やす政治力、そして「信長の仇討ち」という大義名分が重なった結果だった、と考えられています。
数字については慎重に見る必要があります。中国大返しの距離はおよそ200キロとされますが、日数は起点の取り方によって7日ほどとも10日ほどとも書かれ、一致していません。両軍の兵力も、秀吉方2万数千から4万以上、光秀方1万6千から1万7千など、資料によって幅があります。
光秀の最期も、落ち武者狩りに殺されたとも、深手を負って自害したとも伝えられ、細部は定まっていません。「三日天下」という言い回しも実数ではなく、本能寺の変から山崎までは11日ないし12日と記されます。
■トリビアの真相
天王山は、山崎の地に実在する山です。この戦いを機に、「天王山」の3文字は勝負の分かれ目そのものを指す言葉になりました。受験でも試合でも使われる、日常にすっかり溶けこんだ比喩表現です。
面白いのは、言葉のほうだけが生き残ったことです。山の奪い合いが勝敗を決めたという話は確かめられていないのに、比喩は今日も現役で使われています。物語の力が、事実より長生きした例と言えるかもしれません。
試験に出るポイント
1582年・羽柴秀吉が明智光秀を破る・場所は山崎(現在の京都府大山崎町一帯)。本能寺の変の直後であること、中国大返しとセットで問われること、この勝利が清洲会議での三法師の家督相続を経て秀吉の主導権につながる流れが頻出。当時の秀吉は豊臣秀吉ではなく「羽柴秀吉」である点にも注意。