アッカド人とメソポタミアの統一
紀元前24世紀、北方の東セム語系民族であるアッカド人が台頭しました 。彼らはシュメール人を征服し、メソポタミア初の統一国家を建設しました 。 アッカド王国の創始者サルゴン1世は、アッカドとシュメールの両地方を含む全メソポタミアを統一し、「全土の王」と称しました 。その後、第4代の王ナラム・シンの時代には、ペルシア湾から地中海沿岸に至る広大な領域を支配し、版図は最大となりました 。アッカド人が使用したアッカド語は、古代オリエントの共通語となりました 。 しかし、アッカド王国は約1世紀後、都市国家の離反や異民族の侵入を受けて滅亡しました 。その後、シュメール人が勢力を盛り返し、ウル第3王朝(前2114頃~前2004頃)のもとで再びメソポタミア全土を統一しました 。ウル第3王朝は、度量衡の統一や法典の編纂(ウルナンム法典)などを行い、統治制度を整備しました 。しかし、紀元前3千年紀末、西方と北方から西セム語系のアムル人が侵入し、シュメール人最後の国家であるウル第3王朝は滅亡しました 。これ以降、シュメール人は政治的な勢力を失い、歴史の表舞台から姿を消していきました 。
古バビロニア王国とハンムラビ王
紀元前19世紀初め、アムル人はバビロンを都とするバビロン第1王朝(古バビロニア王国)を樹立しました 。この王朝の時代から、シュメールとアッカドの両地域を合わせて「バビロニア」と呼ぶようになりました 。 バビロン第1王朝の第6代の王ハンムラビ(在位 前1792頃~前1750頃)は、周辺諸国を征服してメソポタミア全土を統一し、中央集権国家を確立しました 。彼は運河の建設などの治水・灌漑事業を推進し、交通網を整備して商業を発展させました 。 ハンムラビ王の最大の功績の一つは、「ハンムラビ法典」の制定です 。彼はシュメール法などを継承し、法に基づく統治を目指しました 。スサで発見された石碑に刻まれたこの法典は、全282条からなり、刑法、商法、民法など多岐にわたる規定を含んでいます 。 ハンムラビ法典の特徴として、「目には目を、歯には歯を」という同害復讐の原則がよく知られています 。これは、被害者が加害者に対して無制限な報復を行うことを防ぐための規定でもありました 。また、被害者や加害者の身分によって刑罰に差が設けられていたことも大きな特徴です 。法典のあとがきには、「強者が弱者を虐げないように」制定したという王の意志が記されています 。 しかし、バビロン第1王朝は紀元前16世紀初め、アナトリアから侵入したヒッタイトによって滅ぼされました 。