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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

ウィリアム3世とは わかりやすい世界史用語2720

著者名: ピアソラ
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ウィリアム3世の生涯

ウィリアム3世として知られるオラニエ公ウィレムは17世紀後半のヨーロッパ政治において中心的な役割を果たした人物です。彼の生涯はオランダ共和国の存亡をかけた闘いとイングランド、スコットランド、アイルランドの王位獲得という二つの大きな舞台で展開されました。彼はフランス王ルイ14世の膨張主義に対抗するプロテスタント勢力の擁護者としてまたイングランドにおける議会主権の確立に道を開いた名誉革命の主導者としてその名を歴史に刻んでいます。彼の人生は誕生の瞬間から死の床に至るまで絶え間ない政治的陰謀、外交的駆け引きそしてヨーロッパ大陸を巻き込む大規模な戦争の連続でした。
ウィリアムはオランダの有力なオラニエ=ナッサウ家に生まれながら父の早世と共和派勢力の台頭により不遇な幼少期を過ごします。しかしフランスによる侵略という国家的危機の中で彼は突如としてオランダの指導者へと押し上げられ若くしてその軍事的、政治的手腕を発揮することになります。彼の視線は常にヨーロッパの勢力均衡を脅かすルイ14世に向けられていました。このフランスとの生涯にわたる対決が彼の行動のすべてを方向づける不動の軸となっていきます。
その闘争の一環として彼はイングランドのスチュアート王家の王女メアリーと結婚しやがて舅であるジェームズ2世のカトリック政策と専制政治に対抗するためイングランドのプロテスタント貴族たちの招聘に応じます。軍を率いてイングランドに上陸した彼の行動は無血のうちにジェームズ2世を追放へと導き「名誉革命」として知られる政変を成功させました。この革命により彼は妻メアリーと共にイングランド、スコットランド、アイルランドの共同統治者となり王権に対する議会の優位を定めた「権利の章典」を承認します。これは立憲君主制への道を決定づけた画期的な出来事でした。
しかし王位は彼に安息をもたらしませんでした。彼はアイルランドやスコットランドで追放されたジェームズ2世を支持するジャコバイト勢力との戦いを強いられ同時にヨーロッパ大陸ではフランスとの間で「大同盟戦争」として知られる長期にわたる大規模な戦争を指揮しなければなりませんでした。彼の治世は戦争の遂行とイングランド議会との絶え間ない交渉に費やされます。
ウィリアムは冷徹で近寄りがたい人物と評されることが多く、イングランドの臣民から心からの愛情を寄せられることはありませんでした。しかしその不屈の意志とヨーロッパの自由を守るという揺るぎない目的意識は敵であるルイ14世からも敬意を払われるほどでした。

誕生と家系

ウィリアム3世、オラニエ公ウィレム=ヘンドリックは1650年11月4日ハーグのビネンホフ宮殿で生まれました。彼の誕生はオランダ共和国が政治的な激動の渦中にある中で迎えられました。彼の父はオラニエ公ウィレム2世、母はイングランド王チャールズ1世の長女であるメアリー=ヘンリエッタ=スチュアートでした。この血筋は彼にオランダの指導者としての地位とイングランド王位への請求権という二重の遺産をもたらすことになります。
しかし彼の誕生は輝かしい祝福に満ちたものではありませんでした。父であるウィレム2世はウィリアムが生まれるわずか8日前に天然痘によって24歳の若さで急逝していました。このためウィリアムは生まれた瞬間からオラニエ公の称号を継承したものの父の持つオランダ総督の地位を自動的に受け継ぐことはできませんでした。
父ウィレム2世は野心的な人物であり自らの権力を強化しオラニエ家の影響力を世襲的な君主制に近いものにしようと試みていました。彼はスペインとの三十年戦争を終結させたミュンスター条約に反対しフランスと連携して南ネーデルラント(現在のベルギー)を征服することを計画していました。その政策はホラント州を中心とする裕福な商人階級のエリートたちとの深刻な対立を引き起こしました。彼らは平和と貿易を重視しオラニエ公の軍事的な野心と中央集権的な傾向を共和国の自由に対する脅威と見なしていました。ウィレム2世は対立するホラント州の指導者たちを投獄しアムステルダムを軍事的に威圧するなど強硬な手段に訴えましたがその計画の半ばで病に倒れたのです。
父の死はオランダの政治情勢を一変させました。ウィレム2世の政敵であった共和派、特にホラント州の指導者たちはこの機を逃さず権力の空白を埋めました。彼らはオラニエ公が代々世襲してきた総督の職を空席とすることを決定しました。これによりオランダ共和国は1650年から1672年までの22年間「第一次無総督時代」として知られる時代に入ります。この時代オランダの政治はホラント州法律顧問であったヨハン=デ=ウィットによって事実上指導されることになりました。共和派は一人の強力な指導者に権力が集中することを警戒し各州の主権と寡頭制的な都市貴族による統治を重視したのです。
このような状況下で生まれたウィリアムはオラニエ家の将来を一身に背負う存在であると同時に共和派にとっては常に警戒すべき潜在的な脅威でした。彼の幼少期は母メアリーと父方の祖母であるアマーリエ=フォン=ゾルムス=ブラウンフェルスそしてプロイセン選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムといった彼の後見を主張する親族たちとデ=ウィット率いる共和派政府との間の絶え間ない権力闘争の中で過ぎていきました。
母メアリーは嫁ぎ先のオランダよりも故国イングランドのスチュアート家への強い愛着を持ち続け、息子の教育に関してもイングランド的な価値観を植え付けようとしました。一方祖母アマーリエはより現実的な政治感覚を持ち孫が将来オランダの指導者として返り咲くために共和派との協調も辞さない姿勢を見せました。この二人の女性の対立は幼いウィリアムの周囲に複雑な人間関係の網を張り巡らせました。
さらに彼の立場を複雑にしたのはイングランドとの関係でした。1651年オリバー=クロムウェル率いるイングランド共和国はオランダの海上貿易に打撃を与えることを目的とした航海法を制定し、これが第一次英蘭戦争(1652–1654)を引き起こしました。戦争に敗れたオランダはウェストミンスター条約の締結を余儀なくされますが、その際クロムウェルは秘密条項として「除外条項」をデ=ウィットに要求しました。これはホラント州がウィリアムまたはその子孫を永久に総督の地位に就かせないことを誓約させるものでした。クロムウェルはスチュアート家の血を引くウィリアムがオランダの権力を握り亡命中のチャールズ2世(ウィリアムの叔父)を支援することを恐れたのです。この条項はオランダ国内で大きな政治問題となりましたがデ=ウィットは平和を維持するためにこれを受け入れざるを得ませんでした。
ウィリアムはこのような政治的な逆風の中で孤独な少年時代を送りました。彼はカルヴァン主義の厳格な教義と古典教育を施され、若くして自らの置かれた複雑な立場とオラニエ家に寄せられる期待を深く自覚するようになります。彼は感情を表に出さず用心深くそして自らの運命を冷徹に見据える早熟な少年に成長していったのです。
オランダ総督就任

ウィリアムの運命が劇的に転換したのは1672年のことでした。この年はオランダの歴史において「災厄の年」として記憶されています。フランス王ルイ14世がイングランド王チャールズ2世やミュンスター司教、ケルン選帝侯と同盟を結びオランダ共和国に対して大規模な侵略戦争を開始したのです。
災厄の年

フランスの圧倒的な大軍はほとんど抵抗を受けることなくオランダの国境を越えユトレヒトをはじめとする主要な都市を次々と占領していきました。オランダの陸軍は長年の平和の中で弱体化しており、フランス軍の猛攻の前に為すすべもなく崩壊しました。国家存亡の危機に直面し国民の間にはパニックと指導者であったヨハン=デ=ウィットに対する激しい怒りが広がりました。多くの人々はこの危機を乗り越えることができるのはかつてスペインから国を救ったオラニエ家の末裔しかいないと信じるようになりました。
民衆の圧力に屈する形でホラント州をはじめとする各州は次々とウィリアムを総督に任命しました。21歳のウィリアムは突如として崩壊寸前の国家の指導者という重責を担うことになったのです。彼は直ちに軍の最高指揮権を掌握しフランス軍の進撃を食い止めるための絶望的な戦いを開始しました。
ウィリアムが取った手段は大胆かつ過酷なものでした。彼はホラント州を守る最後の防衛線である「オランダの喫水線」の堤防を破壊するよう命じました。これにより広大な田園地帯が意図的に水没させられフランス軍の進軍は泥沼の中で停止しました。この決断は多くの農民に甚大な被害をもたらしましたがアムステルダムをはじめとするホラント州の中核部をフランスの占領から守り抜くことに成功しました。
この混乱のさなかハーグでは悲劇が起こりました。民衆の怒りの矛先は前指導者であったデ=ウィット兄弟に向けられました。彼らはフランスと内通しているという根拠のない噂によって暴徒化した市民に捕らえられ惨殺されました。ウィリアムがこの虐殺に直接関与したという証拠はありませんが、彼は事件を防ぐための積極的な行動を取らず、結果的に政敵の排除を黙認した形となりました。この事件はウィリアムの冷徹な現実主義者としての一面を示唆しています。
外交と戦争

軍事的な防衛に成功したウィリアムは次に外交の舞台で反フランス包囲網の形成に乗り出しました。彼は巧みな交渉を通じて神聖ローマ皇帝レオポルト1世、スペイン、ブランデンブルク選帝侯といったヨーロッパの主要な君主たちを味方に引き入れることに成功します。これによりオランダ侵略戦争はヨーロッパ全体を巻き込む大規模な戦争へと発展しました。
ウィリアムは自ら軍を率いて各地を転戦しました。彼はスネッフの戦い(1674年)やカッセルの戦い(1677年)などでフランスの名将コンデ公やリュクサンブール公と互角に渡り合いました。彼は戦術家として常に勝利を収めたわけではありませんでしたが、その不屈の闘志と敗北にも屈しない粘り強さは同盟軍の士気を維持しルイ14世の野心をくじく上で決定的な役割を果たしました。
戦争は1678年のナイメーヘンの和約によって終結します。オランダは侵略前の領土をすべて回復し独立を守り抜くことに成功しました。この結果はウィリアムの指導者としての名声をヨーロッパ中に轟かせることになりました。彼はオランダの救国の英雄としてまたルイ14世の膨張主義に対抗するプロテスタントの擁護者として確固たる地位を築いたのです。この経験を通じてウィリアムはヨーロッパの勢力均衡を維持するためにはフランスの覇権を断固として阻止しなければならないという生涯変わることのない政治的信念を確立しました。
メアリーとの結婚

フランスとの戦争のさなか、ウィリアムは彼の将来の運命を大きく左右することになる重要な一歩を踏み出しました。1677年彼はイングランドを訪問し叔父であるヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の長女メアリー=スチュアートと結婚します。
この結婚は純粋な恋愛感情から生まれたものではなく高度に政治的な計算に基づいたものでした。ウィリアムにとってこの結婚はフランスとの戦争において中立的な立場を取っていたイングランド王チャールズ2世を自陣営に引き込むための重要な外交戦略でした。チャールズ2世はルイ14世から秘密の資金援助を受け親フランス的な政策を取っていましたが国内の議会や国民はプロテスタントのオランダに同情的でした。ウィリアムは王位継承権を持つプロテスタントの王女との結婚によってイングランドの世論を味方につけチャールズ2世に圧力をかけることを狙ったのです。
一方イングランド側にとってもこの結婚は重要な意味を持っていました。チャールズ2世には嫡出子がなかったため、王位は弟であるヨーク公ジェームズに継承される予定でした。しかしジェームズは公然とカトリックに改宗しており国民の間にはカトリックの国王が誕生することへの強い不安と反発が渦巻いていました。プロテスタントでありヨーロッパのプロテスタント勢力の指導者と見なされていたウィリアムとジェームズのプロテスタントの娘であるメアリーとの結婚は将来のイングランド王位がプロテスタントの手に留まることを保証するものとして多くの人々に歓迎されました。
ウィリアムとメアリーの個人的な関係は複雑なものでした。メアリーは当時15歳で父ジェームズを深く敬愛しており、見知らぬオランダへ嫁ぐことに大きな不安を感じていました。一方ウィリアムは12歳年上ですでに百戦錬磨の政治家であり感情を表に出さない無口で冷たい人物でした。結婚当初二人の間には感情的な隔たりがあり、メアリーはオランダでの生活に孤独を感じていたと言われています。
しかし時が経つにつれて二人の関係は深い愛情と相互の尊敬に基づいた強固なパートナーシップへと発展していきました。メアリーはウィリアムの政治的な目標を深く理解し彼の忠実な支持者となりました。彼女の明るく心優しい性格はウィリアムの厳格で近寄りがたいイメージを和らげる役割も果たしました。ウィリアムもまた妻の知性と敬虔な信仰心を高く評価し重要な政治問題について彼女の意見を求めることも少なくありませんでした。
この結婚はウィリアムの人生において決定的な転機となりました。それは彼にイングランド王位への直接的な請求権を与え、後の名誉革命への道を開くことになったのです。そして個人的なレベルにおいても彼は生涯で最も信頼できる献身的な伴侶を得ることになりました。
名誉革命

1685年イングランド王チャールズ2世が亡くなりウィリアムの舅であるヨーク公ジェームズがジェームズ2世として即位しました。ジェームズ2世の治世はイングランドを再び深刻な政治的、宗教的危機へと導くことになります。
ジェームズ2世の治世

ジェームズ2世は熱心なカトリック教徒でありイングランドをカトリック国家へと回帰させることを自らの使命と信じていました。彼は即位後矢継ぎ早にカトリック教徒を政府や軍の要職に任命し始めました。これは公職者をイングランド国教徒に限定する「審査法」に明確に違反するものでした。さらに彼は国王大権を用いて議会の制定した法律を無効化する「停止権」や特定の個人や団体に対して法律の適用を免除する「適用免除権」を頻繁に行使しました。
1687年ジェームズ2世は「信仰自由宣言」を発布しカトリック教徒やプロテスタント非国教徒を含むすべての臣民に信仰の自由を保障すると宣言しました。これは表面的には寛容な政策に見えましたがその真の狙いはカトリック教徒の地位を合法化し向上させることにありました。多くのイングランド国教徒はこれを国教会を弱体化させカトリックを復権させるための策略であると見なしました。
ジェームズ2世の専制的な統治と親カトリック的な政策はイングランドの支配階級であるトーリー党(王党派)とホイッグ党(議会派)の両方から強い反発を招きました。しかし多くの人々はジェームズ2世が高齢であり彼の後継者である長女メアリー(ウィリアムの妻)と次女アンが共に熱心なプロテスタントであったため彼の治世が終わるのを待つという姿勢を取っていました。
王子の誕生と招聘

しかし1688年6月10日事態は決定的に変化します。ジェームズ2世の二人目の妻であるカトリックの王妃メアリー=オブ=モデナが男子を出産したのです。この王子の誕生はイングランドにカトリックの王朝が永続する可能性を現実のものとしました。プロテスタントのメアリーとアンは王位継承順位において生まれたばかりの弟の後塵を拝することになったのです。王子の誕生をめぐっては実は死産した赤子とすり替えられたのではないかという噂がまことしやかに囁かれ反ジェームズ感情をさらに煽ることになりました。
この危機に直面しイングランドの有力な貴族たちはついに行動を起こすことを決意します。ホイッグ党とトーリー党の七人の指導者たち(「不滅の七人」として知られる)は連名でウィリアムに秘密の書簡を送りました。彼らはウィリアムに対して軍を率いてイングランドに上陸し国民の権利と自由をジェームズ2世の専制から守るように懇願したのです。
ウィリアムにとってこれは長年待ち望んでいた機会でした。彼はイングランドがジェームズ2世の下でフランスの同盟国となることを何よりも恐れていました。イングランドの海軍力と経済力を反フランス大同盟に組み込むことは彼の対フランス戦略の要でした。彼はオランダの議会(スターテン=ヘネラール)を説得しイングランドへの遠征軍を編成するための莫大な資金と艦隊の提供を承認させました。
イングランド上陸

1688年11月5日ウィリアムは約1万5千の兵士を乗せた巨大な艦隊を率いてイングランド南西部のトーベイに上陸しました。彼が掲げた旗には「私は維持する、プロテスタントの信仰と議会の自由を」というオラニエ家の標語が記されていました。
ジェームズ2世はウィリアムを迎撃するために軍を集結させましたが彼の軍隊は内部から崩壊していきました。ジョン=チャーチル(後のマールバラ公)をはじめとする主要な指揮官たちが次々とウィリアムの側へ寝返ったのです。さらにジェームズ2世自身の次女であるアンも夫のデンマーク王子ジョージと共にジェームズの下を去り反乱軍に合流しました。
すべての支持を失い孤立したジェームズ2世は戦意を喪失し王妃と生まれたばかりの王子をフランスへ逃がした後自らも王国の印章をテムズ川に投げ捨てフランスへと亡命しました。ジェームズ2世がほとんど抵抗せずに逃亡したためこの政変は流血を伴わずに達成されました。このことからこの一連の出来事は「名誉革命」または「無血革命」と呼ばれることになります。
共同統治

ジェームズ2世の亡命によってイングランドの王位は空位となりました。ウィリアムの召集によって開かれた仮議会は今後の統治体制について激しい議論を交わしました。
一部のトーリー党員はジェームズ2世が依然として正統な国王であるとしウィリアムを摂政として統治させるべきだと主張しました。一方ホイッグ党員はジェームズ2世が統治契約を破って王位を放棄したとみなしメアリーを単独の女王として即位させるべきだと考えました。
しかしウィリアムはこれらの案を断固として拒否しました。彼は妻の廷臣として仕えるつもりはなくまた摂政という不安定な地位にも満足しませんでした。彼は自らが国王としての完全な権力を持つことを要求しそれが受け入れられないのであれば軍を率いてオランダへ帰国すると示唆しました。
最終的に議会は妥協案に達しました。ウィリアムとメアリーをイングランド、スコットランド、アイルランドの共同統治者として即位させることを決定したのです。ただし統治に関する実質的な権力はウィリアムが単独で行使することとされました。
権利の章典

王位を受諾する条件としてウィリアムとメアリーは議会が起草した「権利の宣言」に同意することを求められました。この宣言は1689年2月議会で正式に承認され「権利の章典」として法律になりました。
「権利の章典」はイングランドの立憲君主制の歴史において最も重要な文書の一つです。それはジェームズ2世が行ったような国王による専制的な権力の濫用を防ぐことを目的としていました。その主な内容は以下の通りです。
議会の同意なく国王が法律を停止したりその適用を免除したりすることは違法である。
議会の承認なく国王が平時に常備軍を維持することは違法である。
議会の同意なく国王が課税することは違法である。
議会選挙は自由に行われなければならない。
議会における言論の自由は議会外で問責されたり審理されたりしてはならない。
「権利の章典」は王権に対する議会の優位を法的に確立し国王もまた法の下にあるという原則を明確にしました。これによりイングランドの政治体制は絶対君主制から議会主権に基づく立憲君主制へと決定的に移行したのです。ウィリアムとメアリーはこの章典を受け入れることで自らの権力が国民の代表である議会との契約に基づいていることを認めたことになります。
1689年4月11日ウィリアム3世とメアリー2世はウェストミンスター寺院で共同統治者として戴冠式を挙げました。オランダの総督であったウィリアムはヨーロッパの主要な王国の一つであるイングランドの王となったのです。
ジャコバイトとの戦い

ウィリアムとメアリーの王位はイングランドでは比較的安泰でしたがスコットランドとアイルランドでは深刻な抵抗に直面しました。追放されたジェームズ2世を正統な君主として支持する人々は「ジャコバイト」(ラテン語のヤコブス=ジェームズに由来)と呼ばれ各地で武装蜂起しました。
アイルランド

ジャコバイトの抵抗が最も激しかったのはカトリック教徒が人口の大多数を占めるアイルランドでした。ジェームズ2世は1689年3月ルイ14世から提供されたフランス軍の支援を受けてアイルランドに上陸しました。彼はリチャード=タルボット(ティアコネル伯)が率いるカトリックのアイルランド軍と合流しダブリンで独自の議会を召集しました。アイルランドのプロテスタント(主にアルスター地方の入植者)はロンドンデリーやエニスキレンといった城壁都市に立てこもり絶望的な抵抗を続けました。
この事態に対しウィリアムは自ら大軍を率いてアイルランドへ渡ることを決意します。1690年7月1日(当時のユリウス暦)ウィリアム率いる軍隊とジェームズ2世率いるジャコバイト軍はダブリンの北を流れるボイン川のほとりで激突しました。ボイン川の戦いはウィリアマイト戦争(ウィリアム派の戦争)の帰趨を決する決定的な戦いとなりました。ウィリアムは自ら陣頭に立って軍を指揮し戦闘中に肩を負傷しながらも兵士たちを鼓舞し続けました。結果はウィリアム軍の圧倒的な勝利に終わりました。
敗れたジェームズ2世は再びフランスへと逃亡しアイルランドのジャコバイト軍は指導者を失いました。しかし彼らはその後も約1年間にわたって抵抗を続け最終的に1691年のリメリック条約によって降伏しました。この戦争の勝利はアイルランドにおけるプロテスタント支配を決定的なものとしその後のアイルランドの悲劇的な歴史の始まりともなりました。ボイン川の戦いは北アイルランドのプロテスタント(ユニオニスト)によって今日でも彼らのアイデンティティの象徴的な出来事として記念されています。
スコットランド

スコットランドでもダンディー子爵ジョン=グラハム(通称「ボニー=ダンディー」)がハイランド地方の氏族を率いてジャコバイトの反乱を起こしました。彼は1689年のキリークランキーの戦いでウィリアム政府軍を打ち破るという目覚ましい勝利を収めましたが彼自身がこの戦いで戦死したため反乱は急速に勢いを失いました。
しかしハイランド地方におけるジャコバイトの脅威はその後もくすぶり続けました。1692年ウィリアムの政府はハイランドの氏族長たちに政府への忠誠を誓うよう最後通牒を突きつけました。この期限に悪天候のためにわずかに遅れてしまったグレンコーのマクドナルド氏族に対し政府軍は見せしめとして残虐な虐殺を行いました。いわゆる「グレンコーの虐殺」です。この事件は客人としてもてなしを受けていた兵士たちが夜明けに不意打ちでホストであるマクドナルド氏族の男女子供を無差別に殺害するという信義にもとる残虐なものでした。ウィリアムがこの虐殺を直接命じたわけではありませんでしたが、彼は事件の責任者を処罰することなく不問に付しました。このことは彼の治世における最大の汚点の一つとなり、スコットランドにおける反イングランド感情とジャコバイト支持をかえって煽る結果となりました。
大同盟戦争

ウィリアムがイングランド王位を手に入れようとした最大の動機はイングランドを彼の生涯をかけた事業である反フランス大同盟に組み込むことでした。名誉革命の成功により彼の目的は達成されヨーロッパの政治地図は一変しました。
1689年イングランドはオランダ、神聖ローマ帝国、スペイン、サヴォイア公国などと共にフランスに対抗するための「大同盟」を結成しルイ14世に宣戦を布告しました。こうして始まったのが「大同盟戦争」(九年戦争またはプファルツ継承戦争とも呼ばれる)です。
この戦争はヨーロッパ大陸のネーデルラント、ラインラント、イタリア、スペインといった広範な地域と北アメリカ(「ウィリアム王戦争」として知られる)や海上をも戦場とする最初の世界規模の戦争の一つとなりました。ウィリアムは同盟軍の事実上の最高指導者として毎年夏になると大陸へ渡り自ら軍の指揮を執りました。
戦争は一進一退の消耗戦となりました。ウィリアムは1692年のステーンケルケの戦いや1693年のネールウィンデンの戦いでフランスのリュクサンブール公に手痛い敗北を喫しました。しかし彼は決して屈することなく粘り強く戦争を継続しました。彼の軍事的才能は華々しい勝利を収めることよりもむしろ敗北の後でも軍を再編成し戦線を維持するという強靭な回復力にありました。1695年彼は長期間の包囲戦の末重要拠点であったナミュールの要塞をフランスから奪回することに成功し軍人としての名声を高めました。
一方海上では英蘭連合艦隊が優位に立ちました。1692年のバルフルール岬とラ=オーグの海戦で連合艦隊はフランス艦隊に決定的な打撃を与えフランスによるイングランド侵攻の脅威を取り除きました。
戦争は双方に莫大な経済的負担を強いました。特にイングランドでは戦費を調達するために大規模な国債制度が導入され1694年にはイングランド銀行が設立されました。これらの財政革命はイングランドが将来世界的な大国へと発展するための基礎を築くことになります。
長年の戦争に疲弊した両国は1697年ライスワイク条約を結んで講和しました。この条約でルイ14世はウィリアムを正統なイングランド王として承認しジェームズ2世への支援を打ち切ることを約束しました。またフランスは戦争中に占領したロレーヌ、ルクセンブルクなどの多くの領土を返還しました。大同盟戦争はウィリアムの生涯をかけた対フランス闘争の一つの頂点であり、ルイ14世の膨張を食い止めるという彼の目的はひとまず達成されたのです。
治世の後半

大同盟戦争が終結した後もウィリアムの治世は平穏ではありませんでした。彼はイングランド議会との絶え間ない対立とヨーロッパの平和を再び脅かす新たな問題に直面しなければなりませんでした。
メアリーの死

1694年の末ウィリアムは個人的な最大の悲劇に見舞われます。妻であるメアリー女王が天然痘にかかり32歳の若さで亡くなったのです。ウィリアムは妻の死に深く打ちのめされ周囲が驚くほどの悲しみを見せたと伝えられています。彼は公の場では常に感情を抑制していましたが、この時ばかりはその悲しみを隠すことができませんでした。
メアリーの死はウィリアムの政治的な立場をも弱めることになりました。彼女はスチュアート家の正統な血を引く国民に愛された女王であり、彼女の存在がオランダ人であるウィリアムの統治を正当化する上で重要な役割を果たしていました。彼女の死後ウィリアムは単独の統治者となりましたが、その人気が回復することはありませんでした。
議会との対立

戦争が終わり平時が訪れるとイングランド議会、特にトーリー党が多数を占める庶民院は国王の権力に対して再び批判的な姿勢を強めました。議会は大規模な常備軍を自由への脅威とみなし、ウィリアムが維持しようとした軍隊を大幅に削減することを強制しました。ウィリアムはこれに激しく抵抗しましたが最終的には議会の要求を受け入れざるを得ませんでした。彼は自らが苦労して訓練したオランダ人の青衛兵連隊までも解散させられオランダへ送り返さなければなりませんでした。
また議会はウィリアムがお気に入りのオランダ人側近たち、特にアルベマール伯アーノルド=ヨースト=ファン=ケッペルやポートランド伯ハンス=ウィレム=ベンティンクにアイルランドの広大な土地を与えたことを激しく非難しました。議会はこれらの土地下賜を無効にする法案を可決し、ウィリアムは屈辱を忍んでこれに同意せざるを得ませんでした。これらの出来事はウィリアムと議会の間の相互不信を深め彼の治世の最後の数年間を困難なものにしました。
スペイン継承問題

ウィリアムの晩年ヨーロッパの平和は再び大きな危機に瀕していました。長年病弱であったスペイン王カルロス2世に世継ぎがおらずその広大な帝国(スペイン本国、ネーデルラント、イタリアの領土、そしてアメリカ大陸の植民地)の継承問題がヨーロッパ中の外交の最大の焦点となっていたのです。
主な王位請求者はフランスのルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップと神聖ローマ皇帝レオポルト1世の次男であるカール大公でした。もしフランスのブルボン家がスペイン王位を継承すればフランスとスペインの間に巨大な帝国が誕生しヨーロッパの勢力均衡は完全に覆されてしまいます。ウィリアムはこれを避けるために生涯最後の外交努力を傾けました。
ウィリアムはルイ14世との間で秘密裏に交渉を進めスペイン帝国をフランス、オーストリア、そしてバイエルン選帝侯の子息ヨーゼフ=フェルディナントの間で分割するという二つの「分割条約」を結びました。しかしこれらの条約はスペインの同意なしに進められたものであり、またヨーゼフ=フェルディナントが夭折するなどして計画は頓挫しました。
最終的に1700年カルロス2世は死の床でアンジュー公フィリップを単独の相続人として指名する遺言を残して亡くなりました。ルイ14世はこの遺言を受け入れ孫をフェリペ5世としてスペイン王位に就かせることを宣言しました。さらに彼はフェリペ5世のフランス王位継承権を保持させフランス軍をスペイン領ネーデルラントの要塞に進駐させました。ヨーロッパの勢力均衡を維持するというウィリアムの生涯をかけた努力は水泡に帰したかに見えました。
しかしルイ14世の傲慢な行動はイングランドの世論を再び反フランスへと傾かせました。1701年追放されていたジェームズ2世がフランスで亡くなるとルイ14世は彼の息子であるジェームズ=フランシス=エドワード=スチュアート(「老僭王」として知られる)を正統なイングランド王ジェームズ3世として承認しました。これはライスワイク条約に明確に違反する行為であり、イングランド国民の誇りを深く傷つけました。
この侮辱に憤慨した議会はウィリアムの下に結集し戦争への備えを承認しました。ウィリアムはかつての盟友であったジョン=チャーチル(マールバラ公)やオーストリアの偉大な将軍プリンツ=オイゲンらと共に新たな反フランス大同盟の結成に奔走しました。彼は自らの死の直前までヨーロッパを再びルイ14世の覇権から守るための戦争の準備を整えていたのです。
死と遺産

1702年2月ウィリアムはハンプトン=コート宮殿の庭で乗馬を楽しんでいる最中に馬がモグラの穴につまずいて落馬し鎖骨を骨折しました。この事故自体は致命的なものではありませんでしたが、もともと喘息持ちで虚弱な体質であった彼の容態は急速に悪化しました。彼は肺炎を併発し3月8日ケンジントン宮殿で51歳の生涯を閉じました。ジャコバイトたちはウィリアムを死に至らしめた「小さな黒いビロードの紳士」(モグラのこと)に乾杯したと伝えられています。
ウィリアムとメアリーの間には子供がいなかったためイングランド、スコットランド、アイルランドの王位はメアリーの妹であるアンに継承されました。オランダでは彼の死後再び無総督時代が始まりました。
ウィリアム3世はイングランドの臣民から個人的に愛されることはありませんでした。彼は外国人で冷たくよそよそしい人物と見なされ、その生涯の関心はイングランドの内政よりもヨーロッパ大陸の勢力均衡に向けられていました。しかし彼の治世がイングランドとヨーロッパの歴史に残した影響は計り知れません。
第一に彼は名誉革命を成功させ「権利の章典」を承認することでイングランドにおける議会主権と立憲君主制の基礎を確立しました。これにより国王の専制政治に終止符が打たれ国民の自由と法の支配が保障される道が開かれました。
第二に彼はその生涯をかけてフランス王ルイ14世のヨーロッパ支配の野望に立ち向かいました。彼はオランダの独立を守り抜き二度にわたる大同盟戦争を組織し指揮することでヨーロッパの勢力均衡を維持しました。彼の死の直後に始まったスペイン継承戦争は彼の準備した土台の上で戦われ最終的にフランスの覇権を阻止するという彼の目的を達成することになります。
第三に彼の治世下でイングランドは将来の世界帝国への道を歩み始めました。戦争遂行のために創設されたイングランド銀行と国債制度は強力な財政国家の基盤となり英蘭連合艦隊の制海権確保は海外貿易と植民地拡大の礎となりました。
ウィリアム3世は伝統的な意味での英雄的な国王ではなかったかもしれません。しかし彼は自らに課せられた歴史的な役割を不屈の意志と冷徹な現実主義をもって遂行した偉大な政治家であり指導者でした。
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・ウィリアム3世とは わかりやすい世界史用語2720

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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