絶対王政と啓蒙専制主義で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
フランスの絶対王政
・アンリ4世の暗殺後即位した
ルイ13世は、1614年以降
三部会を招集しないなど、宰相
リシュリューに支えられながら絶対王政を強化していった。
・1643年に次の
ルイ14世が幼少で即位すると、宰相
マザランが実権を握り、
フロンドの乱など王家の危機を打開していった。ルイ14世は1661年以降王権神授説を唱え親政を開始し、「朕は国家なり」と述べ、
太陽王と呼ばれた。
・ルイ14世は財務総監として
コルベールを重用し、保護貿易や東インド会社再興、
王立マニュファクチュアの設立など、フランス重商主義(
コルベール主義)を推進した。また、王は20年かけて1682年に
ヴェルサイユ宮殿を完成させ、他方でカトリック政策を重視し、1685年に
ナントの勅令を廃止するなど、絶対王政の最盛期を現出した。
・対外的には、軍政改革を推進し、強力な常備軍を有したフランスは、
南ネーデルラント継承戦争(1667〜1668)、オランダ侵略戦争(1672〜1678)、ファルツ継承戦争(1688〜1697)などの侵略戦争を始めた。1700年には、自らの孫
フェリペ5世をスペイン国王に即位させたため、
スペイン継承戦争(1701〜1713)が始まった。フランスはオーストリア・イギリス・オランダと対戦したため、苦戦を強いられた。
1713年に
ユトレヒト条約が結ばれ、スペイン継承戦争は講和した。フェリペ5世の王位は認められたが、スペイン・フランスの永久合邦禁止やスペインから
ジブラルタル・ミノルカ島がイギリスへ、フランスからアメリカの
ハドソン湾・ニューファンドランド・アカディアがイギリスへ割譲された。その後、神聖ローマ帝国とフランスの間で1714年
ラシュタット条約が結ばれ、オーストリアが
ネーデルラント・ミラノ・ナポリ・サルディーニャ島を獲得し、スペイン継承戦争は完全に終結した。この後ルイ15世の時代になると、戦争敗北と財政難で、絶対王政は衰えていった。
プロイセンの絶対王政
・1134年にエルベ川西岸からオーデル川一帯に辺境伯領として
ブランデンブルク選帝侯国が創設され、1415年以降
ホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯となり支配者となった。
・十字軍の時代に成立した
ドイツ騎士団は、十字軍の失敗後に
東方植民を積極的に行い、
ドイツ騎士団領を建設した。ドイツ騎士団領はその後1525年に
プロイセン(プロシア)公国となり、1618年以降ホーエンツォレルン家の領土となった。
・プロイセン公国の
フリードリヒ1世は、スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側で参戦し、その功が認められ、
1701年プロイセンは王国に昇格した。第2代
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、産業振興や徴兵制を創設し、
軍隊王と呼ばれた。第3代
フリードリヒ2世は、
ユンカーと協調しながら軍隊を更に強化し、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い、1772年
ポーランド分割にも参加した。また、
ヴォルテールと親交を持ち、学芸を奨励し、
啓蒙専制君主としてプロイセンの発展に寄与した。
オーストリアの絶対王政
・1278年以降、
ハプスブルク家が支配した
オーストリアは、領土内に
チェック人の
ベーメンや
マジャール人の
ハンガリーなどを含む、複合民族国家であった。
・1699年に
オスマン帝国と
オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア共和国が
カルロヴィッツ条約を結び、オーストリアは中欧・東欧の覇権国家となっていった。ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝
カール6世は、嫡男がおらず、娘の
マリア=テレジアに領土を継がせるため、
王位継承法を作った。マリア=テレジアは、オーストリア女帝として国内産業の育成や農奴賦役の軽減などの改革を行い、1765年以降長男
ヨーゼフ2世と共同統治者としてポーランド分割に参加した。
・1740年から1748年にかけて、マリア=テレジアのハプスブルク家継承に不服だった
バイエルン・ザクセン・スペイン・フランス・プロイセン対
オーストリア・イギリスの各国が
オーストリア継承戦争をおこした。戦争の結果、
アーヘン和約が結ばれ、プロイセンが
シュレジエンを獲得し、マリア=テレジアの王位継承が認められた。プロイセンのが強大化した事により、長らく敵対的だったハプスブルク家オーストリアと、ブルボン家フランスが手を結ぶようになり、これを
外交革命とよんだ。
・外交革命で孤立したプロイセンは、イギリスの援助を受け
七年戦争(1756〜1763)を始めたが、その後苦戦を続けた。七年戦争は1763年に
フベルトゥスブルク条約で終結した。
啓蒙専制君主
・フランスの啓蒙思想家
ヴォルテールなどの影響を受け、
啓蒙思想を用いて自国の近代化を目指した君主を、
啓蒙専制君主という。ヴォルテールと親交のあった
プロイセンのフリードリヒ2世、ロシアのエカチェリーナ2世以外に、
オーストリアのヨーゼフ2世が代表的な啓蒙専制君主である。
・啓蒙専制君主フリードリヒ2世は「君主は国家第一の下僕」と述べるなど、積極的に自国の近代化を進めた。プロイセンは18世紀以降首都
ベルリンを中心に栄え、農奴領主制の
グーツヘルシャフトや
再販農奴制などで栄えた地主貴族
ユンカーがプロイセン社会の中心になっていった。
・オーストリアの
ヨーゼフ2世は、母親のマリア=テレジアと共同統治者となっていたが、母親の死後親政を開始し、
農奴解放令や
宗教寛容令など、啓蒙主義的政策を進めた。
ロシアの繁栄
・ロシアの
ピョートル1世は自ら西欧視察を行い、他国の近代化と自国の遅れを認識し、ロシアの西欧化・近代化を進めた。大帝と呼ばれたピョートル1世は、
北方戦争でスウェーデンを撃破し、中国の清と
ネルチンスク条約を結び、新しい首都
ペテルブルクを建設するなど、ロシアの絶対王政確立していった。
・17世紀前半以降、
ベーリングなどの探検家により、
オホーツク海や
アラスカが発見された。またロシアの軍人
ラスクマンは、日本と通商を求めたが拒否された。
・ヴォルテールとの親交があった女帝
エカチェリーナ2世は、フランス文化を愛し、学芸新興・教育改革・法律の整備など、啓蒙専制君主としてさまざまな政策を行った。しかし、その後
プガチョフの乱や
フランス革命の勃発により反動化した。18世紀に入ると、ロシアは
クリミア半島を領有していた
クリム=ハン国を併合した。
ポーランド分割
・中世ポーランドは
ヤゲヴォ朝のもと栄えたが、1572年王朝が途絶え
選挙王政が実施されると、
大貴族(シュラフタ)や周辺諸国の干渉を受けるようになった。
・衰退したポーランドは
第1回(1772年プロイセン・オーストリア・ロシア)、第2回(1793年プロイセン・ロシア)、第3回(1795プロイセン・オーストリア・ロシア)と三回にわたって分割され、この際、愛国者
コシューシコが活躍したが、最終的に消滅した。