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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

カトリーヌ=ド=メディシスとは わかりやすい世界史用語2645

著者名: ピアソラ
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カトリーヌ=ド=メディシスとは

カトリーヌ=ド=メディシスの生涯は、1519年4月13日、ルネサンス文化が爛熟の極みにあったイタリアのフィレンツェで始まります。彼女は、フィレンツェの支配者であったメディチ家の当主、ウルビーノ公ロレンツォ=デ=メディチと、フランス王家の血を引くマドレーヌ=ド=ラ=トゥール=ドーヴェルニュの間に、待望の嫡出子として生を受けました。その誕生は、フィレンツェ中から祝福されたと言われています。父方の曾祖父はフィレンツェの黄金時代を築いた偉大なるロレンツォ=イル=マニフィコ、そして叔父(父の従兄弟)はローマ教皇レオ10世という、ヨーロッパでも屈指の名家の血筋でした。彼女の未来は、輝かしいものになるはずでした。
しかし、その幸福はあまりにも儚いものでした。生後わずか数週間で、母マドレーヌが産褥熱で亡くなり、その数日後には、父ロレンツォも梅毒(あるいは結核)でこの世を去ってしまいます。カトリーヌは、生まれて一ヶ月も経たないうちに、天涯孤独の孤児となったのです。彼女は莫大な遺産と、ウルビーノ公爵夫人、そしてオーヴェルニュ女伯といういくつもの称号を相続しましたが、その幼い身は、権力者たちの思惑が渦巻く、危険な政治ゲームの駒とされてしまいました。
幼いカトリーヌの後見人となったのは、大叔父にあたる教皇レオ10世でした。彼女はローマで、メディチ家の親族の手によって育てられます。しかし、1521年にレオ10世が亡くなり、その後を継いだハドリアヌス6世もすぐに亡くなると、1523年、カトリーヌのもう一人の叔父であるジュリオ=デ=メディチが、クレメンス7世として教皇に選出されます。この新しい教皇の誕生は、カトリーヌの運命を再び大きく動かすことになりました。
クレメンス7世は、カトリーヌをフィレンツェに呼び戻し、メディチ=リッカルディ宮殿で養育させました。しかし、当時のイタリアは、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)という二人の巨人が覇権を争う、イタリア戦争の真っ只中にありました。教皇クレメンス7世は、フランスと同盟を結び、皇帝カール5世と対立する道を選びます。この選択が、悲劇的な結果を招きました。
1527年、カール5世が派遣した皇帝軍がローマに侵攻し、略奪の限りを尽くすという「ローマ劫掠」が起こります。この混乱に乗じて、フィレンツェ市民はメディチ家の支配を打倒し、共和制を復活させました。8歳になっていたカトリーヌは、メディチ家の象徴として、新しい共和制政府の人質となってしまいます。彼女は、市内のいくつかの修道院を転々とさせられることになりました。ある時、フィレンツェを包囲した皇帝軍に対し、共和制の過激派が、カトリーヌを城壁の上に吊るして敵の砲撃に晒そうと計画した、という逸話も残っています。また、彼女を兵士たちの慰みものにしようという声さえ上がったと言われています。幼いカトリーヌは、いつ殺されるかもしれないという恐怖の中で、数年間を過ごさなければなりませんでした。この過酷な人質生活は、彼女の精神に深い影響を与え、後の政治家としての、忍耐強く、決して本心を見せない性格を形成する一因となったのかもしれません。
1530年、フィレンツェが皇帝軍に降伏し、メディチ家の支配が復活すると、カトリーヌはようやく解放され、ローマの叔父クレメンス7世のもとへと送られました。教皇は、この政治的に極めて価値の高い姪を、ヨーロッパの王侯貴族の誰と結婚させるか、慎重に検討を始めます。スコットランド王ジェームズ5世、神聖ローマ皇帝の息子であるスペインのフェリペ王子、そしてフランス王フランソワ1世の次男アンリなど、多くの候補者の名が挙がりました。最終的にクレメンス7世が選んだのは、フランスのアンリでした。この縁組は、教皇とフランス王の政治的同盟を強化するものであり、カトリーヌが持参する莫大な持参金と、メディチ家の広範な金融ネットワークは、フランス王家にとって大きな魅力でした。
1533年10月、カトリーヌは豪華な船団に乗り、マルセイユへと向かいました。そこで彼女を待っていたのは、未来の夫となるアンリと、その父であるフランソワ1世、そして叔父である教皇クレメンス7世でした。14歳になったばかりのカトリーヌとアンリは、教皇自身の司式によって、盛大な結婚式を挙げました。フィレンツェの商人(銀行家)の娘が、ヨーロッパで最も格式高い王家の一つであるフランス王家に嫁いだ瞬間でした。しかし、この華やかな結婚式の裏で、フランス宮廷の人々が、王家の血を引かない「成り上がりのイタリア女」と彼女を蔑んでいたことを、カトリーヌはまだ知る由もありませんでした。



日陰の王太子妃

フランス宮廷でのカトリーヌの新しい生活は、決して平坦なものではありませんでした。彼女は、洗練されたイタリア=ルネサンスの教養を身につけていましたが、フランスの貴族たちから見れば、彼女は所詮、王家の血を引かない「商人」の娘に過ぎませんでした。彼女の出自は、常に嘲笑の的となりました。さらに、彼女をフランスに送り込んだ叔父、教皇クレメンス7世が結婚の翌年に亡くなると、約束されていた持参金の残りも支払われなくなり、彼女の政治的な価値は大きく損なわれました。宮廷での彼女の立場は、ますます不安定なものになっていきます。
最大の苦悩は、夫アンリの心をつかむことができなかったことでした。アンリは、カトリーヌよりも20歳近く年上の、ディアーヌ=ド=ポワチエという貴婦人に心を奪われていました。ディアーヌは、アンリが幼い頃に人質としてスペインに送られる際に、彼に別れのキスをした女性であり、アンリにとって彼女は母であり、恋人であり、そして女神のような存在でした。アンリは、生涯を通じてディアーヌに深い愛情と敬意を捧げ続け、カトリーヌが入り込む隙間はほとんどありませんでした。カトリーヌは、公の場では王太子妃としての役割を果たしながらも、私生活では夫の寵愛を独占する恋敵の存在に、耐え続けなければなりませんでした。
さらに深刻な問題が、カトリーヌを追い詰めました。それは、結婚から10年近く経っても、世継ぎとなる子供を授かることができなかったことです。王妃の最も重要な義務は、王朝の存続を確実にするための男子を産むことです。この義務を果たせないカトリーヌに対し、宮廷内では離婚を求める声が公然と上がり始めました。カトリーヌは、あらゆる種類の治療法や、迷信的なおまじないにまで頼ったと言われています。彼女は、屈辱と不安の中で、いつ宮廷から追放されるかもしれないという恐怖に怯える日々を送っていました。
しかし、1944年、事態は劇的に好転します。結婚から11年目にして、カトリーヌはついに長男フランソワを、後のフランソワ2世を出産したのです。これを皮切りに、彼女はまるで堰を切ったかのように、次々と子供たちを産み始めます。最終的に、彼女は10人の子供を産み、そのうち7人(男子3人、女子4人)が成人しました。この多産によって、カトリーヌはようやく王妃としての地位を不動のものとし、離婚の危機から逃れることができたのです。
1547年、国王フランソワ1世が亡くなり、夫アンリがアンリ2世として即位すると、カトリーヌはフランス王妃となりました。しかし、彼女の政治的な影響力は、依然として皆無に等しいままでした。国王アンリ2世は、政治の全てをディアーヌ=ド=ポワチEに相談し、彼女に絶大な権力を与えました。カトリーヌは、公式な儀式においては王妃として振る舞いましたが、実権は完全にディアーヌが握っていました。カトリーヌは、この屈辱的な状況に耐えながら、子供たちの養育に専念し、自らの政治的な野心を胸の奥深くにしまい込み、静かに時が来るのを待っていました。彼女は、読書に没頭し、特にマキャヴェッリの『君主論』を熟読したと言われています。この雌伏の期間は、彼女が後に冷徹な現実主義の政治家として頭角を現すための、長い準備期間だったのかもしれません。
突然の権力

1559年6月30日、カトリーヌの運命を再び大きく変える、決定的な出来事が起こります。国王アンリ2世が、娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の結婚を祝う馬上槍試合の最中に、事故で瀕死の重傷を負ったのです。槍の破片が国王の右目を貫き、脳に達するという絶望的な状況でした。
この危機に際し、それまで政治の舞台から遠ざけられていたカトリーヌは、突如としてその中心に躍り出ました。彼女は、冷静沈着に事態を収拾し、国王の看病を指揮しました。そして、長年の恋敵であったディアーヌ=ド=ポワチエを国王の病室から追放し、彼女が国王から与えられていたシュノンソー城などの財産を没収しました。これは、カトリーヌが26年間にわたって耐え忍んできた屈辱に対する、静かな、しかし断固とした復讐でした。
10日間の苦しみの後、アンリ2世が息を引き取ると、15歳の長男フランソワ2世が即位し、カトリーヌは王太后となりました。しかし、若く病弱な新国王には国を治める力はなく、実権は彼の妃であるスコットランド女王メアリー=ステュアートの伯父である、ギーズ公フランソワとロレーヌ枢機卿シャルルの兄弟が掌握します。熱狂的なカトリックであるギーズ家は、フランス国内で勢力を拡大しつつあったプロテスタント(ユグノー)に対する厳しい弾圧政策を推し進めました。
カトリーヌは、このギーズ家の専横を警戒しつつも、まだ表立って彼らと対立する力を持っていませんでした。彼女は、国家の印璽を管理し、公式文書に目を通すなど、徐々に政治への関与を深めていきましたが、まだ主導権を握るには至りませんでした。
しかし、その状況も長くは続きませんでした。1560年12月、フランソワ2世が即位からわずか1年半で病死してしまいます。彼の死により、王位はまだ10歳の次男、シャルル9世へと移りました。幼い国王に代わって国を統治する摂政の地位に就いたのは、母であるカトリーヌ=ド=メディシスでした。夫の死から1年半、フィレンツェの孤児であり、日陰の王太子妃であった彼女は、ついにフランス王国の最高権力者となったのです。彼女が相続したのは、栄光ある王国だけではありませんでした。それは、宗教的対立によって分裂し、内戦の危機に瀕した、極めて危険な国家でもあったのです。
融和政策の試み

摂政となったカトリーヌが直面した最大の課題は、激化する一方のカトリックとユグノーの対立をいかにして収拾するか、ということでした。彼女自身の宗教的信条は、敬虔なカトリックではありましたが、政治家としての彼女は、何よりもまず、息子シャルル9世の王権と、ヴァロワ王朝の存続を守ることを最優先に考えました。彼女は、どちらか一方の派閥に与することは、王家の権威を損ない、内戦を招くだけであると理解していました。彼女の目標は、両派閥の上位に立つ調停者として、王国の平和と統一を維持することでした。
この目標を達成するため、カトリーヌは、大法官ミシェル=ド=ロピタルといった穏健派の顧問を重用し、宗教的寛容に基づく融和政策を模索し始めます。彼女は、神学的な議論によって両派の教義上の対立を解消できるかもしれない、という一縷の望みを抱いていました。1561年、彼女はカトリックとユグノーの代表的な神学者たちをポワシーの地に集め、公開討論会(ポワシー会談)を開催しました。しかし、聖餐の解釈などを巡る両者の溝はあまりにも深く、会談は互いの不信感を増幅させるだけで、完全に失敗に終わりました。
神学的な和解が不可能であると悟ったカトリーヌは、次に政治的な解決策へと舵を切ります。1562年1月、彼女は「サン=ジェルマン勅令」として知られる、画期的な寛容令を発布しました。これは、ユグノーに対し、都市の城壁の外で、日中に限り、武器を持たずに集まって礼拝を行うことを公式に許可するものでした。これは、フランス王国が、国内に二つの異なる宗教の存在を、限定的ではあるものの、初めて法的に認めたことを意味しました。カトリーヌは、この勅令によって、ユグノーの不満を和らげ、内戦を回避できると期待したのです。
しかし、このカトリーヌの先進的な試みは、双方の過激派から猛烈な反発を受けました。ユグノー側は、課せられた制限が多すぎると不満を述べ、カトリック側は、異端者にいかなる権利も認めることは神への冒涜であると激しく非難しました。特に、高等法院などのカトリック勢力の牙城は、勅令の登録を拒否し、その施行を妨害しました。
そして、勅令が発布されてからわずか2ヶ月後の1562年3月1日、決定的な事件が起こります。カトリック派の巨頭であるギーズ公フランソワの一行が、シャンパーニュ地方のヴァシーで、納屋で礼拝を行っていた非武装のユグノーの一団に遭遇し、彼らを虐殺したのです(ヴァシーの虐殺)。この事件は、ついにフランス全土を巻き込む宗教戦争(ユグノー戦争)の引き金となりました。ユグノーは、コンデ公ルイを指導者として武装蜂起し、カトリック側もギーズ公の下に結集しました。カトリーヌの平和への努力は、無残にも踏みにじられ、フランスはその後30年以上にわたる、血で血を洗う内乱の時代へと突入していきました。
サン=バルテルミの虐殺

ユグノー戦争が始まってからの10年間、カトリーヌは、戦争と和平を繰り返す混乱の中で、必死に王国の舵を取り続けました。彼女は、一方の派閥が優勢になれば、もう一方を支援して勢力の均衡を保つという、綱渡りのような外交を展開しました。彼女の目的は、常にヴァロワ王家の権威を両派閥の上に維持することでした。彼女は、自ら軍隊の野営地を訪れ、敵将と交渉し、和平条約を起草するなど、精力的に活動しました。
1570年、三度にわたる内戦の末、カトリーヌの努力はサン=ジェルマン和平条約として結実します。この条約は、ユグノーに広範な信教の自由と、ラ=ロシェルなどの要塞都市の支配権を認める、非常に寛大なものでした。この和平を永続的なものにするため、カトリーヌは、生涯で最も野心的で、そして最も悲劇的な結果を招くことになる計画を実行に移します。それは、彼女の娘であるカトリック教徒のマルグリット=ド=ヴァロワと、ユグノーの若き指導者であるナバラ王アンリを結婚させるというものでした。
この政略結婚は、二つの宗教の和解を象徴し、フランスに恒久的な平和をもたらすはずでした。1572年8月18日、パリのノートルダム大聖堂の前で、二人の結婚式が盛大に執り行われました。この結婚を祝うため、フランス中から数千人のユグノー貴族が、ナバラ王アンリに付き従ってパリに集結していました。
しかし、この和解の祭典の裏では、不穏な空気が渦巻いていました。カトリック過激派、特にギーズ家は、王家が異端者と手を組むことに激しい怒りを覚えていました。また、カトリーヌ自身も、新たな悩みを抱えていました。ユグノー派の重鎮であるコリニー提督が、今や成年に達した息子シャルル9世に大きな影響力を及ぼし、スペイン領ネーデルラントのプロテスタント反乱を支援するために、カトリック国スペインと開戦するよう、国王を説得し始めていたのです。スペインとの戦争は、カトリーヌが最も避けたいシナリオでした。彼女は、コリニー提督が自分の影響力を脅かし、王国を破滅的な戦争に引きずり込もうとしていると考え、彼を危険視するようになります。
結婚式から4日後の8月22日、コリニー提督が何者かに狙撃され、重傷を負います。この暗殺未遂の背後に誰がいたのかは、歴史家の間でも議論が分かれています。ギーズ家の犯行説、スペインの陰謀説、そしてカトリーヌ自身が黒幕であったという説もあります。真相はどうであれ、この事件は事態を急変させました。パリに集まっていたユグノーたちは激怒し、犯人がギーズ家であると信じ、報復を誓いました。パリは一触即発の緊張状態に陥ります。
カトリーヌとシャルル9世は、パニックに陥りました。彼らは、ユグノーの報復によって新たな内戦が勃発し、王権そのものが転覆させられることを極度に恐れました。追い詰められた彼らが下した決断は、歴史上最も悪名高いものの一つとなります。それは、ユグノーの指導者たちが一堂に会しているこの機会を捉え、彼らを先制攻撃によって皆殺しにしてしまおうという、恐るべき計画でした。
1572年8月24日の未明、聖バルテルミの祝日の朝、教会の鐘を合図に、虐殺が開始されました。ギーズ公アンリに率いられた部隊がコリニー提督を殺害したのを皮切りに、王の衛兵とパリの民衆が、市内に滞在していたユグノー貴族たちを次々と襲撃しました。虐殺は、指導者たちだけにとどまらず、狂信的なカトリック民衆によって、女子供を含む一般のユグノー市民へと拡大しました。殺戮の狂気は数日間にわたってパリを席巻し、さらに地方都市へと飛び火しました。この「サン=バルテルミの虐殺」による死者の数は、フランス全土で数千人から数万人にのぼると言われています。
この虐殺におけるカトリーヌの正確な役割については、今なお議論が続いています。彼女が当初から虐殺を計画していた「邪悪なイタリア人女王」であったのか、それとも、事態の急変にパニックに陥り、息子の王権を守るために、やむを得ず指導者の殺害を承認しただけで、民衆による大虐殺は彼女の意図を超えたものであったのか。多くの現代の歴史家は、後者の見方に傾いています。しかし、理由がどうであれ、カトリーヌがこの悲劇に中心的な責任を負っていたことは間違いありません。和解の象徴となるはずだった結婚式は、彼女の政治的キャリアにおける最大の汚点となり、彼女の名には「血塗られた女王」という暗いイメージが永遠に付きまとうことになりました。
最後の息子

サン=バルテルミの虐殺は、フランスに平和をもたらすどころか、対立をさらに深刻化させました。ユグノーは、ヴァロワ王家に対する一切の信頼を失い、暴君に対する武力抵抗を正当化する思想を掲げ、より強固に組織化されました。内戦は、これまで以上に激しいものとなります。
虐殺の悪夢に苛まれ続けたシャルル9世は、1574年に23歳の若さで亡くなります。彼には男子がいなかったため、王位はカトリーヌの三男で、最も寵愛していたアンジュー公アンリへと渡りました。しかし、この時アンリは、前年にポーランド国王に選出されており、遠くクラクフにいました。母からの兄の死の知らせを受け取ったアンリは、ポーランド王位を密かに放棄してフランスに帰国し、アンリ3世として即位します。
アンリ3世は、知的で洗練されていましたが、同時に浪費家で、奇矯な振る舞いをすることもありました。彼は、寵臣たち(ミニョンと呼ばれた)を重用し、彼らに莫大な富と権力を与えたため、多くの貴族の反感を買いました。カトリーヌは、この最愛の息子の治世においても、依然として国政に大きな影響力を持ち続けました。彼女は、アンリ3世の最も重要な顧問であり続け、和平交渉のためにフランス中を旅し、対立する派閥間の調停に奔走しました。彼女の手紙は、彼女が息子の政策の細部に至るまで、いかに関与していたかを示しています。
しかし、アンリ3世の治世は、困難を極めました。ユグノーとの戦争は続き、さらに、カトリック過激派がギーズ公アンリの下で結成した「カトリック同盟」が、国王の権威を脅かす強大な勢力となっていきました。アンリ3世は、ユグノーとカトリック同盟という二つの勢力に挟まれ、身動きが取れなくなります。
そして1584年、カトリーヌにとって最後の希望が打ち砕かれます。彼女の最後の息子であり、アンリ3世の王位継承者であったアランソン公フランソワが病死したのです。アンリ3世自身には子供がいなかったため、これにより、ヴァロワ家の直系男子の血筋が、アンリ3世の代で途絶えることが確実となりました。フランスの王位継承法(サリカ法)によれば、次の王位継承者は、プロテスタントであるナバラ王アンリでした。
カトリック同盟は、プロテスタントの王の誕生を阻止するため、スペインの支援を受けて公然と反乱を起こします。フランスは、「三アンリの戦い」(国王アンリ3世、ギーズ公アンリ、ナバラ王アンリ)として知られる、最終的な内戦へと突入しました。
1588年、パリ市民がギーズ公を支持して蜂起し(バリケードの日)、アンリ3世は首都からの脱出を余儀なくされます。権威を失墜させられたアンリ3世は、同年12月、ブロワの城でギーズ公アンリとその弟を暗殺するという暴挙に出ました。カトリーヌは、この暗殺計画を知らされていなかったと言われています。息子が犯したこの行為が、王国をさらなる混乱に陥れることを悟った彼女は、絶望に打ちひしがれたと言われています。
ギーズ公暗殺からわずか数週間後の1589年1月5日、カトリーヌ=ド=メディシスは、ブロワの城で、胸膜炎のため69歳の生涯を閉じました。彼女は、死の床で、息子アンリ3世に対し、敵対していたナバラ王アンリと和解するよう懇願したと伝えられています。彼女の死は、当時の混乱の中ではほとんど注目されませんでした。パリが反乱状態にあったため、彼女の遺体は、フランス国王の伝統的な墓所であるサン=ドニ大聖堂に埋葬されることもできず、ブロワに仮埋葬されることになりました。
彼女の死から8ヶ月後、最愛の息子アンリ3世もまた、狂信的なカトリック教徒によって暗殺されます。これにより、ヴァロワ朝は完全に断絶し、カトリーヌが予見した通り、ナバラ王アンリがアンリ4世として即位し、ブルボン朝を創始することになるのです。
遺産

カトリーヌ=ド=メディシスの歴史的評価は、極めて複雑で、毀誉褒貶に満ちています。後世、特に19世紀の歴史家たちによって、彼女は、サン=バルテルミの虐殺を計画した、権力欲の強い、マキャヴェリズムを信奉する邪悪なイタリア人女王として描かれることが多くありました。彼女の黒い服(夫の死後、生涯喪服を脱がなかった)や、占星術や黒魔術への関心といったイメージが、その「黒い伝説」を補強しました。
しかし、近年の研究では、このような一面的な評価は見直されつつあります。多くの歴史家は、彼女を、宗教戦争という未曾有の国難の中で、何よりもまず息子たちの王権とフランス王国の統一を守ろうとした、現実主義的な政治家として再評価しています。彼女の融和政策は、時代の過激主義の前に挫折しましたが、それはフランスという国家の存続を最優先に考えた、プラグマティックな試みでした。彼女は、30年近くにわたって、崩壊寸前の王国を、その外交手腕と不屈の精神力によって、かろうじて支え続けたのです。
政治家としての側面だけでなく、カトリーヌはルネサンス文化の偉大なパトロンでもありました。彼女は、故郷イタリアから最新の文化をフランス宮廷に導入しました。建築への情熱は特に有名で、チュイルリー宮殿の建設や、シュノンソー城の庭園の設計など、数多くの壮大な建築プロジェクトを後援しました。これらの建築は、フランス=ルネサンス様式の発展に大きく貢献しました。
また、彼女はバレエの原型とされる、音楽、舞踊、詩、演劇を融合させた豪華な宮廷スペクタクル「バレ=コミック」の発展にも寄与しました。1581年に娘の結婚を祝して上演された『王妃のバレ=コミック』は、その最初の本格的な作品とされています。さらに、美食家であった彼女は、フォークの使用や、アーティチョーク、マカロンといった新しい食材や料理をフランスに紹介したとも言われています(ただし、これらの逸話には誇張も含まれています)。
カトリーヌ=ド=メディシスの生涯は、一人の女性が、運命の激しい浮き沈みの中で、いかにして権力の頂点に上り詰め、そして巨大な困難に立ち向かったかを示す、壮大なドラマです。フィレンツェの孤児からフランスの王母へ。日陰の妻から王国の摂政へ。平和の調停者から虐殺の責任者へ。彼女の生涯は、ヴァロワ朝の最後の輝きと、その血塗られた終焉の物語そのものでした。彼女が残した遺産は、その功罪を含め、その後のフランスの歴史に、深く、そして消しがたい痕跡を残しているのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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