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統一法とは わかりやすい世界史用語2589
著作名: ピアソラ
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統一法とは

統一法は、16世紀から17世紀にかけてイングランド議会で制定された一連の法律の総称です。これらの法律が目指したのは、イングランド国教会における礼拝の形式、祈祷書の内容、そして儀式の執行方法を国家の権威の下で統一することでした。ヘンリー8世に始まるイングランド宗教改革の激動期において、カトリックとプロテスタントの対立が国を二分する中で、統一法は宗教的な秩序を確立し、王権の優位性を確保するための極めて重要な政治的手段でした。それぞれの統一法は、制定された時代の君主の宗教政策と、それを取り巻く複雑な政治情勢を色濃く反映しており、イングランドの宗教的アイデンティティが形成されていく過程そのものを物語っています。これらの法律は単に教会内の規則を定めただけではなく、イングランド国民の信仰生活、ひいては国家のあり方そのものに深く関わるものでした。



1549年統一法

最初の統一法は、エドワード6世の治世下、1549年1月21日に制定されました。若き国王の名の下で国政を主導したのは、初代サマセット公エドワード・シーモアでした。彼はプロテスタント改革を推進する立場にあり、この法律はその政策の核心をなすものでした。この法律の最も重要な点は、イングランドで初となる英語の祈祷書、『共通祈祷書』の使用を全国のすべての教会に義務付けたことです。
宗教改革の進展

ヘンリー8世の時代、イングランド教会はローマ教皇の権威から離脱しましたが、その教義や礼拝形式は依然としてカトリック的な要素を色濃く残していました。しかし、エドワード6世が即位すると、カンタベリー大主教トマス・クランマーを中心とする改革派が主導権を握り、より明確なプロテスタント化への道筋をつけようとしました。それまでの礼拝はラテン語で行われ、地域ごとに異なる多様な典礼(例えば、ソールズベリー式、ヨーク式、ヘレフォード式など)が用いられていました。このような多様性は、国家としての宗教的統一を妨げるものと見なされたのです。クランマーは、国民が理解できる自国語で、かつ神学的に統一された礼拝形式を確立することが、真の宗教改革を根付かせるために不可欠であると考えました。
共通祈祷書の導入

この目的のために編纂されたのが、1549年版の『共通祈祷書』です。この祈祷書は、クランマーの神学的洞察と優れた文才の結晶であり、伝統的なカトリックの典礼と、大陸のプロテスタント、特にルター派の思想を巧みに融合させたものでした。ラテン語のミサに代わり、聖餐式は「主の晩餐、通称ミサ」と名付けられ、信徒がパンとワインの両方を受ける「両種陪餐」が認められました。一方で、聖職者の祭服や一部の儀式など、カトリック的な要素も意図的に残されました。これは、急進的な改革を避け、保守的な聖職者や信徒の反発を和らげるための妥協の産物でした。この祈祷書は、イングランドの言語と文化に深く根差した、格調高い英語で書かれており、その後の英語圏の文学や祈りの言葉に計り知れない影響を与えることになります。
法律の内容と罰則

1549年統一法は、すべての聖職者に対して、1549年6月9日の聖霊降臨祭までにこの新しい祈祷書を礼拝で用いることを厳命しました。これに違反した者には厳しい罰則が科せられました。初犯の聖職者は1年間の聖職禄を剥奪され、6ヶ月の禁固刑。再犯の場合は聖職を永久に剥奪され、1年間の禁固刑。三犯に至っては終身刑が待っていました。また、祈祷書を批判したり、聖職者が祈祷書を使用するのを妨害したりする俗人にも罰金が科せられました。この法律は、個人の良心よりも国家が定めた宗教的儀礼の遵守を優先させるという、イングランド国教会の基本的な性格を明確に示したのです。
祈祷書反乱

しかし、この強制的な改革は、特にカトリックの信仰が根強く残っていた地域で激しい反発を引き起こしました。特にコーンウォールとデヴォンでは、新しい英語の祈祷書に対する不満が爆発し、「祈祷書反乱」と呼ばれる大規模な民衆蜂起へと発展しました。反乱軍は、ラテン語のミサの復活や伝統的な儀式の回復を要求しました。彼らにとって、英語の祈却書は単なる言語の変更ではなく、先祖代々受け継いできた信仰そのものへの攻撃と映ったのです。政府は傭兵を投入してこの反乱を残酷に鎮圧しましたが、この出来事は、宗教改革が国民に受け入れられるには、まだ多くの困難が伴うことを示していました。
1552年統一法

1549年の統一法と最初の共通祈祷書は、改革派と保守派の双方から不満を招く妥協的なものでした。大陸から亡命してきたマルティン・ブツァーやピエトロ・マルティーレ・ヴェルミーリといった、より急進的なプロテスタント神学者たちは、1549年版祈祷書に残るカトリック的要素を厳しく批判しました。彼らの影響を受けたクランマー自身も、改革をさらに前進させる必要性を痛感していました。また、サマセット公に代わって政権を握ったノーサンバーランド公ジョン・ダドリーも、政治的な理由からプロテスタント改革を支持しました。こうした背景から、より徹底した改革を目指す第二の統一法が制定されることになります。
第二の共通祈祷書

1552年、改訂された第二の共通祈祷書が発行されました。この祈祷書は、1549年版に比べてはるかにプロテスタント色が強いものでした。聖餐式に関する記述は、パンとワインがキリストの体に「変化」するというカトリックの「実体変化説」を明確に否定し、それを象徴的な記念行為と見なすツヴィングリ派に近い立場を取りました。聖職者が着用する祭服は簡素なサープリスのみとされ、祭壇は木製のテーブルに置き換えられました。聖人のための祈りや死者のための祈りなど、カトリック的と見なされる儀式はほぼ完全に排除されました。この改訂は、イングランド国教会が大陸のカルヴァン主義やツヴィングリ主義に大きく接近したことを示すものでした。
法律の強化

1552年の統一法は、この新しい祈祷書の使用を義務付けるとともに、その対象を聖職者だけでなく、一般の信徒にまで拡大しました。この法律により、すべての国民は日曜および祝祭日に教会の礼拝に出席することが法的に義務付けられました。正当な理由なく礼拝を欠席した者には、教会の懲罰が科せられることになったのです。これは、国家が国民一人ひとりの宗教的実践に直接介入するという、極めて画期的な措置でした。国家の定めた礼拝への参加を強制することで、国民の思想と行動を統一し、宗教的な異論を封じ込めようとする意図が明確に見て取れます。この法律は、イングランド国教会体制が、単なる教会の問題ではなく、国家統治の根幹に関わるものであることを示していました。
メアリー1世による覆轍

しかし、この急進的なプロテスタント改革は長続きしませんでした。1553年にエドワード6世が若くして亡くなると、ヘンリー8世の長女であり、敬虔なカトリック教徒であったメアリー1世が王位を継承します。彼女は即位するやいなや、父と弟が進めた宗教改革をすべて覆し、イングランドをローマ・カトリック教会に復帰させることを宣言しました。エドワード時代の統一法は廃止され、ラテン語のミサが復活しました。トマス・クランマーをはじめとする多くのプロテスタント指導者たちは「異端者」として火刑に処せられ、イングランドは再び宗教的対立の嵐に見舞われることになります。
1559年統一法

1558年、メアリー1世が亡くなり、妹のエリザベス1世が即位すると、イングランドの宗教問題は再び大きな転換点を迎えます。エリザベスは、プロテスタントとして育てられましたが、姉の治世下でカトリック教徒として振る舞うことを強いられた経験から、宗教問題に対して極めて慎重かつ現実的なアプローチを取りました。彼女の目標は、カトリックとプロテスタントの過激な対立を避け、可能な限り多くの国民を包摂できるような、穏健で包括的な国民教会を確立することでした。この「エリザベス朝の宗教的解決」の法的根幹をなしたのが、1559年に制定された「国王至上法」と「統一法」です。
政治的背景と議会での対立

エリザベスの即位当初、議会、特に貴族院にはメアリー時代に任命されたカトリックの司教たちが依然として大きな力を持っていました。彼らはプロテスタント改革への回帰に強く抵抗しました。一方で、メアリー時代に大陸へ亡命し、カルヴァン主義の強い影響を受けて帰国したプロテスタントたち(いわゆる「マリアン亡命者」)は、より徹底的な改革を求めていました。エリザベスと彼女の顧問であるウィリアム・セシルは、この両極端の間に巧みな妥協点を見出す必要がありました。当初、政府は1552年版の急進的な祈祷書を復活させようとしましたが、貴族院の強い反対に遭い、法案は否決されました。この膠着状態を打開するため、政府は戦略を練り直し、より穏健な内容の法案を提出しました。
1559年版共通祈祷書

最終的に成立した1559年の統一法が定めたのは、1552年版の祈祷書を基本としながらも、保守派に配慮していくつかの修正を加えた新しい共通祈祷書でした。最も重要な変更点は、聖餐式の言葉です。新しい祈祷書では、1549年版のよりカトリック的な表現(「私たちの主イエス・キリストの体、あなたの体を永遠の命に至るまで保ちたまえ」)と、1552年版のより象徴的な表現(「キリストがあなたのために死なれたことを覚え、信仰をもって心のうちに感謝しつつ、これを受けなさい」)が結合されました。この曖昧さを含んだ表現により、聖餐式の解釈について異なる神学的立場を持つ人々が、同じ礼拝に参加することが可能になったのです。また、聖職者の祭服についても、1549年版で許可されていたカトリック的な祭服の着用が再び認められました。さらに、ローマ教皇を侮辱するような祈りも削除されました。
法律の内容と「中道」

1559年の統一法は、この改訂された祈祷書の使用を再び全国の教会に義務付け、日曜礼拝への出席を国民の義務としました。礼拝を欠席した者には1シリングの罰金が科せられました。この罰金は、貧しい人々にとっては決して軽い負担ではありませんでした。この法律によって確立されたエリザベス朝の教会は、教義的には穏健なプロテスタントでありながら、儀式や組織構造においてはカトリックの伝統を一部保持するという、独特の「中道」の性格を持つことになりました。この曖昧で包括的なアプローチは、エリザベスの長い治世を通じてイングランド国教会の基本的な性格を決定づけ、その後のアングリカニズムの発展の基礎を築きました。しかし、この妥協的な解決は、すべての問題を解決したわけではありませんでした。
ピューリタンとカトリックの不満

エリザベスの「中道」政策は、両極端の勢力からの不満を招きました。一方には、ローマ教皇への忠誠を捨てきれないカトリック教徒(リキューザント)がいました。彼らは統一法に従うことを拒否し、秘密裏にミサを執り行いました。政府は彼らに対して次第に厳しい弾圧を加えるようになります。もう一方には、教会内に残る「カトリックの残滓」を徹底的に排除し、ジュネーヴの教会のような純粋な改革教会をイングランドに樹立しようと望む、急進的なプロテスタントたちがいました。彼らは「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれるようになり、祈祷書、司教制度、祭服といったエリザベス朝教会のあり方を執拗に批判し続けました。彼らの存在は、次の世紀にイングランドを内戦へと導く大きな要因となっていきます。
1662年統一法=王政復古と国教会の再確立

17世紀半ば、ピューリタン革命とそれに続くイングランド内戦によって、チャールズ1世は処刑され、王政と司教制度、そして共通祈祷書は廃止されました。オリバー・クロムウェルによる共和制(護国卿体制)の下では、長老派や独立派といった様々なプロテスタント教派が力を持つ一方で、宗教的な統一は失われました。しかし、1660年にチャールズ2世が帰還し、王政が復古すると、国教会の再建が喫緊の課題となりました。この王政復古期の宗教的解決を決定づけたのが、1662年に制定された統一法です。
サヴォイ会議と祈祷書の改訂

チャールズ2世は、亡命先から発した「ブレダ宣言」において、宗教的な寛容を約束していました。王政復古後、国教会を再建するにあたり、穏健なピューリタン(長老派)を教会内に取り込むための話し合いが行われました。1661年に開催されたサヴォイ会議では、国教会の司教たちと長老派の代表者が、祈祷書の改訂について議論しました。長老派は、司教制度の権限縮小や、儀式における個人の良心の自由など、多くの改革案を提示しました。しかし、内戦を経てピューリタンへの反感を強めていた国教会側の高教会派(ハイ・チャーチ)は、ほとんど譲歩の姿勢を見せませんでした。結局、会議は決裂し、和解の道は閉ざされました。
その後の祈祷書改訂作業は、高教会派の聖職者会議(コンヴォケーション)が主導権を握って進められました。その結果完成した1662年版の共通祈祷書は、ピューリタンの要求をほぼ完全に退け、むしろ1559年版よりもカトリックに近い、儀式主義的な性格を強めるものでした。例えば、聖餐式で残ったパンとワインを聖別して崇敬する「黒の式文」の復活を求めるピューリタンの要求は拒否され、司教による按手(堅信礼)を受けていない者は聖餐式にあずかれないことが明記されました。
法律の厳格な内容

1662年の統一法は、この新しい祈祷書の使用を強制するものでしたが、その内容はエリザベス朝の法律よりもはるかに厳格で非妥協的なものでした。この法律は、すべての聖職者に対して、1662年8月24日(聖バーソロミューの日)までに、新しい祈祷書に含まれる「すべての事柄」に対して「心からの同意と承諾」を公に宣言することを要求しました。さらに、聖職に就く者はすべて、司教による叙階を受けていなければならないと定められました。これは、内戦期に司教制度が廃止されていた間に叙階された長老派や独立派の聖職者を、事実上、国教会から排除することを意味していました。
大追放と非国教徒の誕生

この法律の厳しい要求を受け入れることができなかった約2,000人もの聖職者たちが、聖バーソロミューの日に自らの聖職を放棄しました。この出来事は「大追放」として知られています。彼らは、良心に従って国教会を離れることを選び、独自の会衆を形成していきました。この法律によって国教会から排除された人々が、イングランドにおける「非国教徒(ノンコンフォーミスト)」または「ディセンター」と呼ばれるプロテスタント諸派の直接の起源となります。1662年の統一法は、エリザベス朝が目指した包括的な国民教会という理念を放棄し、厳格な教義と儀礼の遵守を求める排他的な国教会体制を確立しました。この法律と、それに続くクラレンドン法典と呼ばれる一連の非国教徒弾圧法によって、イングランド社会における国教徒と非国教徒の分裂は決定的なものとなり、その後のイングランドの政治と社会に長く影響を及ぼすことになります。
統一法の緩和と廃止

1662年の統一法によって確立された厳格な国教会体制は、その後2世紀にわたって維持されましたが、次第にその硬直性が社会の変化に対応できなくなっていきます。18世紀から19世紀にかけて、非国教徒やカトリック教徒の社会的・政治的影響力が増大するにつれて、彼らに対する法的差別を撤廃しようとする動きが強まっていきました。
1828年には審査法が廃止され、非国教徒が公職に就く道が開かれました。翌1829年にはカトリック解放法が成立し、カトリック教徒にも同様の権利が認められました。これらの改革は、統一法が前提としていた「国教徒=イングランド国民」という図式を崩壊させるものでした。
そして1872年、ついに統一法改正法が制定され、1662年法の最も厳格な条項の一部が緩和されました。これにより、聖職者が祈祷書の内容に「心からの同意と承諾」を宣言する義務は、祈祷書の教義が神の言葉と一致することを信じるという、より一般的な宣誓に置き換えられました。
さらに20世紀に入ると、国教会自身の中から、礼拝形式の多様化を求める声が高まります。1928年には、より現代的な言語と多様な典礼の選択肢を含む改訂祈祷書法案が議会に提出されましたが、プロテスタント的な伝統を守ろうとする議員たちの反対によって否決されるという出来事もありました。このことは、国教会の事柄に対する議会の介入権が、もはや時代遅れであることを示す象徴的な事件となりました。
最終的に、1969年の教会会議(権限)法によって、国教会は自らの礼拝に関する事柄を、議会の承認なしに決定する権限を獲得しました。これにより、統一法によって定められてきた国家による礼拝形式の強制という400年以上にわたる歴史は、事実上終わりを告げたのです。今日、イングランド国教会では、1662年版の共通祈祷書と並んで、より現代的な『コモン・ワーシップ』と呼ばれる礼拝書が広く用いられており、礼拝の形式はかつてない多様性を見せています。統一法という一連の法律は、イングランドが宗教的アイデンティティを模索し、確立していく過程で生まれた、対立と妥協、そして権力と信仰が織りなす複雑な歴史の証人と言えるでしょう。

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