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ルネサンスとは わかりやすい世界史用語2483 |
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著作名:
ピアソラ
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ルネサンスとは
歴史の大きな潮流の中で、時折、人間の精神が堰を切ったように解き放たれ、文化や思想が爆発的な輝きを放つ時代があります。ヨーロッパのルネサンスは、まさにそのような時代のひとつでした。この言葉はフランス語で「再生」を意味し、一般的には14世紀のイタリアに始まり、16世紀にかけてヨーロッパ全土に広がった文化運動を指します。それは、中世という長い時代を経て、忘れ去られていたかのように見えた古代ギリシャ=ローマの古典的な学問や芸術を「再生」させようとする試みでした。しかし、ルネサンスの本質は、単なる過去の文化の復興にとどまるものではありません。それは、神が世界の中心であった中世的な価値観から、人間そのものの可能性と尊厳に目を向け、理性の力で世界を捉え直そうとする、根本的な精神の変革でした。
この時代、芸術家たちは神の威光を描くことから人間の肉体の美しさや内面の葛藤を表現することへと向かい、学者たちは聖書の解釈から古代の哲学者の言葉に新たな知恵を見出しました。建築家は天を目指すゴシック様式の大聖堂ではなく、人間の身体の比率に基づいた調和のとれた空間を創造しようと試みました。この「人間の再発見」ともいえる大きなうねりは、絵画、彫刻、建築、文学、哲学、科学、そして政治思想に至るまで、社会のあらゆる側面に浸透し、ヨーロッパが近代へと歩みを進めるための知的・文化的な礎を築きました。ルネサンスは、中世の黄昏と近代の黎明が交錯する、複雑で、矛盾に満ち、そして何よりも人間的な情熱と創造力にあふれた、魅力的な時代であったと言えるでしょう。この時代の多層的な様相を深く掘り下げることは、その後の西洋文明の軌跡を理解する上で不可欠な作業となります。
なぜイタリアから始まったのか
ルネサンスという文化の奔流が、ヨーロッパの他のどの地域でもなく、14世紀のイタリア半島から湧き出したのは、決して偶然ではありませんでした。そこには、古代の遺産、経済的な繁栄、そして社会的な流動性という、新しい文化が花開くための条件が奇跡的に揃っていたのです。これらの要因が相互に作用し、知的・芸術的革新のための肥沃な土壌を形成しました。
古代ローマの記憶が息づく土地
まず何よりも、イタリアはかつてのローマ帝国の中心地でした。中世を通じて、古代の栄光は遠い過去のものとなっていましたが、その痕跡は半島の至る所に物理的な形で残っていました。ローマのフォロ=ロマーノの廃墟、巨大なコロッセオ、水道橋のアーチ、そして打ち捨てられた神殿の柱。これらは、キリスト教以前に、かくも壮大で高度な文明が存在したことを、人々に無言で語りかけていました。学者たちが忘れられた図書館の奥からキケロの弁論やリウィウスの歴史書を再発見したとき、彼らは単に古いテキストを読んでいたのではありません。彼らは、自らが立つ土地に眠る偉大な祖先たちの声を聞き、その精神を蘇らせようとしていたのです。他のヨーロッパ地域にとって古代ローマが伝説であったとすれば、イタリア人にとってそれは、手を伸ばせば触れることのできる、具体的な遺産でした。この地理的な近さが、古典古代への親近感と、それを「再生」させようという情熱の源泉となったことは想像に難くありません。
この物理的な遺産は、特に建築家や彫刻家にとって、直接的なインスピレーションの源泉となりました。フィリッポ=ブルネレスキやドナテッロといった初期ルネサンスの巨匠たちは、ローマを訪れ、パンテオンの巨大なドーム構造や、コンスタンティヌス帝の凱旋門に施されたレリーフなどを熱心に研究し、その技術や表現を自らの作品に取り入れました。古代の彫刻に見られる人体の自然なプロポーションや、衣服の襞のリアルな表現は、中世の様式化された表現からの脱却を促す、強力な触媒となったのです。
地中海貿易がもたらした富と自由
中世後期のイタリアは、ヨーロッパで最も都市化が進み、経済的に繁栄した地域でした。ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェといった都市国家は、十字軍以降、東地中海のレヴァント貿易を支配し、東方の香辛料や絹織物、奢侈品をヨーロッパ各地へ供給することで莫大な富を蓄積しました。この富は、強力な商人階級、銀行家、そしてギルド(同業者組合)を生み出しました。彼らは、土地に縛られた封建貴族とは異なり、自らの才覚とリスクテイクによって富を築き上げた、進取の気性に富む人々でした。
フィレンツェのメディチ家のように、銀行業で財を成した一族は、その富を単に蓄えるだけでなく、芸術家や学者のパトロンとなって、彼らの活動を積極的に支援しました。これは、単なる慈善活動ではありませんでした。壮麗な宮殿を建て、当代随一の画家に礼拝堂の装飾を依頼し、古代写本の収集に資金を投じることは、自らの一族の権威と名声を高め、ライバル都市や政敵に対する優位性を示すための、極めて有効な手段だったのです。富が集中し、それが文化的な投資へと向かう好循環が、ルネサンスの芸術家たちがその才能を存分に発揮できる土壌を育みました。このパトロネージのシステムは、芸術家がギルドの職人という立場から、パトロンと個人的な関係を結ぶ独立した作り手へと、その社会的地位を向上させる一因ともなりました。
また、これらの都市国家は、神聖ローマ皇帝やローマ教皇といった普遍的な権力から、事実上独立した政治的共同体でした。市民たちは、自らの都市の運営に誇りを持ち、共和制の理念のもとで政治に参加しました。このような自由な空気は、封建的な身分制度や教会の厳格な教義に縛られない、新しい思想や表現が生まれるための重要な条件でした。都市間の絶え間ない競争は、文化的な領域においても、他都市を凌駕するような傑作を生み出す動機付けとなりました。
ビザンツ帝国からの知の流入
もう一つ見逃せないのが、東のビザンツ帝国(東ローマ帝国)との交流です。ビザンツ帝国は、西ローマ帝国滅亡後も、古代ギリシャの言語、文学、哲学の伝統を千年以上にわたって保持し続けていました。14世紀から15世紀にかけて、オスマン=トルコの脅威が高まるにつれ、多くのビザンツの学者が、貴重なギリシャ語の写本を携えてイタリアへと亡命してきました。
特に、1439年にフィレンツェで開催された公会議(フィレンツェ公会議)は、東西教会の合同を目指して多くのビザンツ人聖職者や学者がイタリアを訪れる契機となり、知的な交流を加速させました。そして1453年にコンスタンティノープルが陥落したことは、この知の西遷を決定的なものにしました。プラトンの著作をはじめとする、中世西ヨーロッパではほとんど知られていなかった古代ギリシャの哲学や科学の文献が、イタリアにもたらされました。これらは、アリストテレス哲学をキリスト教神学と統合させたスコラ学が支配的だった西ヨーロッパの知の世界に、新鮮な衝撃を与えました。プラトンのイデア論は、芸術家たちに、目に見える世界を超えた理想的な美を探求するインスピレーションを与え、ギリシャ語の原文で聖書を読む動きは、後の宗教改革へとつながる聖書解釈の新たな地平を切り開きました。
中世後期の危機と社会の変化
14世紀のヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)の大流行も、逆説的にルネサンスの土壌を準備した側面があります。人口の3分の1から半分が失われたこの未曾有のカタストロフィは、人々に死を身近に感じさせ、来世の救済だけでなく、現世の生の意味を深く問い直させました。また、労働力人口の激減は、生き残った農民や職人の価値を高め、賃金の上昇と封建的な束縛の緩和をもたらしました。社会の流動性が高まり、伝統的な秩序が揺らぐ中で、個人の能力や才覚がより重視される風潮が生まれたことも、ルネサンスの個人主義的な精神と無関係ではないでしょう。
このように、古代の記憶、経済的繁栄、政治的自由、そして東方からの知の流入という複数の要因が絡み合い、イタリアはルネサンスという新しい時代の精神を宿す、完璧な揺りかごとなったのです。
ヒューマニズム:ルネサンスの精神
ルネサンスという運動の思想的な核心にあったのが、ヒューマニズム(人文主義)です。この言葉は、現代で使われる「人道主義」とは少し意味合いが異なります。ルネサンスにおけるヒューマニズムとは、神学を中心とした中世の学問体系から離れ、古代ギリシャ=ローマの古典を研究することを通じて、人間とは何か、人間はいかに生きるべきかを探求しようとする知的運動でした。
ペトラルカ:「最初のヒューマニスト」
ヒューマニズムの父、あるいは「最初のヒューマニスト」と称されるのが、14世紀の詩人であり学者であったフランチェスコ=ペトラルカです。彼は、中世のスコラ学者が古典をキリスト教神学を正当化するための道具として利用したことを批判し、古典そのものの価値、特にその文体の美しさや道徳的な洞察力を純粋に評価しようとしました。彼は、忘れられていた修道院の図書館を渉猟し、キケロの書簡などの古代の写本を再発見しました。キケロの雄弁なラテン語の中に、彼は単なる文法の模範だけでなく、公的生活に積極的に関与する市民の理想像を見出しました。
また、ペトラルカは、自身の内面世界を深く掘り下げたことでも画期的でした。彼の代表作である『カンツォニエーレ(叙情詩集)』は、ラウラという女性への報われない愛を主題としていますが、その詩は、中世の騎士道物語のような定型的な女性賛美ではなく、愛の喜び、苦悩、嫉妬、希望といった、極めて個人的で生々しい感情の揺れ動きを瑞々しく描き出しています。このように、個人の内面的な経験に価値を見出し、それを表現しようとする姿勢は、ルネサンスの人間中心的な精神の現れでした。彼はまた、キリスト教信仰と古典古代への憧憬という、二つの世界の狭間で引き裂かれる自己の葛藤を『わが秘密』の中で赤裸々に告白しており、近代的な自己意識の萌芽を示しているとも言えます。
市民的ヒューマニズムと「万能人」の理想
15世紀のフィレンツェでは、ヒューマニズムはさらに発展し、「市民的ヒューマニズム」と呼ばれる潮流を生み出します。レオナルド=ブルーニやコッルッチョ=サルターティといった思想家たちは、ペトラルカのような個人的な思索や隠遁的な生活よりも、古典の研究から得た知識や徳を、共和制国家であるフィレンツェの政治生活に積極的に活かすべきだと主張しました。彼らは、古代ローマの共和制を理想とし、市民が公的な義務を果たし、祖国の自由と栄光のために貢献することこそが、人間にとって最も高貴な生き方であると考えたのです。この思想は、フィレンツェの支配者層に受け入れられ、政治家や外交官が古典的な教養を身につけることが奨励されました。
ヒューマニズムはまた、「万能人(ウオーモ=ウニヴェルサーレ)」という新しい人間像を理想として掲げました。これは、特定の分野だけでなく、精神的、身体的、芸術的なあらゆる能力を調和的に発展させた、完成された個人のことです。この理想を最も体現した人物が、レオン=バッティスタ=アルベルティでしょう。彼は、建築家、画家、音楽家、詩人、哲学者、数学者、さらには優れた馬術家でもありました。彼は『絵画論』や『建築論』といった著作で、芸術を単なる職人の技術から、数学的な法則と知性に基づく高貴な学問へと高めようとしました。彼にとって、人間は神から与えられた才能を最大限に開花させる可能性を秘めた存在であり、その努力こそが現世における人間の使命でした。この「万能人」の理想は、後のレオナルド=ダ=ヴィンチにおいて、その究極的な姿を見ることになります。
プラトン主義の復興と新しい人間観
15世紀後半のフィレンツェでは、コジモ=デ=メディチとその孫ロレンツォ=デ=メディチの庇護のもと、プラトン哲学の研究が盛んになりました。マルシリオ=フィチーノは、プラトンの全著作をラテン語に翻訳し、カレッジの地に「プラトン=アカデミー」を設立しました。フィチーノは、プラトン哲学とキリスト教神学を統合しようと試み、人間の魂は、神的な世界と物質的な世界を結ぶ中心的な存在であると説きました。
このアカデミーのもう一人の重要人物であるピコ=デッラ=ミランドラは、その思想をさらに推し進め、1486年に『人間の尊厳について』と題された有名な演説を著しました。この中で彼は、神がアダムに語りかけるという形で、ルネサンスの人間観を最も雄弁に表現しています。神は、他のすべての被造物とは異なり、人間には定まった場所も姿も与えず、自由な意志によって自らの本性を自分で決定する力を与えた、と。人間は、望むならば獣にまで堕落することもできるし、神のような存在にまで上昇することもできる。この、人間の無限の可能性と自己形成の自由を謳い上げた思想は、まさにヒューマニズムの宣言とも言うべきものでした。
印刷技術とヒューマニズムの拡散
15世紀後半、ヨハネス=グーテンベルクによる活版印刷技術の発明は、ヒューマニズムの思想がイタリアからアルプスを越え、ヨーロッパ全土へと広がる上で決定的な役割を果たしました。それまで手書きで写されていた高価で希少な古典のテキストや、ヒューマニストたちの著作が、安価に、そして大量に印刷されるようになったのです。ヴェネツィアのアルド=マヌーツィオのような出版業者は、ギリシャ=ローマの古典を、携帯可能な小型の判型で次々と出版し、学問の普及に大きく貢献しました。
この新しい技術の恩恵を最も受けたヒューマニストの一人が、ネーデルラント出身のデジデリウス=エラスムスです。彼は「ヒューマニストの王子」と称され、ヨーロッパ中の知識人と書簡を交わし、巨大な知的ネットワークの中心となりました。彼は、ギリシャ語の新約聖書を校訂・出版し、聖書の原典研究の重要性を説きました。また、代表作『痴愚神礼賛』では、聖職者の腐敗やスコラ学者の空虚な議論を痛烈に風刺し、内面的な敬虔さに根ざした、より人間的なキリスト教のあり方を提唱しました。彼のような北方ルネサンスのヒューマニストたちは、イタリアのヒューマニストたちよりも、キリスト教の改革というテーマに強い関心を抱いており、その活動はマルティン=ルターによる宗教改革の思想的な下地を準備したとも言われています。
ルネサンス美術:調和、写実、そして人間の賛歌
ルネサンスの精神が最も鮮やかで、後世に最も大きな影響を残した分野は、間違いなく美術、すなわち絵画、彫刻、建築でした。ルネサンスの芸術家たちは、中世の職人という地位から脱却し、自らの知性と創造性によって世界を表現する、独立した作り手としての地位を確立していきました。
初期ルネサンス:フィレンツェの革新者たち
15世紀初頭のフィレンツェは、まさに芸術革命の震源地でした。ここで、三人の天才的な芸術家たちが、それぞれ絵画、彫刻、建築の分野で、中世の伝統を打ち破る決定的な一歩を踏み出しました。
建築の分野では、フィリッポ=ブルネレスキがその先駆者です。彼の最大の功績は、フィレンツェ大聖堂(サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂)の巨大なクーポラ(円蓋)を完成させたことです。ゴシック様式で建設が進められていたこの大聖堂には、直径40メートルを超える巨大な開口部が残されており、その上にいかにしてドームを架けるかは、長年の難問でした。ブルネレスキは、古代ローマのパンテオンの研究などから着想を得て、二重殻構造や独創的な煉瓦の積み方といった革新的な工法を考案し、この技術的な難事業を見事に成し遂げました。この壮麗なクーポラは、フィレンツェの市民的な誇りの象徴となると同時に、人間の知性と技術力の勝利を告げる記念碑となりました。彼はまた、絵画における数学的な一点透視図法(線遠近法)の発明者とも考えられています。これにより、二次元の平面上に、三次元のリアルな空間を合理的に描き出すことが可能になり、その後の西洋絵画のあり方を決定づけました。
彫刻の分野では、ドナテッロが革命を引き起こしました。彼は、中世の彫刻が教会の壁の一部として建築に従属していたのに対し、どの角度から見ても鑑賞できる独立した丸彫りの彫像を復活させました。彼の初期の傑作であるブロンズ製の『ダヴィデ』像は、ゴリアテの首を踏みつけて立つ、若々しい裸体の少年として描かれています。これは、古代以来、千年ぶりに作られた等身大の男性裸体像であり、キリスト教的な罪の意識から解放された、人間の肉体の美しさと英雄的な精神を賛美するものでした。彼の作品は、解剖学的な正確さと、人物の内面から滲み出るような力強い感情表現において、他の追随を許しませんでした。
絵画の分野では、マサッチオが、ブルネレスキの透視図法とドナテッロの人間描写のリアリズムを統合し、絵画に新たな次元をもたらしました。フィレンツェのサンタ=マリア=ノヴェッラ聖堂にあるフレスコ画『聖三位一体』では、完璧な一点透視図法を用いて、まるで壁の向こうに本物の礼拝堂が存在するかのような、驚くべき空間の奥行きを生み出しました。また、ブランカッチ礼拝堂の壁画では、登場人物たちを、まるでドナテッロの彫刻のように立体的で重量感のある存在として描き、その表情や身振りを通じて、物語の劇的な瞬間における人間の感情を見事に表現しました。彼の革新は、その後のすべてのフィレンツェの画家たちにとっての教科書となりました。
これらの革新者たちに続き、サンドロ=ボッティチェッリは、古代神話を主題とした異教的な作品『春(プリマヴェーラ)』や『ヴィーナスの誕生』を描きました。これらの作品は、キリスト教の主題から離れ、フィレンツェのプラトン=アカデミーで議論されていた新プラトン主義的な愛や美の理想を、優美で繊細な線描と甘美な色彩で表現したもので、ロレンツォ=デ=メディチの洗練された宮廷文化を象徴しています。
盛期ルネサンス:天才たちの時代
15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は、ルネサンス美術がその頂点を迎えた「盛期ルネサンス」の時代と呼ばれます。この時代、芸術の中心はフィレンツェから、教皇の強力なパトロネージのもと、ローマへと移りました。そして、レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロ=ブオナローティ、ラファエロ=サンティという、西洋美術史上最も偉大な三人の巨匠が、それぞれに不滅の傑作を生み出しました。
レオナルド=ダ=ヴィンチは、まさにルネサンスが理想とした「万能人」の化身でした。彼は、画家、彫刻家、建築家、音楽家であると同時に、科学者、技術者、そして解剖学者でもありました。彼の探究心は森羅万象に向けられ、その膨大な手稿には、人体の構造、鳥の飛翔、水の渦、植物の成長など、驚くほど精密な観察とスケッチが残されています。彼の科学的な知識は、その芸術と分かちがたく結びついていました。ミラノのサンタ=マリア=デッレ=グラツィエ修道院の食堂に描かれた『最後の晩餐』では、一点透視図法を完璧に駆使して劇的な空間を創造し、キリストが「あなたたちの一人が私を裏切るだろう」と告げた瞬間の、弟子たち一人一人の心理的な動揺を、その表情と身振りによって見事に描き分けました。『モナ=リザ』では、「スフマート」と呼ばれる、輪郭線をぼかして描く技法を用いて、人物と背景を溶け合わせ、表情に神秘的で捉えどころのない深みを与えています。
ミケランジェロは、自らを何よりもまず彫刻家であると考えていました。彼は、大理石の塊の中に、すでに理想的な形(イデア)が眠っており、彫刻家の仕事は、その周りの余分な部分を取り除いて、それを解放することだと信じていました。その信念は、若き日の傑作『ピエタ』や、フィレンツェ共和国の象徴となった巨大な『ダヴィデ』像に結実しています。彼の描く人体は、超人的な筋力と、内面に渦巻く激しい情熱(テリビリタ)をたたえており、観る者を圧倒します。教皇ユリウス2世に命じられて制作したシスティーナ礼拝堂の天井画は、まさに超人的な偉業でした。彼は、足場の上で仰向けになりながら、4年以上の歳月をかけて、旧約聖書の創世記の物語を、数百人の預言者や巫女、裸体の青年たちの躍動的な姿で埋め尽くしました。その中心に描かれた『アダムの創造』における、神とアダムの指先が触れ合う寸前の緊張感は、西洋美術における最も象徴的なイメージの一つです。
ラファエロは、レオナルドの深い陰影表現と、ミケランジェロの力強い人体表現を学び、それらを統合して、優雅で、明晰で、完璧な調和に満ちた独自の様式を確立しました。彼の描く聖母子像は、その穏やかで人間的な愛情表現によって、後世の宗教画の規範となりました。ヴァチカン宮殿の「署名の間」に描いたフレスコ画『アテナイの学堂』は、盛期ルネサンスの精神を最もよく表す作品と言えるでしょう。ブルネレスキ風の壮大な建築空間の中に、プラトンやアリストテレスをはじめとする古代ギリシャの哲学者や科学者たちが一堂に会し、真理について語り合っています。そこには、キリスト教の神学者はおらず、人間の理性が世界の中心に据えられています。ラファエロは、古代の偉人たちの姿に、レオナルドやミケランジェロ、そして彼自身の顔を描き込むことで、ルネサンスの芸術家たちが、古代の賢人たちに連なる存在であることを高らかに宣言したのです。
ヴェネツィア派と北方ルネサンス
ローマやフィレンツェのルネサンスが、素描(ディゼーニョ)と形態の明確さを重視したのに対し、水の都ヴェネツィアでは、色彩(コローレ)と光の効果を重視する、独自の絵画の伝統が発展しました。ヴェネツィア派の画家たちは、フレスコ画よりも、湿気の多い気候に適した油彩画を好み、カンヴァスの上で豊かな色彩を重ねることで、感覚的で詩的な雰囲気を生み出しました。ティツィアーノ=ヴェチェッリオは、その代表的な画家であり、宗教画、神話画、そして肖像画など、あらゆるジャンルで卓越した才能を発揮し、ヨーロッパ中の王侯貴族から注文が殺到しました。彼の作品は、後のルーベンスやベラスケスといったバロックの巨匠たちに、計り知れない影響を与えることになります。
一方、アルプス以北のフランドル(現在のベルギー周辺)やドイツでも、イタリアとは異なる特徴を持つルネサンス美術が花開きました。北方ルネサンスの画家たちは、イタリアの画家たちのような古代彫刻への関心は薄かったものの、油彩画の技法をいち早く発展させ、驚くべき細密描写によって、現実世界の質感や光をリアルに再現しました。ヤン=ファン=エイクは、油彩技法の完成者とされ、その作品『アルノルフィーニ夫妻の肖像』では、部屋の中のシャンデリアの金属光沢、人物の衣服の毛皮の質感、そして背後の鏡に映り込んだ室内の様子までが、信じられないほどの精密さで描かれています。ドイツのアルブレヒト=デューラーは、イタリアを旅してルネサンスの理論を学び、それを北方の写実主義の伝統と融合させました。彼は、画家であると同時に、版画家としても傑出した才能を発揮し、その木版画や銅版画の作品は、ヨーロッパ中に流布し、彼の名声を高めました。
ルネサンスの広がりと多様性
ルネサンスはイタリアで生まれましたが、その影響は15世紀末から16世紀にかけてヨーロッパ全土へと広がりました。しかし、それは単にイタリア文化が模倣されたという単純なものではなく、各地域の独自の文化や社会状況と結びつき、多様な形で展開されました。
文学:俗語の開花と新しい人間像
ルネサンスは、ラテン語だけでなく、各国の言語(俗語)による文学が大きく花開いた時代でもありました。イタリアでは、ダンテが『神曲』で、ペトラルカが『カンツォニエーレ』で、ボッカッチョが『デカメロン』で、それぞれトスカーナ方言を洗練された文学言語へと高めました。特に『デカメロン』は、ペストから逃れた男女が語り合う百の物語という形式で、聖職者の偽善や人間の欲望を、機知に富んだ写実的な筆致で描き出し、中世的な道徳観から解放された新しい人間像を提示しました。
フランスでは、フランソワ=ラブレーが『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の中で、巨人親子の奔放な物語を通じて、旧弊なスコラ的教育や修道院制度を痛烈に風刺し、ヒューマニズム的な自由な学びを称揚しました。ミシェル=ド=モンテーニュは、『エセー(随想録)』という新しい文学形式を生み出し、自己の内面を深く省察することで、普遍的な人間性の探求へと至りました。
スペインでは、ミゲル=デ=セルバンテスが『ドン=キホーテ』を著しました。時代遅れの騎士道物語を読みすぎて現実と妄想の区別がつかなくなった主人公の滑稽な冒険を描いたこの作品は、単なる風刺小説にとどまらず、理想と現実の狭間で生きる人間の悲哀と偉大さを描き出した、近代小説の先駆けとされています。
そして、この時代の文学の頂点に立つのが、イギリスのウィリアム=シェイクスピアです。彼は、その戯曲の中で、ハムレットの苦悩、マクベスの野心、リア王の狂気といった、時代や文化を超えて共感を呼ぶ、人間の感情のあらゆる側面を深く掘り下げました。彼の作品に登場する人物たちは、類型的なキャラクターではなく、複雑で矛盾に満ちた、生身の個人として描かれており、ルネサンスが到達した人間理解の深さを示しています。
科学と技術:近代への助走
ルネサンスは、一般的に17世紀に始まるとされる「科学革命」の時代とは区別されますが、その知的探求は、近代科学の成立に向けた重要な準備段階となりました。ヒューマニストたちによる古代ギリシャの科学文献(ユークリッドの幾何学、プトレマイオスの天文学、ガレノスの医学など)の再発見と翻訳は、新たな研究の出発点を提供しました。
レオナルド=ダ=ヴィンチのように、芸術家が人体の構造を理解するために解剖を行うことは、タブーへの挑戦であり、近代的な解剖学の基礎を築きました。アンドレアス=ヴェサリウスは、1543年に出版した精密な解剖図譜『ファブリカ(人体の構造について)』で、古代の権威ガレノスの説の誤りを実証的に示し、医学史における画期をなしました。
天文学の分野では、ニコラウス=コペルニクスが、同じく1543年に『天球の回転について』を出版し、地球が宇宙の中心であるとする伝統的な天動説を覆し、太陽中心の地動説を提唱しました。この「コペルニクス的転回」は、すぐには受け入れられませんでしたが、宇宙における人間の位置づけを根本的に問い直すものであり、科学革命の幕開けを告げるものでした。
これらの科学的な探求は、ルネサンスの精神、すなわち権威を鵜呑みにせず、自らの観察と理性によって真理を探究しようとする姿勢から生まれたものでした。
政治思想:近代国家論の萌芽
ルネサンス期のイタリアは、都市国家間の絶え間ない抗争の時代でもありました。このような政治的混乱の中で、新しい国家論が模索されました。ニッコロ=マキャヴェッリは、フィレンツェ共和国の外交官としての経験に基づき、1513年頃に『君主論』を執筆しました。この中で彼は、君主が国家を維持し、権力を獲得するためには、時には伝統的なキリスト教の道徳から逸脱し、非情な手段をとることも必要であると説きました。彼の思想は、宗教や道徳から切り離された、冷徹で現実主義的な近代政治学の出発点と見なされています。
ルネサンスの遺産と終焉
ルネサンスは、16世紀半ばから後半にかけて、次第にその輝きを失っていきます。その背景には、いくつかの歴史的な変動がありました。
1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊がローマに侵攻し、略奪の限りを尽くすという「ローマ劫掠」が起こりました。この事件は、ルネサンス文化の中心地であったローマを荒廃させ、盛期ルネサンスの楽観的で調和的な時代の終わりを象徴する出来事となりました。また、マルティン=ルターに始まる宗教改革は、キリスト教世界の統一を打ち砕き、ヨーロッパを深刻な宗教対立と戦争の時代へと導きました。カトリック教会は、対抗宗教改革によって内部の規律を引き締め、トリエント公会議では、ルネサンス期に描かれた異教的な主題や裸体表現が批判され、芸術に対する統制が強化されました。
芸術の様式も変化していきます。盛期ルネサンスの完璧な調和と安定感に代わって、マニエリスムと呼ばれる、より技巧的で、不安感を煽るような新しいスタイルが登場します。マニエリスムの画家たちは、引き伸ばされた人体、不安定な構図、現実離れした色彩などを用いて、洗練されてはいるものの、どこか人工的で神経質な世界を描き出しました。
しかし、ルネサンスの精神が完全に消え去ったわけではありません。人間への関心、合理的な探究心、そして古典古代への敬意は、その後のヨーロッパ文化の根底に深く流れ込み、17世紀の科学革命や18世紀の啓蒙思想へと直接つながっていきました。ガリレオやニュートンといった科学者たちは、まさにルネサンスの芸術家たちが切り開いた、観察と数学によって世界を理解しようとする道を突き進んだ探求者でした。ロックやルソーといった啓蒙思想家たちは、ヒューマニストたちが再発見した古代の共和制の理念や、個人の尊厳という思想を発展させ、近代的な民主主義の理論を構築しました。
ルネサンスは、一つの完結した時代というよりは、中世から近代への長い移行期の、最も創造的な局面であったと考えることができます。それは、古い価値観が崩れ、新しい世界が生まれる瞬間の、まばゆいばかりの閃光でした。その光の中で、ヨーロッパは「人間」を発見し、その後の数世紀にわたって世界のあり方を規定することになる、知的好奇心、批判的精神、そして無限の創造性という、近代的な精神の原型を形作ったのです。
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- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























