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ドイツ農民戦争とは わかりやすい世界史用語2563 |
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著作名:
ピアソラ
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ドイツ農民戦争とは
1524年から1525年にかけて、神聖ローマ帝国南部の広大な地域を席巻したドイツ農民戦争は、ヨーロッパ史上最大規模の民衆蜂起の一つです。この出来事は、単なる農民の反乱という言葉では到底捉えきれない、複雑で多層的な性格を帯びていました。それは、長年にわたって蓄積されてきた社会経済的な不満が、マルティン=ルターによって解き放たれた宗教改革という新たな思想の奔流と合流し、爆発的なエネルギーとなって噴出した、時代の転換点を象徴する大事件でした。この戦争を理解するためには、まずその舞台となった16世紀初頭の神聖ローマ帝国の社会構造に目を向ける必要があります。当時の社会は、厳格な身分制度に縛られていました。頂点に君臨するのは皇帝と諸侯、そして高位聖職者たちです。彼らは広大な領地を支配し、政治的・軍事的な権力を独占していました。その下に騎士階級が続き、都市の市民たちが独自の共同体を形成していましたが、社会の圧倒的多数を占めていたのは、土地に縛り付けられた農民たちでした。
農民たちの生活は、決して楽なものではありませんでした。彼らの多くは、領主に対して重い賦役と貢納の義務を負っていました。賦役とは、領主の直営地での無償労働であり、週のうち数日をこれに費やさなければなりませんでした。貢納は、収穫物の一部や家畜、鶏卵などを現物で納めるもので、その負担は年々重くなる傾向にありました。さらに、領主が亡くなったり、農民が結婚したりする際には、死亡税や結婚税といった特別な税金が課せられました。これらの伝統的な封建的負担に加え、15世紀末から16世紀にかけて、農民たちの状況をさらに悪化させる新たな動きが強まっていました。それは、領主たちが「古き良き法」を無視し、一方的に新たな義務を課したり、これまで農民たちが共同で利用してきた森林、牧草地、河川といったコモンズ(入会地)を私有化したりする動きです。森での薪拾いや狩猟、川での漁労、牧草地での家畜の放牧は、農民たちの生活を支える上で不可欠な権利でしたが、領主たちはこれらの権利を奪い、自らの経済的利益を最大化しようとしました。この背景には、貨幣経済の浸透と、ローマ法がもたらした新しい所有権概念の影響がありました。共同体的な権利よりも、排他的な私有財産権を重視するローマ法の理念は、領主たちが農民の伝統的な権利を侵害するための理論的な武器となったのです。
こうした経済的な搾取に加え、農民たちは領主の裁判権の下に置かれ、しばしば恣意的な裁きに苦しめられていました。領主の役人たちは、些細な罪状で高額な罰金を科し、農民たちのなけなしの財産を奪い取っていきました。彼らの生活は、常に領主の気まぐれに左右される、不安定で屈辱的なものだったのです。このような状況に対し、農民たちは決して無抵抗だったわけではありません。15世紀後半から16世紀初頭にかけて、ドイツ南部では「ブントシュー」(紐付きの農民靴)や「貧しきコンラート」といった旗印の下、散発的な農民一揆が頻発していました。これらの蜂起は、特定の領主の不正に対する抵抗運動であり、局地的なものでしたが、社会の底流に渦巻く不満と抵抗のエネルギーが、いかに大きなものであったかを示しています。しかし、これらの初期の蜂起には、地域や領邦の壁を越えて人々を結びつける、統一的な思想や大義名分が欠けていました。彼らの要求は、あくまでも「古き良き法」の回復、すなわち不正な搾取が行われる以前の伝統的な秩序への回帰を目指すものであり、社会構造そのものを変革しようとする射程は持っていませんでした。
この状況を一変させたのが、1517年に始まるマルティン=ルターの宗教改革でした。ルターが掲げた「聖書のみ」という原則と、「キリスト者の自由」という理念は、神学者たちの論争の域をはるかに超え、社会の隅々にまで野火のように広がっていきました。ルターは、教皇や聖職者といった人間の権威ではなく、神の言葉である聖書こそが信仰の唯一の基準であると説きました。そして、信仰によって義とされたキリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な君主であり、何人にも従属しないと宣言したのです。もちろん、ルターがここで語った「自由」は、あくまでも内面的な、霊的な自由であり、地上の身分制度や社会秩序を否定するものではありませんでした。しかし、長年、領主の二重の支配(世俗的支配と宗教的支配)に苦しんできた農民たちにとって、この言葉は全く異なる響きを持って聞こえました。彼らは、ルターの教えを、自らの社会的・経済的な解放を正当化する「福音」として受け取ったのです。「神の言葉の前では、誰もが平等であるはずだ。聖書に書かれていない不当な税や賦役は、神の法に反するものではないか」。このような考えが、農民たちの間に急速に広まっていきました。宗教改革のメッセージは、それまでバラバラだった農民たちの不満に、神の正義という普遍的な大義名分を与え、彼らを一つの巨大な運動へと結集させるための、強力なイデオロギー的接着剤となったのです。ドイツ農民戦争は、まさにこの封建的な抑圧という火薬庫に、宗教改革という火の粉が舞い込んだことによって引き起こされた大爆発でした。
農民の要求「十二箇条」
1524年の夏、シュヴァーベン地方のシュテューリンゲン伯領で始まった小さな反乱は、瞬く間に南ドイツ全域へと燃え広がりました。当初は散発的だった蜂起は、各地で「ハウフェン」と呼ばれる農民の武装集団を形成し、組織的な運動へと発展していきます。この運動が、単なる破壊的な暴動ではなく、明確な政治的目標を持つ革命運動としての性格を帯びる上で決定的な役割を果たしたのが、1525年3月に上シュヴァーベン地方の自由都市メミンゲンで採択された「メミンゲン十二箇条」でした。この文書は、ドイツ農民戦争における最も重要かつ影響力のある綱領であり、農民たちの要求と思想を雄弁に物語っています。
「十二箇条」の起草には、説教師のクリストフ=シャペラーや、毛皮職人のゼバスティアン=ロッツァーといった人物が関わったとされています。彼らは、農民たちの具体的な不満の声を拾い上げ、それをルターの宗教改革思想、特に「神の法」という概念を用いて理論的に正当化しました。この文書の画期的な点は、その要求が、単なる経済的な負担の軽減に留まらず、共同体の自治権の確立や、封建的な身分制度そのものへの根本的な問いかけを含んでいたことです。そして、そのすべての要求の正当性を、聖書の言葉に求めている点が、それ以前の農民一揆とは一線を画す最大の特徴でした。
「十二箇条」の冒頭は、この運動が暴力的な反乱ではなく、キリスト教の福音に基づいた平和的で正当な要求であることを高らかに宣言しています。そして、第一条では、共同体が自らの牧師を自由に選任し、罷免する権利を要求しています。これは、領主や司教が一方的に司祭を任命する従来の制度を否定し、信仰生活における共同体の自治権を確立しようとするものであり、宗教改革の「万人祭司」の理念を直接的に反映したものでした。牧師は、人間の教えを混ぜることなく、純粋な福音のみを説くべきであると定められています。
第二条以降は、より具体的な経済的要求が続きます。第二条では、十分の一税について、本来は牧師の生活を支え、貧者を助けるためのものであると述べ、穀物の十分の一税(大十分の一税)は認めるものの、家畜や野菜などに課される小十分の一税は聖書に根拠がないとして、その廃止を求めています。これは、教会による恣意的な徴税に対する批判であり、税の使途を共同体の管理下に置こうとする意図がうかがえます。
そして、第三条は、この文書全体の中でも特に革命的な条項です。「これまで我々が農奴として扱われてきたことは、神がその尊い血によって我々すべてを等しく贖い、解放してくださったことを考えれば、嘆かわしいことである。したがって、我々は自由であり、自由であることを望む、と聖書は結論付けている」。これは、農奴制そのものを、キリストの贖罪の教えに反する非キリスト教的な制度として、真っ向から否定するものです。ただし、彼らは無政府状態を望んでいるわけではなく、神によって立てられた権威(領主)には従うと述べており、その要求はあくまでも封建的な人身支配からの解放に向けられていました。
第四条から第十条にかけては、農民たちの生活に直結する、伝統的な権利の回復が掲げられています。第四条は、貧しい者が川で漁をしたり、森で狩りをしたりする権利を奪われていることの不当性を訴え、これらの共有資源が共同体の手に返還されるべきだと主張します。第五条は、領主によって私有化された森林の返還を要求し、共同体のメンバーが自由に薪を採取できる権利を求めています。第六条から第九条にかけては、日ごとに重くなる賦役の軽減、古き法に反する新たな貢納の禁止、そして恣意的な罰金ではなく、公正な法に基づく裁判を要求しています。第十条は、かつて共同体に属していた牧草地や耕地の返還を求めており、これら一連の条項は、領主による封建的反動、すなわち農民の権利侵害に対する強い抵抗の意志を示しています。
第十一条では、死亡税(領主が死亡した農民の遺族から最も良い家財を奪う権利)の完全な廃止を要求し、このような非人道的な搾取が神と名誉に反すると断じています。
そして、最後の第十二条は、この文書全体の結論であり、その思想的な核心を示すものです。彼らは、ここに掲げた条項の一つでも聖書の言葉に反するものがあれば、その条項は喜んで撤回すると宣言しています。そして逆に、聖書の中から、神の法に合致し、隣人愛にかなう新たな要求が見出されたならば、それも受け入れる用意があると述べているのです。これは、彼らが自らの要求の最終的な審判者を、領主や皇帝ではなく、聖書の言葉そのものに置いていることを明確に示しています。彼らは、聖書を手に、領主たちと対等な立場で交渉し、神の法に基づいた新しい社会契約を打ち立てようとしていたのです。
「十二箇条」は、活版印刷によって瞬く間にドイツ全土に広まり、各地の農民蜂起の共通の旗印となりました。その内容は、農民だけでなく、都市の職人や下層民にも広く共感を呼び、運動の拡大に大きく貢献しました。それは、中世的な身分社会の不正を、聖書という絶対的な権威の下に告発し、より公正でキリシタン的な社会秩序のビジョンを提示した、近代ヨーロッパ初の人権宣言の一つとさえ評価できる画期的な文書でした。
マルティン=ルターの反応
ドイツ農民戦争の勃発当初、マルティン=ルターの態度は、農民と領主の双方に対する警告と和解の呼びかけという、比較的穏健なものでした。1525年4月、彼は「シュヴァーベン農民の十二箇条に対する平和への勧告」と題する文章を発表します。この中で彼は、まず領主たちに対して、その強欲と圧政が今回の反乱を引き起こしたのだと厳しく非難しました。「この反乱と不和の原因は、あなた方、諸侯と領主、盲目の司教、狂った司祭と修道士の他にはない」と断じ、農民たちの要求の多くが正当なものであることを認め、彼らの負担を軽減し、公正に扱うよう強く求めました。彼は、領主たちが頑なな態度を取り続けるならば、神の怒りが彼らの上に下るだろうと警告しました。
一方で、ルターは農民たちに対しても、その行動を厳しく戒めました。彼は、農民たちが自らの要求を正当化するために福音(聖書)の名を用いていることを批判し、キリスト者の自由とはあくまでも霊的な自由であって、世俗的な事柄における反乱を正当化するものではないと強調しました。彼は、キリストが教えたのは忍耐と十字架を背負うことであり、剣を取って権力に抵抗することではないと説きました。たとえ領主が不正であっても、神によって立てられた権威に服従することがキリスト者の義務であるというのが、彼の基本的な政治思想(二王国論)でした。彼は、農民たちが暴力に訴えることは、自らの大義を汚し、悪魔に利するだけだと警告し、双方に平和的な話し合いによる解決を促したのです。この時点でのルターは、両者の仲介者として、事態の沈静化を図ろうとしていたと言えます。
しかし、彼の期待とは裏腹に、事態は急速に悪化の一途をたどります。農民たちの蜂起はますます過激化し、各地で修道院や城が襲撃され、略奪や破壊行為が横行しました。特に、テューリンゲン地方では、急進的な説教師トマス=ミュンツアーに率いられた農民軍が、暴力革命によって地上の神の国を樹立しようと呼びかけ、その影響力は日増しに強まっていました。ルターにとって、ミュンツアーは福音を歪め、社会秩序を破壊する「悪魔の預言者」であり、その活動は断じて容認できるものではありませんでした。農民たちが、自らの和解案を無視し、ミュンツアーのような扇動者に導かれて破壊活動をエスカレートさせていくのを見て、ルターの態度は硬化します。
そして1525年5月初旬、ルターは、彼のキャリアの中でも最も物議を醸すことになる、激烈な文章を発表します。それが、「人殺しと強盗を働く農民の徒党に対して」です。この短いパンフレットの中で、ルターの農民に対する態度は、180度転換していました。もはや和解の呼びかけはなく、そこにあるのは、反乱者に対する容赦のない弾圧の要求だけでした。彼は、農民たちが三つの大罪を犯していると断じます。第一に、彼らは領主への服従を誓ったにもかかわらず、それを破って反乱を起こした。第二に、彼らは略奪や破壊行為によって、強盗や殺人者と同じ罪を犯している。そして第三に、最も許しがたい罪として、彼らはその邪悪な行いを福音の名の下に正当化し、神の名を冒涜している、と。
この結論から、ルターは恐るべき言葉を紡ぎ出します。「それゆえ、誰にでもできる者は、彼らを打ち殺し、絞め殺し、刺し殺すがよい。公然と、あるいは密かに。狂犬を打ち殺さねばならぬのと同じように!」。彼は、諸侯に対して、ためらうことなく剣を取り、反乱農民を鎮圧するよう呼びかけました。反乱者を殺すことは、神に対する奉仕であり、それによって死んだ領主は、信仰のための殉教者となれるとさえ述べたのです。この文章は、農民たちに同情的だった人々にも大きな衝撃を与え、ルターが農民を裏切ったという非難が巻き起こりました。しかし、ルターの立場からすれば、これは彼の神学的な信念に根差した、必然的な帰結でした。彼の考える宗教改革は、あくまでも霊的な領域における改革であり、社会秩序の安定を絶対的な前提としていました。農民たちの反乱は、その秩序そのものを破壊し、福音の純粋な教えを政治的な暴力と混同させる、許しがたい脅威と映ったのです。彼は、福音の教えを守るためには、社会の無秩序(アナーキー)という、より大きな悪を断固として排除しなければならないと考えたのです。
ルターのこの激烈な檄文が、農民戦争の結末にどの程度影響を与えたかを正確に測ることは困難です。諸侯たちは、ルターの呼びかけがなくとも、自らの権力と財産を守るために、いずれは農民軍の鎮圧に乗り出していただろうことは間違いありません。しかし、宗教改革の指導者であるルターが、諸侯の武力弾圧に神学的な正当性を与えたことは、彼らが容赦のない、徹底的な鎮圧を行う上で、心理的な追い風となったことは確かです。ルターの言葉は、諸侯の剣を祝福し、その刃をさらに鋭くする役割を果たしたのです。この一件は、ルターと、彼が解き放った宗教改革の理念が、現実の社会政治のダイナミズムの中で、いかに複雑で矛盾に満ちた役割を演じることになったかを示す、象徴的な出来事として歴史に刻まれることになりました。
戦争の経過と結末
1525年の春、農民たちの蜂起が頂点に達した頃、彼らは南ドイツからオーストリア、スイスの一部に至る広大な地域を支配下に置き、その勢いはとどまるところを知らないように見えました。各地で結成された農民軍「ハウフェン」は、数千から時には一万人を超える規模に達し、その総数は30万人に及んだとも言われています。彼らは、鎌や斧、モーニングスターといった農具やありあわせの武器で武装し、時には傭兵経験のある者や、反旗を翻した下級騎士に率いられていました。彼らの進軍に対し、多くの小領主や修道院、小都市は抵抗するすべもなく、降伏か逃亡を余儀なくされました。農民軍は次々と城や修道院を占拠し、そこに蓄えられた食糧やワインを略奪し、積年の恨みを晴らすかのように、借金の証文や土地台帳を焼き払いました。この時期、農民たちの間には、封建的な支配の軛から解放され、神の正義に基づいた新しい社会が到来するという、千年王国的な熱狂と高揚感が渦巻いていました。
しかし、この農民たちの勝利は、長くは続きませんでした。当初、イタリアでの戦争に主力を投入していたり、農民の勢いを侮っていたりした有力な領邦君主たちが、ようやく事態の深刻さを認識し、本格的な反撃の準備を整え始めたのです。彼らは、シュヴァーベン同盟(南ドイツの諸侯、騎士、都市による軍事同盟)を中心に、強力な連合軍を組織しました。この諸侯軍は、農民軍とは比較にならない、圧倒的な軍事的優位性を備えていました。彼らは、ランツクネヒトと呼ばれる、当時ヨーロッパ最強と謳われた職業傭兵部隊を中核としていました。ランツクネヒトは、パイク(長槍)の密集方陣や、最新兵器である火縄銃、そして野戦砲といった高度な軍事技術で武装し、厳格な訓練と豊富な実戦経験を積んだプロの戦闘集団でした。
これに対し、農民軍は、数では勝っていたものの、その内実は多くの弱点を抱えていました。彼らは、共通の綱領である「十二箇条」の下に結集してはいたものの、その組織は地域ごとに分断されており、統一された指揮系統を欠いていました。戦術も未熟で、多くの場合、防御に有利な陣地を築いて敵を待ち構えるといった、受動的な戦略しか取れませんでした。また、その構成員は、土地に縛られた農民が中心であり、長期間にわたる遠征や戦闘を維持することは困難でした。春の農作業の時期が近づくと、多くの農民が故郷の畑を心配し、部隊から離脱していきました。
1525年4月から5月にかけて、両者の力関係は劇的に逆転します。シュヴァーベン同盟軍を率いるゲオルク=トゥルフゼス=フォン=ヴァルトブルク(「農民の鞭」の異名を持つ)は、各地で農民軍の撃破を開始しました。4月4日のライプハイムの戦いでは、数千人の農民が殺害され、農民側の最初の大きな敗北となりました。その後も、ヴュルツブルク近郊のケーニヒスホーフェンの戦いや、アルザス地方のツァーベルンの戦いなどで、諸侯軍は農民軍を一方的に虐殺しました。ランツクネヒトの規律の取れた槍衾の前に、農民たちの勇猛な突撃はことごとく跳ね返され、火縄銃と大砲の一斉射撃が、密集した農民の隊列に恐ろしいほどの損害を与えました。戦闘はしばしば、殺戮と呼ぶのがふさわしい様相を呈しました。降伏した農民たちも容赦されず、その場で処刑されたり、目をつぶされたり、手足を切り落とされたりといった、残虐な見せしめの刑に処せられました。
農民戦争の終焉を決定づけたのは、1525年5月15日にテューリンゲン地方で起こったフランケンハウゼンの戦いでした。この戦いで、急進派の指導者トマス=ミュンツアーに率いられた約8,000人の農民軍は、ヘッセン方伯フィリップとザクセン公ゲオルクが率いる諸侯連合軍と対峙しました。ミュンツアーは、神が奇跡を起こして自分たちを勝利に導くと信じ、農民たちを鼓舞しましたが、その期待は無残に裏切られます。諸侯軍の圧倒的な火力の前に、農民軍の戦列はわずか数分で崩壊し、逃げ惑う農民たちを騎兵隊が追撃し、殺戮しました。この戦いだけで5,000人以上の農民が命を落としたと言われています。ミュンツアー自身も捕らえられ、激しい拷問の末に斬首されました。このフランケンハウゼンの壊滅的な敗北によって、ドイツ中部の農民蜂起は完全に鎮圧され、他の地域の反乱も次々と鎮圧されていきました。夏になる頃には、かつてドイツ南部を揺るがした大反乱の炎は、チロル地方の一部を除いて、ほぼ完全に消し止められていました。
戦争の終結後、農民たちを待っていたのは、過酷な報復でした。反乱の指導者と見なされた者たちは、見せしめとして残虐な方法で処刑されました。生き残った農民たちには、莫大な賠償金が課せられ、その負担は彼らの生活をさらに圧迫しました。反乱前よりも重い賦役や貢納を課せられた地域も少なくありませんでした。農民たちが勝ち取ろうとした「キリスト者の自由」と「神の法」は、諸侯の剣の力によって無残に踏みにじられ、彼らの状況は以前にも増して絶望的なものとなったのです。この戦争における農民側の死者は、戦闘やその後の処刑を含め、約10万人に達したと推定されています。それは、ドイツ社会に深い傷跡を残し、その後の歴史の展開に決定的な影響を与える、あまりにも大きな犠牲でした。
農民戦争が後世に与えた影響
ドイツ農民戦争の壊滅的な敗北は、ドイツの社会、政治、そして宗教の風景を、後戻りできない形で大きく変容させました。その影響は多岐にわたり、その後の数世紀にわたるドイツ史の方向性を決定づける、深刻なものでした。
最も直接的かつ明白な結果は、農民階級の完全な敗北と、その後の地位の決定的な低下でした。戦争前、農民たちは少なくとも「古き良き法」に訴え、共同体の自治権を主張するだけの力を保持していました。しかし、戦争の敗北は、彼らの政治的な力を根こそぎ奪い去りました。彼らは武装解除され、その共同体組織は解体されるか、領主の厳格な管理下に置かれました。反乱に対する懲罰として課された重い賠償金は、多くの農民を破産させ、その土地を失わせました。彼らは、領主に対する抵抗の意志と能力を完全に喪失し、その後約300年にわたり、政治の舞台から姿を消すことになります。ドイツにおいて、フランス革命のような下からの革命が起こらず、近代化が上からの改革という形で進められることになる遠因の一つは、この農民戦争における民衆エネルギーの徹底的な挫折に求めることができます。農民たちは、物言わぬ、従順な臣民として、領邦国家の絶対主義的な支配体制の最底辺に組み込まれていったのです。
政治的なレベルでは、農民戦争は、領邦君主(諸侯)の権力を飛躍的に増大させ、神聖ローマ帝国の分権的な構造を決定づける役割を果たしました。戦争の過程で、皇帝や帝国全体の権威は、ほとんど機能しませんでした。反乱を鎮圧し、秩序を回復したのは、シュヴァーベン同盟に結集した諸侯たちの軍事力でした。彼らは、自らの力で領内の秩序を維持する能力があることを証明し、その権威を不動のものとしました。特に、プロテスタントを選択した諸侯たちは、この機会を利用して、領内のカトリック教会の財産(修道院領など)を没収し、自らの財政基盤を強化しました。そして、ルター派の教義に基づき、領主がその領地の教会の首長となる「領邦教会制」を確立していきます。これにより、諸侯は世俗的な権力だけでなく、宗教的な権力をもその手に集中させ、自らの領地において絶対君主のような力を持つに至りました。農民戦争は、結果として、ドイツにおける宗教改革が、民衆的な運動から、諸侯主導の「上からの改革」へと変質する決定的な転機となったのです。ルター自身も、農民戦争の混乱を目の当たりにして以降、改革の将来を、秩序を維持する力を持つ敬虔な君主に託すようになります。
宗教改革運動そのものにも、農民戦争は深い影を落としました。ルターが農民を激しく非難し、諸侯による弾圧を支持したことは、多くの民衆の失望と反感を招きました。彼らにとって、ルターは自分たちの正当な要求を裏切り、圧政者の側に立った裏切り者と映りました。これにより、ルター派の宗教改革は、その初期に持っていた民衆運動としての性格を大きく後退させ、主に都市の中産階級や諸侯の支持に依存するようになります。一方で、ルターの教えに幻滅した人々の一部は、より急進的な宗教改革の潮流、特に再洗礼派(アナバプテスト)へと向かいました。再洗礼派は、幼児洗礼を否定し、信者の主体的な信仰告白に基づく共同体を形成しようとしました。彼らは、国家と教会を明確に分離し、武器の所有や公職への就任を拒否する平和主義を掲げましたが、その非妥協的な姿勢ゆえに、カトリック、ルター派の双方から厳しい弾圧を受けることになります。農民戦争は、宗教改革運動の内部における、穏健な主流派と急進的な少数派との分裂を決定的なものにしたのです。
さらに、農民戦争の記憶は、ドイツ人の集合的無意識の中に、深いトラウマとして刻み込まれました。10万人もの死者を出したこの内戦の惨禍は、秩序の崩壊とアナーキー(無政府状態)に対する根深い恐怖を人々の心に植え付けました。権威への服従と、社会の安定を何よりも重視するメンタリティが、ドイツ社会に広く浸透する一因となったとも言われています。この戦争の解釈は、後世においても、それぞれの時代のイデオロギーを反映して大きく揺れ動きました。マルクス主義の歴史家たちは、この戦争を、封建制に対する最初のブルジョア革命の試み、あるいは階級闘争の重要な一里塚と位置づけました。特に、フリードリヒ=エンゲルスは、その著書『ドイツ農民戦争』の中で、トマス=ミュンツアーをプロレタリア革命の先駆者として英雄視しました。一方で、保守的な歴史家は、この戦争を、秩序を破壊する危険な暴動として描き、その鎮圧を正当化しました。ドイツ農民戦争は、単なる過去の出来事としてではなく、ドイツという国家のアイデンティティと、その歴史的進路をめぐる、終わりのない問いを投げかけ続ける、生きた記憶として存在し続けているのです。
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