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ルター派とは わかりやすい世界史用語2560 |
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著作名:
ピアソラ
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ルター派とは
「ルター派」という言葉は、16世紀の宗教改革の激動の中から生まれた、最初の、そして最も影響力の大きなプロテスタントの潮流を指します。この名称は、もともとマルティン=ルターの神学思想に追随する人々を、カトリックの論敵たちが軽蔑的に呼んだことに由来しますが、やがてそれは、ローマ教皇の権威から離れ、ルターが再発見した福音の理解に基づいて、新しい形の教会を形成しようとする、一大運動の旗印となりました。ルター派の運動は、一人の修道士、マルティン=ルターの個人的な霊的探求と、神の義に対する彼の苦悩から始まりました。彼がローマの信徒への手紙を通して「神の義は、信仰に始まり信仰に至らせる、信仰による義である」という福音の光を見出したとき、それは、彼個人の救済だけでなく、西洋キリスト教世界全体のあり方を根底から問い直す、巨大なエネルギーの源泉となったのです。この運動は、「信仰のみ」「聖書のみ」「恵みのみ」という三大原理を核心に据え、人間の行いや功績ではなく、ただ神の恵みとキリストの贖いの御業への信仰によってのみ、人は神の前に義とされ、救われると宣言しました。この教えは、贖宥状の販売や聖人崇敬、巡礼といった、中世カトリック教会の多くの実践の神学的根拠を覆し、聖職者と平信徒を隔てていた壁を取り払い、すべての信者が祭司として直接神の前に立つことができると教えました。しかし、ルター派の形成は、単なる神学的な言説の展開にとどまりませんでした。それは、ルターの思想に共鳴した諸侯や都市が、政治的な決断をもってローマから離脱し、自らの領邦に新しい教会制度を導入していくという、困難で複雑な、社会変革のプロセスでもありました。礼拝の改革、教育制度の整備、貧民救済の組織化といった、具体的な教会形成の課題に取り組む中で、ルター派は、その神学を、人々の日常生活の中に根付かせていきました。また、その過程で、ツヴィングリや再洗礼派といった、他の改革派との間に深刻な神学的対立を経験し、自らのアイデンティティを明確に規定する必要にも迫られました。
ルター派神学の核心
ルター派の運動を突き動かした原動力は、マルティン=ルターが苦闘の末にたどり着いた、福音、すなわち「良き知らせ」についての、新しい、そして彼にとっては聖書的な、根本的な理解でした。
信仰義認
ルター派神学のまさに心臓部であり、宗教改革全体の「それなくしては教会が成り立たない条項」とも呼ばれるのが、「信仰義認」(あるいは信仰による義認)の教理です。これは、罪深い人間が、いかにして聖なる神の前に正しい(義なる)者として受け入れられるか、という救済論の中心的な問いに対する、ルター派の答えでした。ルター自身、修道士として、断食、徹夜の祈り、自己鞭撻といった、あらゆる善行と苦行に励みましたが、彼の内なる罪の意識と、神の裁きに対する恐れは、深まるばかりでした。彼は、神の「義」を、罪人を罰する、恐ろしい裁きの基準としてしか理解できなかったのです。しかし、彼がヴィッテンベルク大学の塔の一室で(「塔の体験」として知られる)、ローマの信徒への手紙1章17節「福音には、神の義が啓示されている。その義は、信仰に始まり信仰に至らせるものである。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりである」という聖句と格闘していたとき、彼は、この「神の義」が、神が罪人に要求する義ではなく、神がキリストのゆえに、信仰を通して、罪人に無償で「与える」義であるという、画期的な理解に到達しました。つまり、人間は、自らの行いや努力、功績によって神に受け入れられるのではなく、ただ、自分の罪を認め、自分自身を救う能力がないことを告白し、イエス=キリストが十字架上で成し遂げた贖いの御業を、信頼をもって受け入れること(信仰)によってのみ、神から「義なる者」と見なされるのです。この義は、信者自身の内側から生じるものではなく、キリストの完全な義が、信者の外側から、神の恵みの宣告によって「転嫁」される(着せられる)ものです。この「信仰のみ」による救済という教えは、中世カトリック教会が教えていた、信仰に加えて、愛の行いや秘跡への参与が救いのために必要であるとする、半ペラギウス主義的な救済論に対する、根本的な挑戦でした。それは、救いの主導権を、人間の側から、完全に神の側へと取り戻す、神学的なコペルニクス的転回だったのです。
聖書のみ
ルター派の神学を支える、もう一つの重要な柱が、「聖書のみ」の原則です。これは、キリスト教の教義と実践に関する、すべての事柄を判断するための、最終的かつ最高の権威は、聖書のみであるとする教えです。中世カトリック教会では、権威は、聖書と、教会の「聖伝」(使徒以来の教会の教えや公会議の決定、教皇の教令など)という、二つの源泉からなると考えられていました。そして、実際には、聖書の唯一正当な解釈者であると主張する、教皇を頂点とした教会の教導権が、聖書よりも優位に立つことがしばしばありました。これに対し、ルターは、ヴォルムス帝国議会での有名な宣言に象徴されるように、教皇も公会議も誤りを犯す可能性があり、信者の良心を縛ることができるのは、神の言葉である聖書だけであると主張しました。聖書は、それ自体が明晰であり、自らを解釈する力を持っている(聖書の自己解釈性)と彼は考えました。もちろん、これは、誰もが自分勝手に聖書を解釈してよいという意味ではありません。ルターは、聖書全体の中心には、キリストにおける神の救いの御業という、明確なメッセージが存在すると信じていました。彼は、聖書を読む際には、「キリストを説くもの」を基準とすべきだと教えました。この「聖書のみ」の原則は、教皇の権威を相対化し、すべての信者が自ら聖書を読む権利と義務を持つという、万人司祭主義の教えと密接に結びついていました。それは、ルターをはじめとする改革者たちが、聖書を民衆の言葉に翻訳する作業に情熱を注いだ、強力な動機となったのです。
恵みのみ
「恵みのみ」の原則は、信仰義認の教理の前提となる、神の主権的な働きを強調するものです。これは、人間の救いが、いかなる意味においても、人間の側に存在する価値や功績、あるいは自由意志の決断に起因するのではなく、完全に、神の一方的な、無償の、そして人間には値しない好意、すなわち「恵み」のみに基づいているという教えです。ルターは、エラスムスとの間で行われた自由意志をめぐる論争(特に1525年の著作『奴隷意志論』)において、堕落した人間は、霊的な事柄に関して、自ら神を選び、救いに協力する能力を完全に失っていると主張しました。人間は、その意志が罪に「奴隷」のように縛られており、聖霊がその心に働きかけ、信仰を生じさせない限り、自力で神に立ち返ることはできないのです。したがって、信仰さえもが、人間の功績ではなく、神の恵みによって与えられる賜物です。この教えは、救いの全過程において、すべての栄光が神にのみ帰されるべきであることを保証し、人間が自らの救いについて誇る可能性を、徹底的に排除するものでした。
礼拝と秘跡の改革
ルター派の改革は、書斎の中の神学論争にとどまらず、教会の中心的な営みである礼拝のあり方を、その神学に基づいて具体的に変革していく実践的な運動でもありました。
ミサの改革
ルターにとって、中世後期のミサにおける最大の問題点は、それが、キリストの十字架上の犠牲を、祭壇の上で再び繰り返して神に捧げる「善行」であり「功績」であると見なされていたことでした。彼は、ミサを、人間が神に何かを捧げる場ではなく、むしろ、神が、その言葉と秘跡を通して、人間に、罪の赦しという福音の賜物を与える場として、再定義しようとしました。この神学的理解に基づき、彼は、ミサの式次第から、この「犠牲」の概念を示唆する部分、特に奉献祈祷の中心部分を削除しました。また、彼は、礼拝が会衆にとって理解可能であるべきだと考え、伝統的なラテン語のミサに加えて、1526年には『ドイツ語ミサ』を作成し、ドイツ語による礼拝の導入を推進しました。これにより、会衆は、聖書の朗読や説教、祈りを、自らの母語で聞き、礼拝に主体的に参加することができるようになりました。
説教の復権
ルター派の礼拝改革において、最も重要な変化の一つは、説教が、礼拝の中心的な位置を占めるようになったことです。中世のミサでは、説教はしばしば省略されたり、儀式の付属物と見なされたりしていました。しかし、ルターにとって、神の言葉が説かれることは、聖霊が人々の心に働きかけ、信仰を生じさせるための、主要な手段でした。説教は、単なる道徳的な訓話ではなく、聖書のテキストから、律法(人間の罪を示す)と福音(キリストによる救いを示す)を正しく区別して解き明かし、会衆に罪の赦しを告げ知らせる、生きた神の声そのものであるべきだと考えられました。このため、ルター派の教会では、牧師の主要な務めは、毎週の礼拝で、忠実に神の言葉を説くことであるとされ、牧師の養成においても、聖書解釈と説教学が、極めて重要な位置を占めるようになりました。
聖餐論
秘跡、特に聖餐(聖体拝領)の理解は、ルター派が、カトリック教会だけでなく、他のプロテスタント諸派とも、自らを区別する上で、決定的に重要な意味を持ちました。カトリック教会が、パンとぶどう酒が、その「実体」において、完全にキリストのからだと血に変化するという「全質変化」(化体説)を教えたのに対し、ルターは、これをアリストテレス哲学に基づいた、非聖書的な思弁であるとして退けました。しかし、彼は、チューリッヒの改革者フルドリッヒ=ツヴィングリのように、パンとぶどう酒が、単にキリストのからだと血を象徴する「しるし」に過ぎないとする、象徴説もまた、聖書の言葉をないがしろにするものであるとして、激しく批判しました。ルターは、「これはわたしのからだである」という、キリストの制定の言葉を、文字通り、そして素朴に受け止めるべきだと主張しました。彼は、パンとぶどう酒の「実体」が変化するのではなく、信者が聖餐にあずかる際に、パン「と共に、その内に、その下に」キリストのからだが、ぶどう酒「と共に、その内に、その下に」キリストの血が、「まことに」臨在し、信者に与えられると教えました。この「共在説」とも呼ばれるルターの教えは、秘跡における神の客観的な働きと、それが罪の赦しを与えるという約束を、固く守ろうとするものでした。この聖餐論をめぐる見解の相違は、1529年のマールブルク会談において、ルターとツヴィングリの間の決定的な決裂をもたらし、その後のプロテスタント内部の分裂を運命づけることになりました。
教会形成の実践
ルター派の宗教改革は、領邦君主や都市の権力者の支持を得て、具体的な社会制度として根付いていく過程で、様々な実践的な課題に直面しました。
教会巡察
宗教改革が導入された領邦では、長年にわたるカトリックの制度が崩壊し、教会の財産管理、牧師の任命、そして教義の純粋性を監督する、新しい統治システムが必要となりました。この課題に応えるため、ルターと彼の同労者フィリップ=メランヒトンの主導のもと、「教会巡察」の制度が導入されました。これは、領邦君主が任命した、神学者と法律家から成る巡察団が、領内の各教区を定期的に訪問し、牧師の神学的知識や説教の内容、信徒の信仰理解度、教会の財産や学校の状況などを調査し、指導するものでした。この巡察の結果、多くの牧師や信徒が、キリスト教の基本的な教えについてさえ、驚くほど無知であることが明らかになり、ルターは、信仰教育の必要性を痛感させられました。この経験が、彼が『小教理問答』と『大教理問答』を執筆する、直接の動機となったのです。教会巡察の制度は、ルター派の教えを、上からの改革として、領邦の隅々にまで浸透させ、制度化していく上で、決定的な役割を果たしました。また、それは、教会の監督権が、司教から領邦君主へと移行し、教会が国家の管理下に置かれる「領邦教会制」が確立していく、重要な一歩でもありました。
教育の重視とカテキズム
ルターは、すべての信者が聖書を自ら読むことができるべきだと考えており、そのためには、男女を問わず、すべての子供たちが基本的な教育を受けることが不可欠であると信じていました。彼は、1524年の論文『ドイツのすべての都市の市参事会員たちへ、キリスト教学校を設立し、維持すべきことを勧告する』の中で、公教育の重要性を力説しました。彼は、学校を、将来の有能な牧師や、国家に仕える役人を育てるためだけでなく、すべての市民が、神の言葉を理解し、家庭や社会で、キリスト者としての責任を果たすことができるようにするために、必要不可欠なものと見なしました。また、彼は、信仰の基本的な内容を、家庭や教会で教えるための、簡潔な手引きの必要性を感じていました。その結果生まれたのが、1529年に出版された『小教理問答』と『大教理問答』です。『小教理問答』は、家長が、その家族や使用人に教えることを想定して書かれており、十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐といった、キリスト教信仰の基本要素を、平易な言葉で、問答形式で解説しています。このカテキズムは、ルター派の家庭における信仰教育の根幹となり、何世紀にもわたって、ルター派の信徒たちの信仰とアイデンティティを形成する上で、聖書に次いで重要な役割を果たしました。
音楽と賛美歌
ルターは、音楽、特に会衆による賛美歌の歌唱を、神の言葉を宣べ伝え、信仰を育むための、極めて重要な手段であると考えていました。彼は、音楽を「神からの最高の賜物の一つ」と呼び、神学に次いで重要な位置を与えました。彼は、ツヴィングリやカルヴァンといった、一部の改革者たちが、礼拝における音楽の使用に慎重であったのとは対照的に、会衆が、自らの言葉で、信仰の喜びと確信を歌い上げることを、積極的に奨励しました。彼は、自らも優れた音楽家であり、「神はわがやぐら」をはじめとする、多くの賛美歌を作詞・作曲しました。彼は、既存のグレゴリオ聖歌の旋律を改作したり、民謡のメロディーを用いたりして、神学的に豊かで、かつ会衆が親しみやすい賛美歌を数多く生み出しました。これらの賛美歌は、ルター派の神学を、人々の心に深く刻み込む「歌われる説教」となり、宗教改革の思想を広める上で、印刷された文書と並んで、絶大な力を発揮しました。ルター派の伝統から、ヨハン=セバスティアン=バッハのような偉大な音楽家が生まれたのは、この、神学と音楽の深い結びつきと無関係ではありません。
政治的展開と信仰告白
ルター派の運動は、神聖ローマ帝国内の複雑な政治情勢と深く絡み合いながら、自らの存続をかけて、法的な承認を求める、長い闘いを繰り広げました。
シュマルカルデン同盟
1530年のアウクスブルク帝国議会で、ルター派の諸侯と都市が、彼らの信仰を体系的にまとめた「アウクスブルク信仰告白」を皇帝カール5世に提出したものの、カトリック側との和解は決裂しました。皇帝が、プロテスタントに対して、カトリックの信仰に戻るよう、厳しい態度で臨んだため、ルター派の諸侯たちは、自らの信仰と領地を、皇帝の武力攻撃から守るための、軍事的な防衛同盟を結成する必要に迫られました。その結果、1531年に結成されたのが、「シュマルカルデン同盟」です。この同盟は、ヘッセン方伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒを指導者とし、ルター派の主要な領邦と都市が加盟する、強力な政治的・軍事的なブロックを形成しました。この同盟の存在は、皇帝カール5世が、フランスやオスマン帝国との戦争に忙殺されていたこともあり、その後十数年間にわたって、ルター派が帝国内でさらに勢力を拡大するための、重要な政治的・軍事的な盾となりました。
アウクスブルク信仰告白
1530年にフィリップ=メランヒトンが起草し、アウクスブルク帝国議会で提出された「アウクスブルク信仰告白」は、ルター派の神学とアイデンティティを定義する上で、最も重要な文書となりました。この信仰告白は、好戦的な檄文ではなく、ルター派の教えが、いかに古代教会以来の普遍的なキリスト教信仰に忠実であり、聖書に基づいているかを、皇帝と帝国に対して、冷静かつ体系的に弁証しようとするものでした。それは、三位一体やキリスト論といった、古代教会と共通する教義を確認した上で、信仰義認、教会の本質、秘跡、聖人崇敬など、カトリック教会との間で論争となっている点について、ルター派の立場を明確に説明しました。また、聖職者の結婚や聖餐における二種陪餐といった、改革された実践についても、その正当性を主張しました。この信仰告白は、ルター派の諸侯と都市が、共通の信仰の名の下に結集するための、神学的な旗印となり、その後のすべてのルター派教会にとって、最も基本的な信仰告白文書として、権威ある地位を保ち続けることになります。
アウクスブルクの和議
シュマルカルデン同盟との戦争(1546-47年)における、皇帝カール5世の一時的な勝利の後、ドイツの宗教問題は、さらなる混乱を経て、最終的に1555年の「アウクスブルクの和議」によって、政治的な解決を見出しました。この和議は、「その地の支配者が、その地の宗教を決定する」という画期的な原則を確立し、神聖ローマ帝国内の各領邦君主が、カトリックとルター派(アウクスブルク信仰告白に基づくもの)のいずれかを選択する権利を、法的に認めました。これにより、ルター派は、ついに帝国内で、カトリック教会と並ぶ、公的な法的地位を獲得し、その存続が保証されることになりました。これは、ルター派にとって、数十年にわたる闘争の末に勝ち取った、重大な勝利でした。しかし、この和議には、大きな限界もありました。第一に、信仰の選択権は、個々の信者ではなく、領邦君主にのみ与えられたため、領主の信仰に従わない住民は、移住を余儀なくされました。第二に、この和議で認められたプロテスタントは、ルター派のみであり、カルヴァン派をはじめとする、他の改革派は、その対象から除外されていました。このことが、後の三十年戦争の火種の一つとなるのです。
保守的な改革の遺産
宗教改革期のルター派は、マルティン=ルターという一人の人物の霊的な発見から始まり、神聖ローマ帝国という複雑な政治的舞台の上で、神学的論争、政治的駆け引き、そして軍事衝突を経て、一つの確立された教会として、その地位を築き上げました。その神学は、「信仰のみ、聖書のみ、恵みのみ」という原則に集約される、福音中心のメッセージを掲げ、個人の内面的な信仰と、神との直接的な関係を強調しました。しかし、その改革は、ツヴィングリや再洗礼派といった、より急進的な改革派とは一線を画す、「保守的な」性格を持っていました。ルターは、聖書によって明確に禁じられていない限り、古代教会以来の伝統的な儀式や制度(例えば、司教制や礼拝における祭服、ロウソクなど)の多くを、保持することに寛容でした。彼は、社会の急激な変革や無秩序を嫌い、教会改革は、世俗の権威である領邦君主の指導の下で、秩序をもって進められるべきだと考えました。この「保守的な改革」という性格は、ルター派が、他のプロテスタント諸派とは異なる、独自の典礼的、神学的、そして政治的な特徴を持つに至った、重要な要因です。アウクスブルクの和議によって、その存在は法的に保証されましたが、それは同時に、ルター派が、ドイツの領邦国家体制と深く結びついた「領邦教会」として、その後の歴史を歩んでいくことを運命づけるものでもありました。宗教改革の火の手は、すでにヨーロッパ全土に広がり、カルヴァン主義という、より国際的で戦闘的な改革の波が、次の時代の主役となろうとしていましたが、ルター派が築き上げた神学的・教会的遺産は、プロテスタントという、キリスト教の新しい枝の、太い幹として、その後の西洋世界の歴史に、計り知れない影響を与え続けることになるのです。
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