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ラタナコーシン(チャクリ)朝とは わかりやすい世界史用語2443 |
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著作名:
ピアソラ
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ラタナコーシン(チャクリ)朝とは
ラタナコーシン(チャクリ)朝は、1782年から1932年まで続いたタイの王朝です。 この時代は、ビルマによるアユタヤの破壊という国家的危機の中から生まれ、チャクリ王朝の創設者であるラーマ1世によってバンコクが新たな首都として定められたことで幕を開けました。 ラタナコーシン朝の歴史は、大きく二つの時期に区分されます。前期は、内政の安定と国土の再建、そして周辺地域における覇権をめぐるビルマやベトナムとの闘争に特徴づけられます。 後期は、イギリスやフランスといった西欧列強の植民地主義の波が東南アジアに押し寄せる中で、シャム(当時のタイの国名)がその独立をいかにして維持したかという、外交と近代化の時代でした。 この激動の時代を通じて、シャムは絶対王政の中央集権国家へと変貌を遂げ、西欧諸国との交渉を通じて国境を画定させていきました。
黎明期:新王朝の確立と国家の再建(1782年–1855年)
チャクリ王朝の創設とバンコク遷都
1767年、400年以上にわたって栄華を誇ったアユタヤ王朝は、ビルマ軍の侵攻によって首都アユタヤが陥落し、壊滅的な打撃を受けました。 この混乱の中から台頭したのが、後のタークシン王です。彼はビルマ軍を撃退し、チャオプラヤー川西岸のトンブリーに新たな都を築き、シャムの再統一を果たしました。 しかし、その治世は長くは続かず、1782年に内乱の中でタークシン王は処刑されます。 その後、タークシン王のもとで数々の戦功を挙げた将軍、チャオプラヤー・チャクリが王位に就き、ラーマ1世として即位しました。 これが、現在まで続くチャクリ王朝の始まりです。
ラーマ1世が即位後に行った最初の重要な決断の一つが、首都の移転でした。 彼は、トンブリーの対岸、チャオプラヤー川の東岸に位置するバンコク村を新たな首都と定めました。 この遷都には、戦略的な意図がありました。西からのビルマの脅威に対し、川を自然の堀として利用できる東岸の方が防御上有利であると考えられたのです。 また、東側には広大な湿地帯が広がっており、敵の進軍を困難にさせるという地理的利点もありました。
こうして、1782年に新首都の建設が開始され、この都市は「ラタナコーシン」と名付けられました。 ラーマ1世は、破壊されたアユタヤの壮麗さを再現することを目指し、都市計画を進めました。 王宮(グランドパレス)や、タイで最も神聖な仏像であるエメラルド仏を祀るワット・プラケオ(エメラルド寺院)などが建設されました。 都市の防御を固めるため、アユタヤの旧城壁から運ばれたレンガを使って城壁が築かれ、堀として機能する運河も掘られました。 当時、この地には主に中国系の商人が住んでいましたが、彼らには移住が要請され、現在のチャイナタウンの基礎となる地域へと移りました。 このようにして、バンコクは単なる軍事拠点としてだけでなく、政治、文化、宗教の中心地としての体裁を整えていったのです。
ラーマ1世の治世:国家基盤の確立と領域の拡大
ラーマ1世(在位1782年-1809年)の治世は、新王朝の基盤を固めるための精力的な活動に満ちていました。 彼の最大の功績の一つは、長年にわたるビルマの脅威を退け、王国の安定を確保したことです。 特に1785年と1787年に行われたビルマのボードーパヤー王による大規模な侵攻を撃退したことは、シャムの軍事的な独立を確固たるものにしました。
内政面では、ラーマ1世はアユタヤ時代の法典や制度を再編し、国家統治の基礎を築きました。彼は、ビルマの侵攻で失われた多くの文献を再編纂する事業にも力を注ぎました。 その中でも特筆すべきは、インドの叙事詩「ラーマーヤナ」のタイ版である「ラーマキエン」の新版を作成させたことです。 これは、単なる文学作品の復興に留まらず、王権の正当性と文化的アイデンティティを再確立する上で重要な意味を持ちました。
対外的には、ラーマ1世は積極的な拡大政策を推し進めました。 ラオスのヴィエンチャン王国やルアンパバーン王国を服属させ、その支配を確かなものにしました。 また、カンボジアの内政に介入し、1795年には親シャム派のアン・エンを国王として即位させ、その見返りとしてバッタンバンやシエムリアップなどの領土を獲得しました。 これにより、シャムの勢力圏は東南アジア大陸部の広範囲に及ぶことになりました。 ラーマ1世の治世の終わりには、シャムはビルマの脅威を克服し、周辺地域に影響力を行使する安定した王国として再興を遂げていたのです。
ラーマ2世の治世:文化の爛熟と芸術の振興
ラーマ1世の息子であるラーマ2世(在位1809年-1824年)の時代は、比較的平和な時代でした。大きな戦争がなかったことから、国内の文化・芸術が大きく花開きました。 ラーマ2世自身が優れた詩人であり、文学を深く愛したことが、この時代の文化的隆盛に大きく貢献しました。 彼の宮廷は、多くの詩人や芸術家たちの活動の中心地となりました。
この時代、文学、演劇、彫刻、建築など、様々な分野でアユタヤの伝統を受け継ぎつつ、ラタナコーシン独自の洗練されたスタイルが確立されていきました。ラーマ1世の時代に再編纂された「ラーマキエン」は、この時代にさらに洗練され、宮廷舞踊劇(コーン)の重要な演目として定着しました。
建築においては、ワット・アルン(暁の寺)の修復と拡張が特筆されます。その象徴的な高い仏塔(プラーン)は、ラーマ2世の治世に建設が始まり、次のラーマ3世の時代に完成しました。この寺院は、ラタナコーシン初期の建築様式を代表する傑作とされています。
外交面では、西欧諸国との接触が徐々に増え始めました。1822年には、イギリス東インド会社の使節ジョン・クローファードが通商を求めてバンコクを訪れましたが、この時は大きな成果を上げるには至りませんでした。 しかし、これは後の西欧との関係の序章となる出来事でした。ラーマ2世の治世は、武力による拡大から文化的な成熟へと国家の関心が移り変わる過渡期であり、後の近代化への道を静かに準備した時代と評価できます。
ラーマ3世の治世:交易の拡大と西欧の影
ラーマ2世の息子であるラーマ3世(在位1824年-1851年)の治世は、対外貿易、特に中国との貿易が飛躍的に拡大した時代でした。 彼は文学や芸術には父ほど関心を示しませんでしたが、その代わりに実利的な経済活動に力を注ぎました。 中国とのジャンク船貿易は最盛期を迎え、砂糖などの農産物が主要な輸出品となり、王国に莫大な富をもたらしました。この貿易を通じて、多くの中国人移民がシャムに流入し、経済の発展に重要な役割を果たしました。
この潤沢な資金をもとに、ラーマ3世は数多くの寺院の建設や修復を行いました。 ワット・ポー(涅槃寺)の大規模な改修や、ワット・スタットの建設などが彼の治世に行われています。 この時代の寺院建築には、中国美術の影響が色濃く見られるのが特徴で、陶器の破片で装飾された壁や屋根など、独特のスタイルが生み出されました。
一方で、西欧列強の圧力は徐々に高まりつつありました。1824年から始まった第一次英緬戦争の結果、イギリスがビルマ南部に勢力を拡大したことは、シャムにとって大きな衝撃でした。 この新たな隣国との関係を調整する必要に迫られたシャムは、1826年にイギリスとの間でバーニー条約を締結します。 この条約は、イギリス商人にある程度の通商上の特権を認めるものでしたが、シャム側も関税自主権の一部を維持するなど、一定の主権を保つ内容でした。 1833年には、アメリカとも同様の通商条約を結んでいます。
しかし、19世紀半ばになると、西欧諸国はより自由な貿易と特権を求めるようになります。1850年、イギリスとアメリカは、中国がアヘン戦争後に結ばされたような、より広範な通商特権を要求しましたが、ラーマ3世はこれを拒否しました。 彼の治世の終わりには、シャムは経済的な繁栄を享受する一方で、西欧列強という新たな脅威に直面しており、伝統的な外交政策の限界が明らかになりつつありました。
転換期:西欧列強との遭遇と近代化の始動(1855年–1910年)
モンクット王(ラーマ4世)と開国:ボーリング条約の衝撃
ラーマ3世の死後、王位を継承したのは彼の異母弟であるモンクット王(ラーマ4世、在位1851年-1868年)でした。 彼は即位前に27年間も僧侶として過ごし、その間に仏教の研究だけでなく、ラテン語や英語、そして西洋の科学、数学、天文学などを学んだ、非常に学識豊かな人物でした。 この経験を通じて、彼は西洋の力と、それがシャムに及ぼすであろう影響の大きさを深く理解していました。
モンクット王は、父王ラーマ3世の強硬な姿勢とは対照的に、西欧列強との対立は避けられないと判断し、交渉による柔軟な対応を選択しました。 彼の治世の転換点となったのが、1855年にイギリスとの間で締結されたボーリング条約です。 香港総督であったサー・ジョン・ボーリングを全権代表とするイギリス使節団との交渉は、わずか数日で妥結しました。
この条約は、シャムに極めて大きな影響を及ぼしました。 主な内容は以下の通りです。
自由貿易の導入: 王室による貿易独占が廃止され、イギリス商人は自由にシャムの港で貿易を行うことが許可されました。
関税率の固定: 輸入関税は一律3%に固定され、シャムは関税自主権を失いました。 これは、国の主要な財源の一つを大きく制限するものでした。
治外法権の承認: イギリス国民はシャムの法律ではなく、イギリス領事の管轄下で裁かれることになりました(領事裁判権)。 これは、司法主権の喪失を意味しました。
その他の特権: イギリスはバンコクに領事館を設置する権利を得て、イギリス国民は首都近郊で土地を所有・賃借することが認められました。
ボーリング条約は、アヘン戦争後に清が結んだ南京条約と同様の不平等条約でした。 この条約により、シャムは法的、財政的な独立の一部を失いました。 しかし、モンクット王のこの決断は、軍事衝突を回避し、シャムが他の東南アジア諸国のように植民地化される運命を免れるための、現実的な選択であったと評価されています。 この条約を皮切りに、シャムはフランス、アメリカ、その他のヨーロッパ諸国とも同様の条約を次々と結ぶことになります。
開国はシャム経済に劇的な変化をもたらしました。米の輸出が自由化されたことで、米の生産が急増し、シャムは世界有数の米輸出国へと変貌していきます。 これにより、自給自足的な経済から、世界市場に組み込まれた商品経済へと移行が進みました。 また、モンクット王は、西洋の知識を積極的に導入し、道路の建設、貨幣制度の改革、印刷技術の導入など、近代化の基礎を築きました。 彼はまた、王室の子弟に西洋式の教育を受けさせるなど、次世代の育成にも力を注ぎました。 彼の治世は、シャムが独立を維持しながら近代化への道を歩み始める、極めて重要な転換期となったのです。
チュラロンコン王(ラーマ5世)の偉大な改革
1868年、父モンクット王の崩御に伴い、わずか15歳で即位したのがチュラロンコン王(ラーマ5世、在位1868年-1910年)です。 彼の42年間にわたる治世は、シャム史上最も大きな変革がもたらされた時代であり、「チャクリ改革の黄金時代」と称されています。 幼少期からヨーロッパ人の家庭教師によって教育を受け、即位後には当時としては画期的な海外視察(ジャワやインド)も経験した彼は、父の近代化路線を継承し、国家のあらゆる側面にわたる抜本的な改革を断行しました。
彼の改革は、西欧列強の植民地化の脅威から国家の独立を守るという、強い危機感に貫かれていました。 その改革は多岐にわたりますが、主要なものを以下に挙げます。
行政改革と中央集権化: チュラロンコン王の改革の中核をなすのが、国家行政の近代化です。 彼は、伝統的な封建的な統治体制を解体し、ヨーロッパの制度を参考に、機能別の12の省からなる近代的な内閣制度を導入しました。 また、地方行政においても、中央から任命された官僚が地方を統治する「テーサーピバーン」制度を確立し、それまで半独立状態にあった地方の領主たちの権力を削ぎ、中央集権体制を強力に推し進めました。 これにより、シャムは初めて統一された近代的な国民国家としての体裁を整えることになりました。
奴隷制と賦役の廃止: 社会構造に深く根付いていた奴隷制と、人民に課せられていた賦役(コーヴェー)の廃止は、彼の最も偉大な功績の一つとされています。 この改革は、社会の急激な変化を避けるために段階的に進められ、1905年に奴隷制は完全に廃止されました。 賦役制度も、徴兵制による近代的な軍隊の創設や、人頭税の導入によってその必要性が薄れ、廃止されました。 これらの改革は、すべての人々を国王の臣民として平等な立場に置くことで、国民意識の形成を促し、近代国家の人的基盤を築く上で不可欠でした。
司法・財政改革: ボーリング条約で失われた主権を回復するためには、司法制度と財政制度の近代化が急務でした。チュラロンコン王は、乱立していた裁判所を統合し、西洋式の三審制の司法制度を導入しました。 また、フランス人などの外国人法律顧問を雇い、近代的な法典の編纂にも着手しました。 財政面では、それまで各省や有力貴族が管理していた税収を、新設された大蔵省に一元化し、国家財政の透明性と効率性を高めました。
教育・インフラ整備: 近代国家の運営に必要な人材を育成するため、教育制度の改革も進められました。 王族や官僚の子弟のための学校が設立され、後には専門学校や陸軍士官学校も創設されました。 また、国中に鉄道網や電信網を敷設し、国内の交通・通信を飛躍的に改善させました。 これらのインフラ整備は、中央集権化を物理的に支え、経済の発展にも大きく貢献しました。
チュラロンコン王の改革は、シャムを封建的な王国から近代的な中央集権国家へと変貌させました。 彼の巧みな内政改革と、後述する巧みな外交政策によって、シャムは東南アジアで唯一、植民地化を免れることができたのです。 その功績から、彼は「ピヤマハーラート(偉大なる敬愛すべき王)」と呼ばれ、タイ国民から深く敬愛されています。
英仏との狭間で:領土割譲と独立の維持
チュラロンコン王の治世は、近代化改革を推進する一方で、西にイギリス(ビルマとマレー半島)、東にフランス(インドシナ)という二大植民地帝国の間に挟まれ、絶え間ない外交的圧力に晒された時代でもありました。 シャムの独立維持は、この二大勢力の均衡を巧みに利用し、時には痛みを伴う譲歩をしながら、国家の核心部分を守り抜くという、困難な舵取りの連続でした。
19世紀後半、フランスはベトナム、カンボジアへと勢力を拡大し、メコン川流域の領有権を主張してシャムと対立するようになります。 この緊張が頂点に達したのが、1893年のパークナム事件(仏暹戦争)です。 フランスは、メコン川左岸の領土問題などを口実に、軍艦をチャオプラヤー川に侵入させ、バンコクに圧力をかけました。 この危機の結果、シャムはフランスの要求を呑み、メコン川左岸のすべての領土(現在のラオスの大部分)を放棄せざるを得なくなりました。
この事件は、シャムに大きな衝撃を与えましたが、同時にイギリスの警戒心をも呼び起こしました。イギリスは、フランスがシャム全土を支配下に置くことで、自国の植民地であるビルマやマレー半島への脅威となることを恐れたのです。 この英仏間の相互不信が、結果的にシャムの独立を保つ緩衝地帯としての役割を確固たるものにしました。1896年、イギリスとフランスは、シャムの中核部分であるチャオプラヤー川流域を中立地帯とし、両国ともに軍隊を進めないことを宣言する協定を結びました。 これにより、シャムの中核部分の独立は国際的に保障されることになりました。
しかし、領土をめぐる譲歩はその後も続きました。1907年には、フランスとの条約で、バッタンバン、シエムリアップ、シソポンといったカンボジア西部の領土をフランス保護下のカンボジアに返還する代わりに、治外法権の一部撤廃を勝ち取りました。 また、1909年には、イギリスとの間で英暹条約を締結し、マレー半島におけるケダ、プルリス、クランタン、トレンガヌの4州の宗主権をイギリスに譲渡しました。 この見返りとして、シャムはイギリスからの借款を得て南部鉄道の建設を進めるとともに、イギリス臣民に対する治外法権を完全に撤廃させることに成功しました。
これらの領土割譲は、今日のタイの国境線をほぼ画定させることになりました。 チュラロンコン王の外交政策は、広大な属領を失うという大きな犠牲を払いながらも、巧みな交渉と現実的な判断によって、国家の主権と独立という最も重要なものを守り抜いた「現実主義外交」の勝利であったと評価されています。
近代国家への道:ナショナリズムの形成と絶対王政の終焉(1910年–1932年)
ワチラーウット王(ラーマ6世)とタイ・ナショナリズムの鼓舞
チュラロンコン王の偉大な改革を引き継いだのは、その息子であるワチラーウット王(ラーマ6世、在位1910年-1925年)でした。 イギリスに留学し、サンドハースト陸軍士官学校やオックスフォード大学で学んだ彼は、チャクリ王朝で初めて海外で教育を受けた国王でした。 彼の治世は、父の時代に築かれた近代国家の制度を内面化し、国民に「タイ人」としてのアイデンティティを植え付ける、ナショナリズムの時代として特徴づけられます。
ワチラーウット王は、国民を統合するためのイデオロギーとして、「国家、宗教、国王」という三つの柱を掲げました。 これは、国民は国家に忠誠を誓い、仏教を篤く信仰し、国王に敬愛の念を捧げるべきであるという考え方です。 彼は、演劇、詩、論文など、自らの膨大な著作活動を通じて、この理念を国民に広めようとしました。 彼は、国民が西洋の文化に傾倒し、タイ独自の伝統を失うことを危惧し、タイの歴史や文化の価値を強調しました。
彼のナショナリズム政策の具体的な現れとして、以下のようなものが挙げられます。
国旗の制定: 1917年、それまでの象を描いた国旗に代わり、現在のタイ国旗である「トン・トライロング」(三色旗)を制定しました。 赤は国家と国民、白は宗教(仏教)、青は国王を象徴しており、彼の掲げた三つの柱の理念を視覚的に表現したものでした。
姓の導入: 国民に姓を持つことを義務付ける法律を制定しました。これは、近代的な戸籍制度を確立すると同時に、国民一人ひとりに国家への帰属意識を持たせることを目的としていました。
教育の普及: 1921年には、初等教育の義務化を全国で実施しました。 学校教育を通じて、標準タイ語の使用を徹底させ、国民としての義務を教え込むことで、均質な国民の創出を目指しました。 また、1917年にはタイ初の大学であるチュラロンコン大学を設立し、高等教育の発展にも貢献しました。
準軍事組織の創設: 国王直属の準軍事組織「ワイルド・タイガー・コープス」を創設しました。 これは、正規軍とは別に、官僚や市民に軍事訓練を施し、国王への忠誠心と愛国心を養うことを目的とした組織でした。
ワチラーウット王のナショナリズム政策は、タイ国民としての同質的なアイデンティティを形成する上で大きな役割を果たしました。 しかし、その一方で、彼の思想は絶対王政を維持するためのイデオロギー的側面が強く、民主主義的な政治発展を停滞させる結果にもつながったと指摘されています。
第一次世界大戦への参戦とその影響
ワチラーウット王の治世における重要な外交的決断が、第一次世界大戦への参戦です。 1914年に大戦が勃発した当初、シャムは中立を宣言していました。 当時、シャムはドイツと良好な関係を築いており、多くのドイツ人が政府や企業で働いていました。
しかし、戦局が連合国側に有利に傾き、1917年にアメリカが参戦すると、ワチラーウット王はこれをシャムの国際的地位を向上させる好機と捉えました。 彼は、ドイツの無制限潜水艦作戦が国際法と人道に反するものであることを大義名分とし、1917年7月22日、ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告しました。
宣戦布告後、シャムは国内のドイツ人やオーストリア人を拘束し、その資産を接収しました。 さらに、ワチラーウット王は、単なる宣戦布告に留まらず、ヨーロッパ西武戦線へ遠征軍を派遣するという、当時としては画期的な決定を下します。 約1,200人からなるシャム遠征軍は、主に輸送部隊、医療部隊、そして航空部隊のパイロット候補生から構成されていました。 彼らはフランスで訓練を受け、大戦末期の戦闘に参加しました。 戦闘による死者は出ませんでしたが、事故や病気で19名の犠牲者を出しました。
シャムの参戦は、軍事的には象徴的な意味合いが強いものでしたが、政治的・外交的には極めて大きな成果をもたらしました。戦後、シャムは戦勝国の一員としてパリ講和会議に参加し、国際連盟の原加盟国となりました。 これにより、シャムは国際社会における対等なパートナーとしての地位を確立しました。そして、この参戦を最大の交渉材料として、アメリカ、フランス、イギリスといった国々と交渉を進め、長年の懸案であった不平等条約の改正、すなわち治外法権の完全撤廃と関税自主権の回復を1920年代を通じて達成していったのです。 第一次世界大戦への参戦は、ワチラーウット王の巧みな外交戦略の勝利であり、シャムが完全な主権を回復する上で決定的な一歩となりました。
プラチャーティポック王(ラーマ7世)と1932年の立憲革命
ワチラーウット王が1925年に崩御した後、王位を継承したのは彼の弟であるプラチャーティポック王(ラーマ7世、在位1925年-1935年)でした。 彼は兄とは対照的に、政治への関心は薄く、自らが絶対君主の地位にあることに重圧を感じていました。
彼の治世は、世界大恐慌の直撃という困難な状況から始まりました。米やチーク材といった主要な輸出品の価格が暴落し、シャム経済は深刻な不況に陥りました。政府は歳出削減のために官僚のリストラや給与カットを断行しましたが、これは都市部の知識人や官僚層の不満を増大させる結果となりました。
このような経済的・社会的不安を背景に、絶対王政に対する批判が高まっていきました。チュラロンコン王以来の近代化政策によって、ヨーロッパで教育を受けた新しい知識人層や官僚、軍人たちが台頭していました。 彼らは、国家の運営が王族や一部の貴族によって独占されている現状に不満を抱き、より国民が政治に参加できる立憲君主制への移行を望んでいました。
そして1932年6月24日、人民党と名乗るグループ(主に若手の軍人と文官官僚で構成)が、無血クーデターを決行しました。 クーデターは成功し、人民党は国王に対して憲法の承認と、立憲君主制への移行を要求しました。プラチャーティポック王は、流血の事態を避けるため、この要求を受け入れました。
こうして、1782年から150年間にわたって続いたラタナコーシン朝の絶対王政は終わりを告げ、シャムは立憲君主制国家へと移行しました。 この1932年の革命は、タイの近代史における最大の転換点であり、ラタナコーシン時代の区切りとなる出来事でした。それは、チャクリ王朝の王たちが自ら推し進めてきた近代化が、結果として絶対王政そのものを終焉させるという、歴史の皮肉な帰結でもあったのです。
ラタナコーシン時代の社会と文化
仏教と王権
ラタナコーシン時代を通じて、仏教、特に上座部仏教は、国家と社会の根幹をなす存在であり続けました。 チャクリ王朝の歴代国王は、仏教の篤い保護者であり、自らを「ダンマラーチャー(正義の王)」として位置づけました。 王は仏教僧団(サンガ)の最高後援者であり、寺院の建立や修復、経典の編纂などを通じて、その権威と正当性を強化しました。
ラーマ1世がバンコク遷都と同時にワット・プラケオを建立し、そこにエメラルド仏を安置したことは、新王朝と仏教の不可分な関係を象徴しています。 エメラルド仏は、王国の守護仏として、国王と国家の安寧を守る存在と見なされました。
チュラロンコン王の治世には、サンガの改革も行われました。 それまで地域ごとに分かれていた僧団を、国王を頂点とする全国的な階層組織に統合し、中央集権化の一環として宗教組織の統制を強化しました。 ワチラーウット王は、さらに一歩進めて、仏教を「国家、宗教、国王」という国民的イデオロギーの中核に据え、タイ人であることと仏教徒であることを強く結びつけました。
このように、ラタナコーシン時代の王権は、常に仏教によって支えられ、正当化されていました。王は宗教儀礼を主宰し、仏教の教えを広めることで、臣民に対する道徳的権威を確立したのです。
芸術と建築の変遷
ラタナコーシン時代の芸術と建築は、アユタヤ時代の伝統を継承しつつ、時代ごとの社会の変化を反映して多様な展開を見せました。
初期(ラーマ1世~3世)の芸術は、アユタヤ様式の復興を目指したものでした。 ラーマ1世は、破壊されたアユタヤの栄光をバンコクに再現しようと試み、王宮やワット・ポーなどの建築物は、アユタヤ後期の壮麗なスタイルを色濃く反映しています。 仏像彫刻においても、アユタヤの古典的な様式が踏襲されました。 ラーマ3世の時代になると、中国との貿易の隆盛を背景に、中国美術の影響が顕著になります。 寺院の屋根や壁に色鮮やかな陶器の破片を用いた装飾などがその代表例です。
中期(ラーマ4世~5世)は、西洋文化との接触によって、芸術にも新たな様式がもたらされた時代です。 モンクット王の時代には、西洋の写実的な絵画技法が導入され始めました。 画家クルア・イン・コーンは、伝統的な壁画に遠近法や陰影法を取り入れたことで知られています。 チュラロンコン王の時代になると、建築分野で西洋の影響はさらに顕著になります。王宮内に建てられたチャクリ・マハ・プラサート宮殿は、イタリアのルネサンス様式の建築にタイの伝統的な屋根を組み合わせた、和洋折衷の象徴的な建物です。また、ドゥシット宮殿地区には、ヴィマンメーク宮殿(チーク材造りの洋館)など、ヨーロッパ風の建築が次々と建てられました。
後期(ラーマ6世以降)には、西洋の芸術思潮が本格的に流入し、タイの芸術家たちも近代的な美術教育を受けるようになります。 ワチラーウット王自身も文学や演劇に深い造詣を持ち、西洋の戯曲をタイ語に翻訳・翻案するなど、文化の近代化を推進しました。
ラタナコーシン時代の芸術は、伝統の継承と発展、そして西洋文化との融合というダイナミックな変遷を遂げたのです。
文学と演劇の発展
ラタナコーシン時代の文学と演劇は、宮廷文化の中心であり、王権の威光を示すとともに、民衆の娯楽としても広く親しまれました。
初期の文学は、アユタヤ時代の伝統を復興させることに重点が置かれました。ラーマ1世は、ビルマの侵攻で失われた多くの文学作品の再編纂を命じました。その最大の成果が、インドの叙事詩「ラーマーヤナ」のタイ版である「ラーマキエン」の完全版の作成です。この壮大な物語は、単なる文学作品に留まらず、王の徳と権威を象徴するものとして、宮廷舞踊劇「コーン」の演目となり、絵画や彫刻の題材としても繰り返し用いられました。
ラーマ2世の治世は、文学の黄金時代と称されます。王自身が優れた詩人であり、彼の宮廷には多くの文人が集いました。この時代には、「ラーマキエン」がさらに洗練されたほか、民話をもとにした舞踊劇「イナオ」などが創作され、タイ文学の古典として今日まで伝えられています。また、スントーン・プーという不世出の詩人が登場し、彼の代表作である長編叙事詩「プラ・アパイマニー」は、王族だけでなく庶民の生活や感情を生き生きと描き出し、タイ文学に新たな地平を切り開きました。
中期以降、西洋文化の流入は文学の世界にも影響を及ぼし始めました。モンクット王の時代には、印刷技術が導入され、書籍がより広く流通するようになりました。チュラロンコン王の時代には、新聞や雑誌が発行され始め、散文による小説や評論といった新しい文学形式が生まれました。
ワチラーウット王の治世は、近代演劇の幕開けの時代でした。イギリス留学の経験を持つ王は、シェイクスピアなどの西洋の戯曲をタイ語に翻訳・翻案し、自らも多くの戯曲を執筆しました。彼は、伝統的な舞踊劇とは異なる、台詞を中心とした近代的な演劇を奨励し、これがタイの現代演劇の基礎となりました。彼の作品は、愛国心や国民としての義務を説くものが多く、彼のナショナリズム思想を広めるための重要な手段でもありました。
社会構造の変化と人々の暮らし
ラタナコーシン朝が始まった当初、シャムの社会はアユタヤ時代から続く厳格な階級制度(サクディナー制)に基づいていました。この制度では、王族、貴族、官僚、平民、奴隷といった階級ごとに、所有できる土地の広さを示す「サクディナー」と呼ばれる位階が定められており、個人の社会的地位や権利、義務が厳密に規定されていました。平民の男性は、国王や領主のために一定期間無償で働く賦役(コーヴェー)の義務を負っていました。
しかし、19世紀半ばのボーリング条約締結以降、シャム社会は大きな変貌を遂げます。自由貿易の開始により、米の輸出が急増し、貨幣経済が農村部にまで浸透していきました。これにより、自給自足的な生活を送っていた農民たちも、次第に世界市場の動向に左右されるようになります。
この経済的変化と並行して、チュラロンコン王による一連の社会改革が断行されました。彼の治世における最大の社会改革は、奴隷制と賦役の段階的な廃止です。これらの改革は、人々を旧来の身分制度の束縛から解放し、法の下では平等な「国王の臣民」へと変えました。賦役が廃止され、徴兵制が導入されたことは、国民皆兵という近代的な軍隊の創設につながりました。
また、中央集権化の進展は、新たなエリート層を生み出しました。伝統的な貴族階級に代わり、西洋式の教育を受けた官僚たちが国家行政の中核を担うようになります。チュラロンコン大学をはじめとする高等教育機関の設立は、このような新しい知識人層の育成を加速させました。
一方で、経済の発展は、中国人移民のさらなる流入を促しました。彼らは、米の仲買人、商人、労働者としてシャム経済の発展に不可欠な役割を果たしましたが、同時に、ワチラーウット王の時代には、その経済的な成功がタイ人のナショナリズムを刺激し、反華僑感情が高まる一因ともなりました。
1932年の立憲革命に至る頃には、シャムの社会構造は、絶対王政が始まった150年前とは様変わりしていました。伝統的な階級制度は解体され、近代的な教育を受けた官僚や軍人、そして経済力を持つ商人階級が台頭し、彼らが新たな時代の担い手となっていったのです。
ラタナコーシン朝が遺したもの
1782年から1932年までの150年間にわたるラタナコーシン朝の絶対王政時代は、タイの歴史において決定的に重要な意味を持つ時代でした。アユタヤ陥落という国家存亡の危機から始まったこの王朝は、まず国内の再統一と国家基盤の再建を成し遂げ、周辺地域における覇権を確立しました。
19世紀半ば、西洋列強の植民地主義の波が東南アジアに押し寄せると、ラタナコーシン朝は存亡をかけた新たな挑戦に直面します。モンクット王の開国政策と、それに続くチュラロンコン王の「チャクリ改革」は、この脅威に対するシャムの答えでした。行政、司法、軍事、教育といった国家のあらゆる側面における抜本的な近代化と、英仏二大勢力の間で均衡を保つ巧みな外交戦略によって、シャムは東南アジアで唯一、植民地化を免れ、独立を維持することに成功しました。この過程で、シャムは広大な属領を失うという痛みを伴う代償を払いましたが、その結果として現在のタイの国境線が画定され、中央集権的な近代国民国家としての基礎が築かれました。
ワチラーウット王の時代には、国家の制度的な近代化に加え、「国家、宗教、国王」を三つの柱とするタイ・ナショナリズムが鼓舞され、国民としてのアイデンティティ形成が進められました。第一次世界大戦への参戦という外交的決断は、シャムの国際的地位を高め、不平等条約の改正を達成する上で決定的な役割を果たしました。
しかし、皮肉なことに、チャクリ王朝の王たちが自ら推し進めた近代化は、西洋式の教育を受けた新たなエリート層を生み出し、彼らが絶対王政そのものに疑問を抱く素地を作りました。世界大恐慌による経済危機が引き金となり、1932年の立憲革命によって絶対王政は終焉を迎え、タイは立憲君主制へと移行します。
ラタナコーシン朝が遺した遺産は、現代のタイに深く刻み込まれています。チャクリ王朝は、立憲君主制という形に変わりながらも、現在に至るまでタイ国民の敬愛の中心であり続けています。バンコクは、かつての小さな村から、東南アジアを代表する国際的な大都市へと発展しました。チュラロンコン王の改革によって確立された中央集権的な官僚制度は、今なおタイの政治行政の根幹をなしています。そして、ワチラーウット王によって掲げられた「国家、宗教、国王」という理念は、タイの国民的アイデンティティの核心として、社会の様々な場面でその影響力を見ることができます。
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