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『古今図書集成』とは わかりやすい世界史用語2455
著作名: ピアソラ
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『古今図書集成』とは

『古今図書集成』は、清王朝の康煕帝と雍正帝の治世にかけて編纂された、中国史上最大級の百科事典です。 この壮大な事業は、単なる知識の集積にとどまらず、当時の政治的、文化的、そして技術的な状況を色濃く反映しています。その編纂の背景には、中国の長い歴史の中で育まれた「類書」と呼ばれる独特の書物の伝統が存在します。 類書とは、既存の文献から引用した文章を特定の分類体系に基づいて整理し、参照しやすくしたもので、西洋の百科事典とは異なり、新たな記述を加えるのではなく、古典籍からの引用を主体とする点に特徴があります。 この伝統は3世紀頃に始まり、歴代王朝はしばしば皇帝の命によって大規模な類書の編纂を行ってきました。 これは、知識を体系化し、後世に伝えるという文化的な目的だけでなく、王朝の権威と威信を示すという政治的な意図も含まれていました。
清王朝(1644年-1911/12年)は、中国の多数派である漢民族ではなく、満洲族によって建国された王朝です。 そのため、清の皇帝たちは、武力による支配だけでなく、文化的な正統性を示すことにも大きな関心を寄せていました。 康煕帝(在位1661年-1722年)は、中国史上最も長く在位した皇帝であり、その治世は政治的な安定と経済的な繁栄をもたらしました。 彼はまた、学問や芸術の熱心な後援者でもあり、多くの大規模な編纂事業を命じました。 『古今図書集成』の編纂もその一つであり、康煕帝の治世である1700年に開始されました。 この事業は、先行する明王朝の『永楽大典』をも凌駕する、中国のあらゆる知識を網羅しようとする野心的な試みでした。 『永楽大典』もまた巨大な類書でしたが、その多くは散逸してしまっていました。 清王朝は、こうした過去の文化遺産を継承し、さらにそれを超えるものを作り出すことで、自らの支配の正当性を内外に示そうとしたのです。
この編纂事業は、康煕帝が学者である陳夢雷に命じたことから始まりました。 陳夢雷は、1700年から1705年にかけて、昼夜を問わずこの作業に没頭し、草稿の大部分を書き上げたとされています。 当初の表題は『図書彙編』でしたが、1706年に草稿が完成した際に康煕帝が『古今図書集成』と改めました。 しかし、編纂作業は政治的な要因によって複雑な経過をたどります。陳夢雷は皇位継承をめぐる政争に巻き込まれ、その後の作業は雍正帝の時代に引き継がれることになります。雍正帝は、画家の蔣廷錫に陳夢雷の作業を引き継がせ、最終的に1725年に完成させました。 雍正帝は、この事業の功績を父である康煕帝に帰することで、自らの皇位継承の正当性を強調しようとした側面もあったようです。
『古今図書集成』の完成は、単に一冊の巨大な書物が生まれたというだけではありません。それは、清王朝が中国の知的伝統の継承者であり、その発展に貢献する力を持っていることを示す象徴的な出来事でした。 この事業には、数多くの学者が動員され、膨大な文献の収集、整理、校訂が行われました。 印刷には、当時としては先進的な銅活字印刷技術が用いられ、初版は64部が印刷されました。 このように、国家的な規模で知識を集積し、最新の技術を用いてそれを普及させようとする試みは、清王朝の国力と文化的水準の高さを物語っています。
編纂の中心人物:陳夢雷と蔣廷錫

『古今図書集成』という壮大な編纂事業は、二人の中心的な学者の貢献なくしては語れません。初期の編纂を主導した陳夢雷と、その後を引き継ぎ完成へと導いた蔣廷錫です。 彼らの経歴や役割は対照的であり、この巨大な百科事典が誕生するまでの複雑な道のりを象徴しています。
陳夢雷(1650-1741)は、福建省福州出身の学者で、この事業の初期段階において決定的な役割を果たしました。 康煕帝は1700年に彼を編纂の責任者に任命し、陳夢雷は驚異的な集中力と博識をもって作業に取り組みました。 伝えられるところによれば、1700年から1705年までのわずか5年間で、彼はこの百科事典の大部分、実に1万巻、約1億6000万字に及ぶ草稿をほぼ独力で書き上げたと言われています。 この草稿は当初『図書彙編』と名付けられていました。 彼の仕事は、単に文献を収集し分類するだけでなく、膨大な知識を体系的に整理し、一貫した構造を与えるという、知的にも肉体的にも過酷なものでした。しかし、彼の運命は宮廷の政争によって大きく左右されます。陳夢雷は康煕帝の皇子たちによる後継者争いに巻き込まれ、政治的な失脚を経験します。このため、彼が心血を注いだ編纂事業は一時中断を余儀なくされました。
その後、康煕帝が崩御し、雍正帝(在位1722-1735)が即位すると、この事業は新たな局面を迎えます。 雍正帝は、中断していた百科事典の編纂を再開させ、その完成を蔣廷錫(1669-1732)に命じました。 蔣廷錫は江蘇省常熟出身の学者であり、画家としても高い名声を得ていました。 彼は宮廷画家として、また官僚として雍正帝の信頼が厚く、文華殿大学士という高位にまで昇進した人物です。 蔣廷錫は、陳夢雷が築いた基礎の上に、最終的な校訂と編集作業を行いました。 彼の役割は、草稿を精査し、必要な修正を加え、皇帝の意向に沿った形で完成させることでした。1725年、ついにこの百科事典は完成し、雍正帝によって『欽定古今図書集成』という正式名称が与えられました。
雍正帝は、この事業の功績を、編纂を主導した陳夢雷ではなく、もっぱら父である康煕帝に帰しました。 これは、自らの治世の正当性を、偉大な父帝の事業を完成させたという形で示そうとする政治的な意図があったと考えられます。結果として、陳夢雷の多大な貢献は公式の記録からはやや後景に追いやられることになりました。しかし、その膨大な仕事量が『古今図書集成』の根幹をなしていることは間違いありません。
一方で、蔣廷錫の役割もまた重要です。彼は単なる編集者ではなく、画家としての優れた感性を持ち、書物全体の視覚的な側面、特に図版の質にも貢献したと考えられます。 また、政治的に安定した地位にあった彼が最終的な責任者となったことで、この巨大プロジェクトは無事に完成へと至ることができたのです。 このように、『古今図書集成』は、陳夢雷という一人の学者の驚異的な情熱と努力によって基礎が築かれ、蔣廷錫という宮廷の実力者による政治的な手腕と監修によって完成に至った、二人の才能の結晶と言えるでしょう。
『古今図書集成』の壮大な規模と構造

『古今図書集成』が歴史上特筆すべき存在である理由の一つは、その圧倒的な規模にあります。 全1万巻、総ページ数は80万ページに及び、収録された文字数は1億字を超えると言われています。
この膨大な情報は、非常に体系的かつ緻密な構造の下に整理されています。全体は大きく6つの「彙編(いへん)」と呼ばれる部門に分かれています。 これらはそれぞれ「天」「地」「人」「自然」「文学」「政治経済」といった、世界のあらゆる事象を網羅するような大分類に相当します。 この6つの彙編は、さらに32の「典(てん)」と呼ばれる中分類に細分化されます。 例えば、「天」の彙編には天文や暦に関する典が含まれ、「地」の彙編には地理に関する典が含まれるといった具合です。
そして、この32の典が、さらに6117の「部(ぶ)」という小分類に分けられています。 この「部」が、個別の具体的な項目にあたります。例えば、地理の典の中には、特定の山や川に関する部が存在し、そこにはその山や川に関する古今の文献からの引用が集められています。この構造により、利用者は関心のあるテーマについて、膨大な情報の中から必要な記述を効率的に探し出すことが可能になります。索引だけでも40巻に及ぶという事実が、その体系性の徹底ぶりを物語っています。
『古今図書集成』のもう一つの大きな特徴は、その名が示す通り、「図」、すなわち図版を豊富に含んでいる点です。 天文図、地図、動植物の図、建築物や道具の図など、多岐にわたる図版が文章による説明を補い、読者の理解を助けます。 これは、単なる文字情報の集積であった先行する多くの類書とは一線を画す点であり、視覚的な情報を重視する近代的な百科事典の性格を帯びているとも言えます。例えば、山川に関する巻には、その地形を描いた図が添えられており、文章だけでは伝わりにくい情報を補完しています。
引用された文献の数も膨大で、約3,525点の書籍から合計77,000件以上の引用がなされているとされます。 これらの引用は、単に羅列されているわけではなく、「彙考(いこう、解説の集成)」「総論(そうろん、概説)」「図表(ずひょう)」「列伝(れつでん、伝記からの引用)」「芸文(げいぶん、文学作品からの引用)」「選句(せんく、詩歌からの引用)」「紀事(きじ、歴史的事件の記録)」「雑録(ざつろく、雑多な記録)」「外編(がいへん、補足的な記録)」といった、さらに細かい区分に従って整理されています。 これにより、ある一つのテーマについて、その定義、歴史、関連する人物、文学作品での扱われ方など、多角的な情報を一度に得ることができるのです。
このように、『古今図書集成』は、その巨大なボリュームだけでなく、情報を階層的かつ多角的に分類・整理する精緻な構造によって、前近代における知識集積の一つの頂点を極めたと言えるでしょう。
六大部門(彙編)の詳細な内容

『古今図書集成』の膨大な知識体系は、世界の森羅万象を網羅しようとする意図のもと、6つの主要な部門、すなわち「彙編」に大別されています。 これらの彙編は、それぞれが巨大な知識の柱となり、さらに詳細な「典」や「部」へと分かれていきます。 ここでは、その6つの彙編がそれぞれどのような内容を含んでいるのかを詳しく見ていきます。
暦象彙編(天象部門)

第一の部門である「暦象彙編」は、天に関するあらゆる事象を扱います。ここには、天文学、占星術、暦法、そして異常気象や天変地異に関する記録などが含まれます。古代中国において、天の動きは地上の統治者の徳を反映するものと考えられており、天体の観測と暦の制定は皇帝の最も重要な責務の一つでした。この部門には、太陽、月、五惑星の運行に関する詳細な記録、日食や月食の予測、彗星や流星といった異常現象の観測記録などが、過去の文献から豊富に引用されています。また、季節の移り変わりや二十四節気といった、農業や人々の生活に密接に関わる暦に関する知識も体系的にまとめられています。これは、単なる科学的な記録の集積ではなく、天と地、そして人間社会との関わりを探求する、中国の伝統的な宇宙観を反映した部門と言えます。
方輿彙編(地理部門)

第二の「方輿彙編」は、地上世界、すなわち地理に関する部門です。ここには、清王朝が支配する全土の地理情報が網羅されています。各省、府、県の沿革、地勢、産物、名所旧跡、風俗などが詳細に記述されています。さらに、中国国内だけでなく、周辺の諸外国に関する情報も含まれており、当時の中国の世界認識を知る上で貴重な資料となっています。 この部門の特徴は、単なる地名の羅列にとどまらず、各地の歴史や文化、経済活動に至るまで、多角的な情報を含んでいる点です。また、多くの地図や図版が添えられており、視覚的にも地理情報を理解しやすくなっています。国境地帯に関する記述も詳細であり、領土の範囲を明確にし、統治の正当性を主張するという政治的な意図も見て取れます。
明倫彙編(人間社会・倫理部門)

第三の「明倫彙編」は、人間関係と社会倫理を扱う部門です。儒教的な価値観が色濃く反映されており、家族、社会、国家における人間のあるべき姿が示されています。具体的には、皇帝と臣下の関係、父と子の関係といった五倫に基づいた道徳規範、冠婚葬祭などの儀礼、個人の修養や行動規範などが扱われます。 また、皇族や后妃に関する記録、歴代の著名な学者や役人、孝行者などの伝記も豊富に収録されています。 この部門は、人々に儒教的な教化を施し、社会秩序を維持するという、清王朝の統治理念を具体化したものと言えます。教育や行動に関するセクションも設けられており、個人の道徳的完成を目指すための指針が示されています。
博物彙編(自然科学部門)

第四の「博物彙編」は、自然界の万物を扱う部門で、現代の自然科学に相当する広範な分野をカバーしています。 動物、植物、鉱物といった博物学的な知識が中心となります。特に植物に関するセクションは詳細で、様々な草木の種類、性質、薬効などが記述されています。 また、工芸や技術に関する項目もこの部門に含まれており、当時の科学技術の水準を知ることができます。例えば、神話上の動物である麒麟に関する記述と図版などもこの部門に見られます。 この部門は、自然界を体系的に理解し、その知識を実用的な目的に役立てようとする関心から編纂されており、農業や医学といった実学的な分野とも深く関連しています。
理学彙編(学術・文学部門)

第五の「理学彙編」は、学問、思想、文学といった知的活動全般を扱う部門です。 ここには、儒教の経典やその注釈、諸子百家の思想、そして歴代の文学作品などが収められています。 経典に関するセクションでは、古典の解釈をめぐる様々な学説が比較検討されています。また、文字学に関するセクションもあり、漢字の起源や変遷、意味についての研究が集められています。 さらに、詩や散文といった文学作品からの引用も豊富で、中国文学の広大な世界を概観することができます。この部門は、中国の知的遺産の集大成であり、学問の正統性を示すことを目的としています。
経済彙編(政治・制度部門)

最後の第六部門である「経済彙編」は、国家の統治システムと経済活動に関する広範なテーマを扱います。 ここでいう「経済」とは、現代的な意味合いだけでなく、「経世済民(世を経め、民を済う)」という言葉に由来する、国家統治全般を指す広い概念です。 具体的には、食貨(財政、農業、商業)、官僚制度、法律や刑罰、軍事、科挙(官吏登用試験)といった、国家の運営に不可欠な諸制度が詳細に解説されています。 例えば、軍事のセクションでは、兵器の図解や戦略に関する記述が見られます。 この部門は、過去の王朝の制度や政策を参考にし、清王朝の統治に役立てるという、実用的な目的を強く持っています。
これら六つの彙編は、相互に関連し合いながら、一つの巨大な知識の宇宙を形成しています。その構造は、天から地へ、自然から人間社会へ、そして個人の倫理から国家の統治へと至る、中国の伝統的な世界観を反映していると言えるでしょう。
印刷と出版の技術:銅活字の利用

『古今図書集成』の完成は、その編纂内容の偉大さだけでなく、出版技術の面でも画期的な出来事でした。この巨大な百科事典の印刷には、当時としては最先端の技術であった銅活字印刷が用いられたのです。
中国では、宋の時代に畢昇が膠泥活字を発明して以来、活版印刷の技術が存在していましたが、膨大な数の漢字を扱う必要性から、一枚の版木に全ての文字を彫る木版印刷が主流であり続けていました。 木版印刷は、一度版木を作れば同じものを多数印刷できる利点がありましたが、版木の製作に時間と労力がかかり、また保管にも広大なスペースを必要としました。
清王朝の時代、特に康煕帝の治世下では、宮廷内に設けられた印刷所である武英殿を中心に、印刷技術の改良が積極的に進められました。 『古今図書集成』のような、1億字を超える膨大な文字数を持つ書物を木版で印刷することは、現実的ではありませんでした。膨大な数の版木を彫る必要があり、その費用と時間は計り知れないものになったでしょう。そこで採用されたのが、銅製の活字を用いる活版印刷でした。
銅活字は、木活字に比べて耐久性が高く、繰り返し使用しても摩耗しにくいため、鮮明な印字を長期間保つことができます。また、鋳造によって同じ形の活字を大量に生産することが可能です。武英殿では、まず手本となる文字を木に彫り、それを元に砂で鋳型を作り、溶かした銅を流し込んで活字を製作するという方法が取られました。こうして、膨大な数の美しい銅活字が用意されたのです。
『古今図書集成』の印刷は、この銅活字を用いて行われました。1726年に印刷が開始され、初版として64部が完成しました。 80万ページにも及ぶこの大事業を、活版印刷で成し遂げたことは、当時の技術水準の高さを如実に示しています。 活字を一つ一つ拾い、組み合わせて版を作り、印刷し、そしてまた活字を分解して棚に戻すという作業は、想像を絶するほどの手間と精度が要求されるものでした。このプロジェクトは、清王朝の財政力と、高度な技術を持つ職人たちの存在なくしては実現不可能でした。
しかし、この銅活字印刷は、その後の中国では必ずしも主流にはなりませんでした。銅は高価な金属であり、また活字の鋳造や管理には高度な技術と組織が必要でした。そのため、国家的な大事業以外では、依然として木版印刷が広く用いられ続けました。それでも、『古今図書集成』の出版は、活版印刷技術の可能性を最大限に引き出した記念碑的な業績として、印刷史上にその名を刻んでいます。
初版の64部は、主に皇族や政府の高官に下賜され、一般の学者が目にすることはほとんどありませんでした。 その後、19世紀後半になって、上海の出版社が鉛活字を用いて復刻版を出版し、より多くの人々がこの百科事典にアクセスできるようになりました。 さらに、20世紀に入ると写真製版技術による縮刷版も刊行され、この知識の宝庫はさらに広く普及していくことになります。 そして、現代ではデジタル化も進められ、全文検索が可能になるなど、その利用価値は新たな次元へと高まっています。 このように、『古今図書集成』は、その誕生から現代に至るまで、常に時代の最先端の複製・伝達技術と共にあり続けてきた書物であるとも言えるのです。
後世への影響と歴史的価値

1726年に完成した『古今図書集成』は、その後の中国、さらには世界の知識のあり方に計り知れない影響を与えました。 この百科事典は、単なる情報の集積体ではなく、清王朝初期における学術、文化、技術の頂点を示す記念碑であり、後世の研究者にとって第一級の史料としての価値を持ち続けています。
まず、その最も直接的な価値は、知識の保存という点にあります。『古今図書集成』は、編纂当時に存在した数千もの文献から引用を行っています。 これらの引用元となった書籍の中には、その後の戦乱や災害によって散逸し、現存しないものも少なくありません。もしこの百科事典が編纂されていなければ、永遠に失われていたであろう貴重な知識や情報が、ここには断片的にではあれ保存されているのです。これは、明代に編纂された『永楽大典』がその多くを失ったのとは対照的です。 したがって、歴史学者や文献学者が失われた古典籍の内容を推測したり、復元したりする上で、『古今図書集成』は不可欠な手がかりを提供します。
次に、この百科事典は、清代の学術研究の基礎を築いたという点で重要です。18世紀から19世紀にかけて、中国では考証学と呼ばれる、古典文献を実証的に研究する学問が隆盛しました。『古今図書集成』は、特定のテーマに関する古今の様々な文献を一覧できる形で提供したため、考証学の研究者たちにとって非常に便利な道具となりました。彼らはこの百科事典を利用して、テキストの異同を比較したり、語句の用例を渉猟したりすることで、より精密な研究を進めることができたのです。
また、『古今図書集成』は、後の編纂事業の模範ともなりました。その約50年後に乾隆帝の命で編纂が開始された『四庫全書』は、『古今図書集成』と並び称される清代の二大編纂事業です。 『四庫全書』は、重要な文献を網羅的に収集し、経・史・子・集の四部に分類して収めるという叢書であり、引用を主体とする類書である『古今図書集成』とは性格が異なります。しかし、『古今図書集成』が達成した知識の体系化という壮大な試みは、『四庫全書』の編纂者たちに大きな刺激と影響を与えたことは間違いありません。
『古今図書集成』の価値は、中国国内にとどまりませんでした。初版はごく少数しか印刷されず、宮廷や一部の高官しかアクセスできませんでしたが、その存在はヨーロッパの宣教師などを通じて西洋にも知られるようになりました。 19世紀後半から20世紀にかけて復刻版が出版されると、海外の主要な図書館や研究機関もこれを所蔵するようになります。 例えば、1908年には光緒帝からロンドンのチャイナ・ソサエティに一式が寄贈され、それは現在ケンブリッジ大学図書館に貸与されています。 また、アメリカのコロンビア大学にも一式が所蔵されています。 日本にも完全な一式が存在しましたが、残念ながら1923年の関東大震災で焼失してしまいました。 このようにして、『古今図書集成』は、西洋世界が中国の伝統文化や学術を体系的に理解するための重要な窓口となりました。

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