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『康煕字典』とは わかりやすい世界史用語2454
著作名: ピアソラ
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康熙字典とは

康熙字典は、1716年に清王朝の康熙帝の勅命によって編纂、刊行された中国の漢字字典です。 この字典は、その出版から20世紀初頭に至るまで、漢字に関する最も権威ある参考文献と見なされていました。 康熙帝は、先行する字典を改良し、儒教文化への配慮を示すとともに、漢字表記体系の標準化を促進することを目的として、1710年にこの壮大な事業を命じました。 字典の名称は、この皇帝の元号に由来しています。
この事業は、単なる学術的な試みにとどまらず、清王朝の文化的正統性を確立し、広大な帝国全土の統治を強化するための重要な国家プロジェクトでした。 当時、中国には様々な字体や解釈が存在し、学問や行政において混乱が生じることがありました。康熙帝は、この状況を改善し、統一された基準を提供することで、帝国の文化的な統合を図ろうとしたのです。 彼は、古典の注釈を読むたびに、発音や意味が複雑で曖昧であり、学者たちがそれぞれ独自の解釈に固執しているため、完全な理解が難しいと感じていました。 そこで、学者たちに古い文献をすべて収集し、整理・改訂するよう命じたのです。
康熙字典の編纂は、張玉書と陳廷敬を中心とする30人以上の学者チームによって行われました。 しかし、両名は任命後1年以内に亡くなったため、作業は翰林院の学者たちに引き継がれました。 編纂作業は、主に明代の2つの字典、すなわち1615年に梅膺祚が著した『字彙』と、1627年に張自烈が著した『正字通』に基づいて進められました。 皇帝の勅命では、このプロジェクトを5年以内に完了することが求められており、その厳しい納期のために、誤りが避けられない状況でした。
完成した康熙字典は、47,035字の見出し字を収録するという、当時としては最大規模の字典でした。 これには、1,995字の異体字も含まれており、総収録字数は49,030字に及びます。 収録された文字の約40%は異体字であり、その他は古語や廃字、あるいは古典の中で一度しか見られないような稀な文字でした。 康熙字典は、その網羅性と体系性から、後世の辞書編纂に絶大な影響を与え、漢字研究の基礎を築きました。
この字典は、単に文字を羅列するだけでなく、それぞれの文字について、発音、意味、そして古典からの用例を詳細に記述しています。 発音は、伝統的な反切という方法と、同音の別の漢字を示す直音という方法の両方で示されました。 また、部首による分類システムを採用しており、これが後の漢字字典の標準的な形式となりました。
康熙字典の編纂は、康熙帝の治世における数多くの文化的偉業の一つです。 彼は、この字典の他にも、『全唐詩』や『古今図書集成』といった大規模な編纂事業を命じています。 これらの事業は、康熙帝が学問と文化を深く重視していたことを示しており、彼の治世が「康乾盛世」と呼ばれる清王朝の黄金時代の基礎を築いたことを物語っています。 康熙字典は、その中でも特に重要な成果であり、中国の言語と文化の保存と伝達に大きく貢献しました。



編纂の過程:学者たちの努力と皇帝の役割

康熙字典の編纂は、1710年に康熙帝が発した勅命から始まりました。 皇帝は、既存の字典に満足せず、より完全で権威ある字典の作成を望んでいました。 彼の目的は、儒教文化への敬意を示し、漢字体系の標準化を推進することにありました。 この壮大なプロジェクトは、清王朝の文化的威信を高めるための国家的な事業として位置づけられていました。
編纂の責任者として、当時高名な学者であった張玉書と陳廷敬が任命されました。 彼らの下には、30人以上の優秀な学者たちが集められ、編纂チームが組織されました。 しかし、この大事業は困難を極め、張玉書と陳廷敬は、任命からわずか1年ほどで相次いでこの世を去ってしまいました。 主要な編纂者が不在となるという危機に直面しましたが、プロジェクトは中断されることなく、翰林院の他の学者たちによって引き継がれ、作業は続けられました。
編纂チームは、先行する明代の二つの重要な字典、梅膺祚の『字彙』(1615年)と張自烈の『正字通』(1627年)を主な典拠としました。 『字彙』は、部首の分類法を改良し、検索の利便性を高めたことで評価されていました。一方、『正字通』は、『字彙』を補完し、さらに多くの文字を収録していました。康熙字典は、これらの先行研究の成果を批判的に継承し、さらに発展させることを目指したのです。
皇帝からの命令は、5年間という非常に短い期間で完成させることでした。 この厳しい制約の中で、学者たちは膨大な量の文献を渉猟し、文字の形、音、意味を一つ一つ検証していくという、途方もない作業に追われました。彼らは、経書や史書、諸子百家から、漢、晋、唐、宋、元、明の各時代の詩人や文筆家の著作に至るまで、あらゆる文献を網羅的に調査し、引用の典拠を明らかにしようと努めました。 皇帝自身も、序文で「一つ一つの定義が詳細に与えられ、一つ一つの発音が提供されている」と述べているように、その網羅性と正確性には大きな期待が寄せられていました。
康熙帝自身も、このプロジェクトに深く関与していました。彼は自ら「字典」という名称を選びました。 当時、「字典」という言葉は「辞書」という意味ではなく、「文字の規範」や「手本」といった意味合いを持っていました。 皇帝は、この字典が漢字の正しい形と権威ある発音を示すための基準となることを意図していたのです。この「字典」という言葉は、後に19世紀になって「辞書」を意味する一般的な中国語となり、それ以降に出版されるほとんどすべての中国語辞書のタイトルに使われるようになりました。
膨大な作業量と厳しい納期というプレッシャーの中で、編纂者たちは精力的に作業を進め、1716年に全12集からなる康熙字典を完成させました。 この字典の完成は、康熙帝の治世における文化的な金字塔と見なされ、清王朝の学術的権威を内外に示すものとなりました。 しかし、その短期間での編纂作業は、必然的に多くの誤りを含むことにもなりました。 これらの誤りは、後の学者たちによって指摘され、修正されていくことになります。
康熙字典の構造:部首、画数、そして音韻体系

康熙字典の最も画期的な特徴の一つは、その体系的な構造にあります。 この字典は、漢字を効率的に検索し、分類するために、精緻に設計されたシステムを採用しています。その中心となるのが、部首と画数に基づいた配列方法です。
膨大な収録文字数

康熙字典には、合計で47,035字の見出し字が収録されています。 これに加えて1,995字の異体字が含まれており、総字数は49,030字にも達します。 この膨大な数は、古代から清代に至るまでの、あらゆる時代の文字を網羅しようという編纂者たちの意欲の表れです。 収録された文字には、日常的に使われる常用漢字だけでなく、古文書にしか登場しない古字、特定の地域でのみ使われた方言字、さらには一度しか文献に現れないような稀少な文字まで、多岐にわたる漢字が含まれています。
この網羅性こそが、康熙字典を他の字典と一線を画すものにしました。編纂者たちは、先行する『字彙』や『正字通』といった明代の字典を基礎としながらも、それらに収録されていない文字を、経書、史書、諸子百家、さらには漢代から明代に至るまでの詩文など、あらゆる文献から徹底的に収集しました。 これにより、康熙字典は、漢字の歴史的な変遷をたどることができる、一種の文字の博物館のような性格を持つことになったのです。
収録文字の構成と特長

しかし、収録された47,000字余りの文字のすべてが、当時一般的に使われていたわけではありません。実際には、そのうちの約40%は、字体のわずかな違いに過ぎない「異体字」でした。 また、すでに使われなくなった「死字」や、非常に古い時代の「古字」も多数含まれていました。 現代の口語白話文で一般的に使用される漢字は、康熙字典に収録されている文字の4分の1にも満たないと言われています。
このことは、康熙字典の編纂目的が、単に実用的な辞書を作ることだけにあったのではないことを示唆しています。編纂者たちは、漢字という文化遺産を、その多様性や歴史的変遷も含めて、可能な限り完全に記録し、後世に伝えようとしたのです。 そのため、使用頻度の低い文字や異体字も、学術的な価値があるものとして丁寧に収録されました。
網羅性の代償としての課題

この徹底した網羅性は、康熙字典に比類なき権威を与えましたが、同時にいくつかの課題も生み出しました。まず、5年という極めて短い編纂期間でこれほど膨大な文字を扱ったため、誤りが避けられませんでした。 引用された文献の出典が不正確であったり、文字の解釈に誤りがあったりするケースが、後に多くの学者によって指摘されています。
また、部首の分類にも一貫性を欠く部分がありました。214の部首への文字の割り振りは、必ずしも意味的・語源的な関連性に基づいているわけではなく、恣意的に見える場合もありました。 例えば、部首によっては1,902字もの漢字が属している一方で、わずか5字しか属していない部首も存在するなど、その分布は非常に不均一でした。
さらに、古典中国語は形態素が単音節であることが多く、ほとんどの文字が独立した単語として機能していました。 そのため、編纂者たちは「文字」と「単語」を明確に区別していませんでした。 この区別が明確になされるようになるのは、19世紀後半になってからのことです。
これらの課題にもかかわらず、康熙字典の包括的なアプローチは、それまでの辞書編纂の歴史において画期的なものでした。あらゆる文字を記録しようとするその姿勢は、漢字研究の新たな地平を切り開き、後世の辞書学に計り知れない影響を与えたのです。
康熙字典が後世に与えた影響

1716年に完成した康熙字典は、単なる一冊の辞書にとどまらず、その後の東アジアにおける言語、文化、学術のあり方に深く、そして広範囲にわたる影響を及ぼしました。 その権威と体系性は、後続の辞書編纂の規範となり、漢字文化圏全体の知的基盤を形成する上で中心的な役割を果たしたのです。
辞書編纂における規範の確立

康熙字典の最大の功績は、漢字字典の標準的な形式を確立したことです。 特に、214の部首を用いて文字を分類し、さらに部首以外の部分の画数順に配列するという方法は、その後の中国、日本、朝鮮半島などで編纂される多くの漢字字典の基本的な枠組みとなりました。 この「康熙部首」として知られるシステムは、膨大な漢字を体系的に整理し、検索を容易にするための画期的な発明であり、辞書編纂者が無視できない事実上の標準となったのです。
また、各文字に対して発音、意味、そして古典からの豊富な用例を併記するという編集方針も、後世の辞書に大きな影響を与えました。 これにより、辞書は単に文字を引くための道具から、文字の歴史的背景や文化的文脈を学ぶための学術書へとその性格を高めました。康熙字典が示したこの包括的なアプローチは、辞書学における一つの到達点として、後世の編纂者たちの目標となったのです。
漢字の標準化と教育への貢献

康熙字典は、清王朝の公的な権威のもとで編纂されたことにより、漢字の字体や意味、発音の標準化に大きく貢献しました。 それまで地域や学者によって異なっていた解釈が、この字典によって統一的な基準を与えられたのです。 この標準化は、広大な帝国における行政の効率化、公文書の統一、そして科挙(官僚登用試験)の実施において不可欠なものでした。 学者や役人、そして教育を受ける人々にとって、康熙字典は信頼できる唯一の典拠となったのです。
この字典は、言語教育の基盤としても機能しました。 膨大な文字とその用例を体系的に学ぶことができる康熙字典は、古典文学を理解し、文章を作成するための必須の教科書となりました。その影響は国境を越え、特に日本においては、明治時代に活版印刷が普及する際、基本的な活字の典拠として利用されるなど、近代的な印刷文化の発展にも寄与しました。
誤りとその後の改訂作業

康熙字典は、その網羅性と権威によって後世に絶大な影響を与えましたが、一方で多くの誤りを含んでいたことも事実です。 これらの誤りは、主に編纂が5年という極めて短期間で行われたことに起因します。 しかし、興味深いことに、これらの誤りが指摘され、修正されていく過程そのものが、康熙字典の価値をさらに高め、辞書学の発展を促すことになりました。
初期の批判と弾圧

康熙字典が完成して間もない頃から、その内容に対する批判は存在しました。学者であった王錫侯(1713-1777)は、自身の字典『字貫』の序文で康熙字典を批判しました。 しかし、この行為は皇帝の権威に対する侮辱と見なされ、悲劇的な結果を招きます。康熙帝の孫である乾隆帝は、1777年にこの批判を知ると激怒し、王錫侯とその一族に対して、最も過酷な刑罰である九族誅滅(一族皆殺し)を宣告しました。 最終的に、王錫侯本人は斬首刑に減刑され、家族の多くは赦免されましたが、この事件は、皇帝の勅命によって編纂された字典に対する批判がいかに危険な行為であったかを物語っています。
公式な改訂作業:『字典考証』

しかし、清朝自身も康熙字典に誤りが存在することを認識していました。王錫侯の事件から数十年後、道光帝の時代になると、公式な改訂作業が始まります。道光帝は、学者の王引之(1766-1834)を中心とする委員会を任命し、康熙字典の誤りを訂正するための補遺を作成させました。
王引之らは、精力的な文献調査を行い、康熙字典に収録された引用や典拠の誤りを徹底的に洗い出しました。その成果は、1831年に『字典考証』として出版されました。 この書物は、康熙字典の中から2,588項目にわたる誤りを特定し、訂正したものです。 誤りの多くは、引用元の文献の誤記や、出典の不正確さに関するものでした。 例えば、ある古典からの引用とされているものが、実際には後代の類書(百科事典のようなもの)からの孫引きであり、その類書が元の古典を不正確に引用していたために、誤りがそのまま康熙字典に引き継がれてしまった、といったケースが多数発見されました。 『字典考証』の出版は、康熙字典の権威を損なうどころか、むしろその学術的価値を補強し、より信頼性の高い文献へと昇華させる役割を果たしました。

結論:文化遺産としての康熙字典

康熙字典は、1716年の刊行以来、300年以上にわたり、中国の辞書学、ひいては東アジアの知的伝統において、揺るぎない地位を占めてきました。 それは単に古い時代の辞書というだけでなく、清王朝の文化政策の象徴であり、漢字という壮大な体系を後世に伝えるために編まれた、一つの文化遺産です。
この字典が持つ意義は、多岐にわたります。第一に、それは漢字の「標準化」という偉業を成し遂げた点です。 康熙帝の勅命のもと、当時一流の学者たちが結集し、無数に存在する漢字の字体、発音、意味を整理し、一つの権威ある基準を示しました。 この基準は、広大な清帝国の統治を支える行政基盤となり、また、科挙を通じて官僚を目指す知識人たちの共通の典拠となりました。 康熙字典によってもたらされた統一性は、言語的な混乱を収め、文化的な一体感を醸成する上で計り知れない役割を果たしたのです。
第二に、その卓越した「体系性」が挙げられます。 明代の『字彙』で導入された214の部首システムを発展させ、画数によって文字を配列するという方法は、膨大な漢字の海を航海するための信頼できる羅針盤となりました。 この合理的で精緻な構造は、後世のあらゆる漢字字典の模範となり、その影響は現代日本の漢和辞典や、さらにはコンピュータにおける漢字コードの設計にまで及んでいます。 3世紀以上前に考案された分類システムが、デジタル時代においてもなおその有効性を保っているという事実は、驚嘆に値します。
第三に、その比類なき「網羅性」です。 47,000を超える文字を収録し、それぞれの文字について、古典から当代の文献に至るまで、豊富な用例を引用するという編集方針は、この字典を単なる実用的な道具から、漢字の歴史と文化を内包する壮大な知識の宝庫へと昇華させました。 そこには、日常的に使われる文字だけでなく、すでに使われなくなった古字や異体字も含まれています。 これは、漢字という文化遺産を、その多様性や歴史的変遷も含めて丸ごと保存し、未来へ継承しようという、編纂者たちの強い意志の表れです。

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