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【問題】ミロのヴィーナス
著作名: ccm
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1.次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

本文

ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも㋐ミワク的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくはふとふしぎな思いにとらわれたことがある。つまり、そこには、美術作品の運命という制作者のあずかり知らぬなにものかも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。
 パロス産の大理石でできている彼女は、十九世紀の初めごろメロス島で、そこの農民により思いがけなく発掘され、フランス人に買い取られて、パリのルーブル美術館に運ばれたと言われている。そのとき彼女は、その両腕を、故郷であるギリシアの海か陸のどこか、いわば生ぐさい秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。いや、もっと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。よりよく国境を渡って行くために、そして【 A 】、よりよく時代を超えて行くために。このことは、ぼくに、特殊から㋑フヘンへの巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の㋒放棄による、ある全体性への①偶然㋓肉迫であるようにも思われる。
 ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これは、ぼくの実感なのだ。ミロのヴィーナスは、言うまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、いわば美というものの一つの典型であり、その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中のひろがりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魔がそこにはたたえられている。【 B 】、それらに比較して、ふと気づくならば、失われた両腕はある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、ふしぎに心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。それは、確かに、なかばは偶然の生み出したものだろうが、なんという微妙な全体性への羽ばたきであることだろうか。その雰囲気に一度でもひきずり込まれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに恐れるにちがいない。たとえ、それがどんなにみごとな二本の腕であるとしても。

 したがって、ぼくにとっては、ミロのヴィーナスの失われた両腕の復元案というものが、すべて興ざめたもの、滑稽でグロテスクなものに思われてしかたがない。【 C 】、そこには、失われた原形というものが客観的に推定されるはずであるから、すべての復元のための試みは正当であり、ぼくの㋔コンワクは勝手なものだろう。【 D 】、失われていることにひとたび心から感動した場合、もはや、それ以前の失われていない昔に感動することはほとんどできないのである。なぜなら、ここで問題となっていることは、表現における量の変化であるからだ。表現の次元そのものがすでに異なってしまっているとき、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へさかのぼったりすることができるだろうか?
一方にあるのは、おびただしい夢をはらんでいる無であり、もう一方にあるのは、たとえそれがどんなに素晴らしいものであろうとも、限定されてあるところのなんらかの有である。
 たとえば、彼女の左手は林檎を手のひらの上にのせていたかもしれない。そして、人柱像に支えられていたかもしれない。あるいは、盾を持っていただろうか? それとも笏態を示すものであるのかもしれない。さらには、こういうふうにも考えられる。実は彼女は単身像ではなくて、群像の一つであり、その左手は恋人の肩の上にでもおかれていたのではないか、と。――復元案は、実証的に、また想像的に、さまざまに試みられているようである。ぼくは、そうした関係の書物を読み、その中の説明図を眺めたりしながら、②おそろしくむなしい気持ちにおそわれるのだ。選ばれたどんなイメージも、すでに述べたように、失われていること以上の美しさを生みだすことができないのである。もし、真の原形が発見され、そのことが疑いようもなくぼくに納得されたとしたら、ぼくは一種の怒りをもって、その真の原形を否認したいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。

 ここで、別の意味で興味があることは、③失われているものが、両腕以外の何ものかであってはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われていたとしたら、ぼくがここで述べている感動は、おそらく生じなかったにちがいない。たとえば、眼がつぶれていたり、鼻がかけていたり、あるいは、乳房がもぎとられていたりして、しかも両腕が、損なわれずにきちんとついていたとしたら、そこには、生命の変幻自在な輝きなど多分あり得なかったのである。
 なぜ失われたものが両腕でなければならないのか? ぼくはここで、㋕チョウコクにおけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっときりつめて言えば、手というもの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけであるが、
④それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、そうした関係を㋖バイカイするもの、あるいは、その原則的な方式そのものなのである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手をはじめて握る幸福をこよなく讃えた、ある文学者の㋗述懐はふしぎに㋘厳粛なひびきをもっている。どちらの場合も、きわめて自然で、人間的である。そして、たとえばこれらの言葉に対して、美術品であるという運命をになったミロのヴィーナスの失われた両腕は、ふしぎなアイロニー㋙テイジするのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
問題

問1.太字㋐~㋙について、漢字をひらがなにカタカナを漢字に直しなさい。
問2.【 A 】~【 D 】に入る語として適当なものをそれぞれ次の中から選び、記号で答えなさい。
a.もちろん b.しかし c.しかも d.また e.たとえば f.しかし

問3.傍線部①「偶然」とあるが、例えばどのような具体的な事象が想像されるか。
問4.傍線部②「おそろしくむなしい気持ちにおそわれる」とあるが、なぜそのような気持ちになれるのか。以下の形に当てはまる文を書き出しなさい。
すぐれた復元案の「選ばれたどんなイメージも」両腕が~から

問5.傍線部③「失われているものが、両腕以外の何ものかであってはならない」とあるが、筆者はその理由をどのように説明しているか。
問6.傍線部④「それは」は何を指しているか。

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