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ユグノーとは わかりやすい世界史用語2646
著作名: ピアソラ
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ユグノーとは

16世紀初頭のフランスは、一見するとカトリック教会が盤石の支配を築いているように見えました。国王は「最もキリスト教的な国王」と称され、教会と王権は密接に結びつき、国民の精神生活を隅々まで規定していました。しかし、その水面下では、教会の腐敗や形式化した信仰に対する不満が、静かに、しかし確実に渦巻いていました。聖職者の道徳的退廃、聖職売買の横行、そして民衆の魂の救済よりも現世的な富と権力を追求する教会の姿は、多くの人々の目には、キリストの教えからあまりにもかけ離れたものとして映っていたのです。
このような精神的な渇望の中、北方から新しい思想の波がフランスへと流れ込み始めます。1517年、ドイツのヴィッテンベルクでマルティン=ルターが発表した「九十五か条の論題」は、瞬く間にヨーロッパ全土に広がり、宗教改革という巨大なうねりを引き起こしました。ルターが提唱した「信仰のみによる義認」や「聖書のみ」といった教えは、教会の権威を介さず、個人が直接神と向き合うことの重要性を説くものでした。この思想は、印刷技術の発達にも助けられ、ラテン語の壁を越えて、各国の言語に翻訳されたパンフレットや書籍として、人々の間に急速に浸透していきました。
フランスにおいても、ルターの思想は、改革を求める人々、特に人文主義者たちの間で大きな共鳴を呼びました。彼らは、聖書の原典研究を通じて、中世以来のカトリック教会の教義や慣習に疑問を抱いていました。その中心にいたのが、ジャック=ルフェーヴル=デタープルといった学者たちです。彼は、ルターに先駆けて聖パウロの書簡を研究し、信仰による救いを強調していました。彼とその弟子たちは、聖書をフランス語に翻訳し、福音の純粋な教えに立ち返ることを訴えました。この動きは「福音主義」と呼ばれ、当初は教義上の分離を目指すものではなく、あくまでカトリック教会の内部からの改革を志向するものでした。
国王フランソワ1世も、当初はこの新しい思想に対して、比較的寛容な態度をとっていました。彼はルネサンス君主として、人文主義的な学問を保護し、その姉であるマルグリット=ド=ナヴァールは、福音主義者たちの熱心な庇護者でした。宮廷内にも、改革に共感する人々が少なからず存在し、フランスの宗教改革は、ドイツとは異なり、穏健な形で進むかに見えました。
しかし、この比較的平和な共存の時代は、長くは続きませんでした。改革運動が勢いを増すにつれて、より急進的な思想を持つ人々が現れ、カトリックのミサや聖人崇拝を偶像崇拝であるとして公然と攻撃し始めます。そして1534年10月、この緊張関係を決定的に破綻させる事件が起こります。



檄文事件

1534年10月17日の夜から18日の朝にかけて、パリをはじめとするフランスの主要都市の街角に、カトリックのミサを激しい言葉で冒涜するポスターが一斉に貼り出されました。さらに大胆なことに、その一枚は、アンボワーズ城にあった国王フランソワ1世の寝室の扉にまで貼られていたのです。
「ミサと呼ばれる教皇の市場から生じる、耐え難い濫用に関する真実の条項」と題されたこの檄文は、アントワーヌ=マルクールというスイスの改革派牧師によって書かれたものでした。その内容は、カトリックの聖餐の教義、すなわちパンとワインがキリストの体と血に変化するという「聖変化」を、魔術であり偶像崇拝であると断じ、ミサを「冒涜」とまで言い切る、極めて挑発的なものでした。
この「檄文事件」は、フランス王国の根幹を揺るがす衝撃を与えました。それまでの穏健な改革の議論とは一線を画す、公然とした教会と王権への挑戦と受け取られたのです。特に、自らの寝室でこの檄文を発見したフランソワ1世の怒りは凄まじいものでした。彼は、これを単なる神学論争ではなく、自らの神聖な権威に対する直接的な反逆行為と見なしました。
国王の態度は、この事件を境に180度硬化します。それまでの寛容策は完全に放棄され、フランス全土でプロテスタントに対する過酷な弾圧の嵐が吹き荒れました。数百人が逮捕され、その多くが異端者として火あぶりの刑に処せられました。パリでは、国王自身が聖体を掲げて行進し、冒涜された神の栄光を回復するための大規模な贖罪の儀式を執り行いました。
この弾圧を逃れるため、多くの改革派の思想家や信徒が、フランスを離れて国外へ亡命することを余儀なくされました。その亡命者の中に、一人の若き法学徒がいました。彼の名は、ジャン=カルヴァン。檄文事件は、彼を安全なスイスの地へと追いやることになりましたが、それは結果として、フランスのプロテスタント運動が、ルター主義からカルヴァン主義へと、その神学的基盤を移行させる大きなきっかけとなったのです。カルヴァンは、亡命先のジュネーヴで、フランスの改革派教会を組織化し、その教義を体系化していくことになります。檄文事件は、フランスにおけるプロテスタントとカトリックの穏やかな共存の可能性を打ち砕き、両者を決定的な対立へと向かわせる、後戻りのできない分岐点となりました。
カルヴァンの影響

檄文事件をきっかけに始まった厳しい弾圧は、フランス国内のプロテスタント運動を根絶するどころか、かえってその信仰を鍛え上げ、より強固な組織を生み出す土壌を準備することになりました。この変革の中心的な役割を果たしたのが、亡命先のジュネーヴからフランスの信徒たちを指導したジャン=カルヴァンでした。
カルヴァンは、1536年にバーゼルで、彼の主著となる『キリスト教綱要』の初版を出版します。この著作は、当初、弾圧に苦しむフランスのプロテスタントの信仰を弁護し、フランソワ1世に寛容を求める目的で書かれました。しかし、その後何度も改訂を重ね、最終的にはプロテスタント神学の最も体系的で包括的な解説書となりました。その論理的明晰さと聖書に基づいた厳密な議論は、多くの人々に感銘を与え、プロテスタント思想の強力な理論的支柱となったのです。
カルヴァンの神学の中心には、神の絶対的な主権という思想があります。彼は、神が万物の創造主であり、その摂理が歴史の全てを支配していると説きました。この神中心の思想から、彼の最も特徴的な教義である「予定説」が導かれます。予定説とは、神が、その永遠の昔から、誰が救われ、誰が滅びるかを、人間の行いや功績とは無関係に、あらかじめ定めているという教えです。この教義は、一見すると冷酷で運命論的に聞こえるかもしれません。しかし、当時の信者たちにとっては、全く逆の意味を持ちました。
カトリック教会が教える善行や秘跡によって救いを「稼ぐ」という考え方に対し、予定説は、救いが完全に神の無償の恵みによるものであることを強調しました。自分が神に選ばれた者であるという確信は、信者たちに、世俗の権力や迫害を恐れない、揺るぎない精神的な強さを与えました。彼らは、自分たちの行いが救いの条件ではないからこそ、神の栄光を現すために、この世で神の戒めに従った、道徳的で規律ある生活を送るべきだと考えたのです。この内面的な確信と、それに基づく厳格な倫理観こそが、カルヴァン主義者の特徴となりました。
カルヴァンは、ジュネーヴを、彼の理想とするキリスト教共同体のモデル都市へと変革させていきました。彼は、牧師、教師、長老、執事という四つの職分からなる教会制度を確立し、市民の信仰生活だけでなく、道徳的な生活全般を厳しく監督しました。ジュネーヴは「プロテスタントのローマ」と称され、ヨーロッパ中から弾圧を逃れてきたプロテスタントたちの避難所となると同時に、改革派の教えを学ぶための国際的な拠点となりました。
このジュネーヴから、カルヴァンはフランス国内の信徒たちと精力的に手紙を交わし、彼らを励まし、指導しました。さらに、ジュネーヴで訓練を受けた多くのフランス人牧師が、秘密裏に本国へ派遣されました。彼らは、生命の危険を冒しながら、各地に散らばっていた信徒たちを組織し、カルヴァンの教えに基づいた教会を設立していきました。こうして、1550年代半ばから、フランス各地に、ジュネーヴの教会制度をモデルとした改革派教会が、次々と誕生していったのです。
ユグノーの誕生

1550年代後半、フランスのプロテスタント運動は、新たな段階に入りました。それまでの散発的で非公式な信徒の集まりは、カルヴァンの指導の下、全国的な組織を持つ、規律ある教会へと変貌を遂げたのです。このフランスのカルヴァン主義者たちを指して、やがて「ユグノー」という呼称が使われるようになります。
「ユグノー」という言葉の正確な語源については、いくつかの説があり、はっきりとは分かっていません。一つの説は、ジュネーヴで市の独立を巡ってサヴォイ公と争った「エイグノット党(ドイツ語で『盟友』の意)」に由来するというものです。フランスのプロテスタントがジュネーヴと密接な関係にあったことから、その蔑称として使われるようになった、とされます。また別の説では、夜に集会を開いていた彼らが、トゥールの民話に登場する夜の幽霊「ユーグ王」にちなんで呼ばれるようになった、とも言われています。いずれにせよ、この言葉は当初、彼らの敵対者によって用いられた蔑称でしたが、やがてユグノー自身が、自らのアイデンティティを示す言葉として受け入れていきました。
1559年5月、ユグノーの歴史において画期的な出来事が起こります。弾圧の嵐が吹き荒れるパリで、各地方教会の代表者たちが秘密裏に集まり、フランス改革派教会の第一回全国教会会議が開催されたのです。この会議で、彼らは共通の「信仰告白」と「教会規律」を採択しました。
この信仰告白は、カルヴァンの神学に深く根ざしたもので、聖書を信仰と生活の唯一の権威とすること、神の予定説、そして信仰のみによる義認などを明確に宣言していました。また、教会規律は、各個教会の組織と運営に関する詳細な規則を定めていました。各教会は、信徒の中から選ばれた長老たちと牧師によって構成される教会会議によって治められ、さらに地方会議、そして全国教会会議という、代議制に基づいた階層的な組織構造が確立されました。この組織構造は、ユグノーに驚くべき結束力と回復力を与えました。たとえ一つの教会が弾圧によって破壊されても、他の教会がそれを支え、組織全体として存続することができたのです。それは、カトリック教会のような上意下達の階級制度とは全く異なる、ボトムアップの民主的な組織でした。
この時期、ユグノーの数は爆発的に増加しました。1559年には数十程度だった組織化された教会の数は、わずか数年で2000以上に達し、信者の総数は約200万人、フランスの総人口の約10分の1に及んだと推定されています。
ユグノーの社会階層は、非常に多様でした。当初は、読み書きができ、新しい思想に敏感な都市部の職人、商人、法律家などが中心でした。しかし、次第に地方の貴族階級にも、その教えは急速に広がっていきます。特に、南フランスや西フランスの、中央の王権からの独立性が比較的高い地域の貴族たちが、こぞってユグノーに改宗しました。彼らにとって、カルヴァン主義は、単なる宗教的な信条であるだけでなく、中央集権化を進める王権や、その地域の支配者であったギーズ家のような大貴族に対抗するための、政治的なイデオロギーとしての側面も持っていました。
中でも、ブルボン家のアントワーヌ(ナバラ王)とコンデ公ルイ、そしてコリニー提督ガスパール=ド=コリニーといった王族に近い大貴族がユグノーの指導者となったことは、運動に大きな軍事力と政治的正当性を与えました。彼らは、自らの領地でユグノーを保護し、その信仰を公然と支持しました。こうして、ユグノーは単なる宗教的少数派から、強力な貴族のリーダーシップと全国的な教会組織、そして独自の軍事力を持つ、国家内国家とも言うべき、無視できない政治勢力へと成長していったのです。このユグノーの急成長は、カトリック勢力との間に深刻な緊張を生み、フランスを避けられない内戦の淵へと追いやっていきました。
宗教戦争

1562年、フランスは、その後30年以上にわたって国を荒廃させることになる、血で血を洗う宗教戦争(ユグノー戦争)の時代へと突入します。この内戦は、単なる宗教的な対立だけでなく、王権の弱体化に乗じた大貴族間の権力闘争、そしてスペインやイギリスといった外国勢力の介入が複雑に絡み合った、泥沼の様相を呈しました。
ヴァシーの虐殺と開戦

内戦の直接的な引き金となったのは、1562年3月1日の「ヴァシーの虐殺」でした。カトリック派の巨頭であるギーズ公フランソワの一行が、シャンパーニュ地方のヴァシーで礼拝中のユグノーを多数殺害したこの事件は、ユグノー側に、もはや平和的な解決は不可能であると確信させました。コンデ公ルイに率いられたユグノーは、武装蜂起し、オルレアンなどの都市を占拠します。これに対し、カトリック側もギーズ公の下に結集し、両軍はフランス全土で戦闘を開始しました。
ユグノー軍は、数では劣っていましたが、その信仰に裏打ちされた高い士気と、貴族の騎兵を中心とした優れた機動力を誇りました。彼らは、ゲリラ的な戦術でカトリック軍を苦しめ、イングランド女王エリザベス1世からの支援も取り付けました。しかし、カトリック側も、国王軍の大部分と、スペイン王フェリペ2世からの強力な支援を受けていました。戦争は、どちらか一方が決定的な勝利を収めることのないまま、一進一退の攻防を繰り返しました。
サン=バルテルミの虐殺

戦争と和平が繰り返される中、1972年8月、ユグノーの歴史における最大の悲劇が起こります。カトリックとユグノーの和解の象徴として、ユグノーの指導者ナバラ王アンリと国王シャルル9世の妹マルグリットの結婚式がパリで執り行われました。この結婚を祝うため、フランス中のユグノー貴族がパリに集結していました。
しかし、この和解の祭典は、血塗られた罠へと変わります。結婚式の数日後、ユグノーの重鎮コリニー提督が暗殺未遂に遭ったことをきっかけに、王太后カトリーヌ=ド=メディシスとシャルル9世は、ユグノー指導者たちの先制攻撃による殺害を決断します。8月24日の聖バルテルミの祝日の未明、虐殺が開始されました。コリニー提督をはじめ、パリにいたユグノー貴族のほとんどが殺害され、さらに虐殺はパリの一般市民、そして地方都市へと拡大しました。この「サン=バルテルミの虐殺」で、数千人から数万人のユグノーが命を落としたと言われています。
この大虐殺は、ユグノーに壊滅的な打撃を与えましたが、彼らの抵抗の意志を打ち砕くことはありませんでした。むしろ、生き残ったユグノーたちは、ヴァロワ王家に対する一切の信頼を捨て、より過激な抵抗理論を掲げるようになります。彼らは、フィリップ=デュ=プレシ=モルネーといった思想家が著した『暴君放伐論』などを理論的支柱とし、神の法に背く暴君に対しては、民衆は抵抗し、これを打倒する権利があると主張しました。ユグノーは、南フランスに事実上の独立共和国を築き上げ、独自の議会と軍隊を持つ、より強固な政治的=軍事的共同体へと変貌していきました。
三アンリの戦いとナントの王令

内戦は最終段階に入り、国王アンリ3世、カトリック同盟の指導者ギーズ公アンリ、そしてユグノーの指導者で正統な王位継承者であるナバラ王アンリという、三人のアンリが覇権を争う「三アンリの戦い」へと発展します。国王アンリ3世がギーズ公を暗殺し、そのアンリ3世自身も狂信的なカトリック教徒に暗殺されるという混乱の末、1589年、ヴァロワ朝は断絶し、ナバラ王アンリがアンリ4世として王位を継承しました。
しかし、プロテスタントの王が、カトリックが大多数を占めるフランス、特にカトリック同盟が支配するパリに受け入れられるはずはありませんでした。アンリ4世は、その後数年間にわたって、カトリック同盟とその背後にいるスペイン軍との戦いを続けなければなりませんでした。最終的に、彼は「パリはミサを執り行う価値がある」という有名な言葉を残し、1593年にカトリックへと改宗するという、政治的な決断を下します。この改宗によって、彼はようやくフランス国民の大多数から国王として認められ、パリに入城することができました。
かつての仲間であったユグノーから見れば、この改宗は裏切りに映ったかもしれません。しかし、アンリ4世は、彼らのことを忘れてはいませんでした。長年にわたる内戦を終結させ、王国の平和を回復したアンリ4世は、1598年、ユグノーの歴史において最も重要な文書である「ナントの王令」を発布します。
この勅令は、ユグノーに、これまでのどの和平令よりも広範で、確固たる権利を保障するものでした。カトリックがフランスの国教であることが再確認された一方で、ユグノーには、個人の良心の自由と、特定の都市や貴族の領地における公的な礼拝の権利が認められました。また、彼らは、公職に就く権利や、大学で学ぶ権利など、カトリック教徒と完全に同等の市民権を保障されました。さらに、彼らの安全を保障するため、ラ=ロシェルをはじめとする約150の要塞都市を、独自の軍隊と共に保持することが許可されました。勅令の遵守を保証するための特別法廷も設置されました。
ナントの王令は、一つの国家の中に、異なる宗教を信仰する二つの共同体が、法の下で共存することを認めた、当時としては画期的なものでした。それは、ユグノーにとって、長年の苦難の末に勝ち取った、彼らの存在と権利の公式な承認でした。ユグノーは、この勅令の下で、約半世紀にわたる、比較的平和で繁栄した時代を享受することになります。
繁栄と衰退

ナントの王令によってもたらされた平和な時代は、ユグノーの共同体がその経済的、文化的な活力を最も発揮した時期でした。彼らは、迫害の恐怖から解放され、その信仰に根ざした倫理観を、日々の労働や事業活動において実践していきました。
カルヴァン主義の教えは、勤勉、誠実、そして倹約を美徳としました。この労働倫理は、ユグノーを、商工業の分野で大きな成功へと導きました。彼らは、特に織物業、絹織物業、製紙業、印刷業、時計製造、金融業といった分野で、フランス経済の重要な担い手となりました。多くのユグノーは、都市部の熟練した職人や、国際的なネットワークを持つ商人であり、その技術と信用は高く評価されていました。彼らの活動は、フランスの産業の発展と近代化に大きく貢献したと言えます。
しかし、この平和と繁栄の時代にも、不安の影は常に付きまとっていました。ナントの王令は、あくまで政治的な妥協の産物であり、カトリック教会や大多数のカトリック教徒は、国内に「異端者」の存在を許すこの勅令を、苦々しい思いで見ていました。
1610年、ユグノーの偉大な保護者であったアンリ4世が、狂信的なカトリック教徒によって暗殺されると、ユグノーの立場は再び不安定になります。ルイ13世の治世、特に宰相リシュリュー枢機卿が実権を握ると、王権の中央集権化政策が強力に推し進められました。リシュリューにとって、独自の軍事力と要塞都市を持つユグノーは、国家の統一を妨げる「国家内国家」であり、許容できない存在でした。
1627年、リシュリューは、ユグノーの最後の拠点であり、大西洋に面した重要な港湾都市であったラ=ロシェルに対する包囲攻撃を開始します。ラ=ロシェル市民は、イギリスからの援軍を期待し、1年以上にわたって英雄的な抵抗を続けましたが、食料が尽き、飢餓によって多くの市民が亡くなった末、ついに降伏を余儀なくされました。
ラ=ロシェルの陥落後、1629年に「アレスの和約」が結ばれました。この和約は、ナントの王令で認められていたユグノーの信教の自由と市民権は再確認したものの、彼らが保持していた全ての要塞都市を武装解除し、その政治的=軍事的な特権を完全に剥奪するものでした。これにより、ユグノーは、もはや武装した政治勢力ではなく、単なる宗教的少数派へとその地位を転落させられたのです。彼らは、王権の慈悲にすがるしかない、無防備な存在となってしまいました。
フォンテーヌブローの勅令

ルイ14世の親政が始まると、ユグノーに対する圧力は、さらに組織的かつ執拗なものとなっていきました。「太陽王」と呼ばれたルイ14世は、絶対王政の理念を追求し、「一つの国、一つの法、一つの信仰」という、宗教的統一を国家の理想としました。彼の目には、カトリック信仰を共有しないユグノーの存在は、王国の完璧な統一を損なう、許しがたい汚点として映りました。
ルイ14世は、当初、武力ではなく、様々な圧迫政策によってユグノーをカトリックに改宗させようと試みました。まず、ナントの王令の条文を、極めて厳格かつ狭義に解釈し、ユグノーの活動を次々と制限していきました。新しい教会の建設は禁止され、既存の教会も些細な理由で次々と破壊されました。ユグノーは、多くの公職や特定の職業(法律家、医師、出版業など)から追放されました。ユグノーの子供をカトリックに改宗させるための様々な方策がとられ、7歳に達した子供は、親の意向に反してでも改宗できると定められました。
さらに、改宗を促すための経済的な圧力が加えられました。「改宗者金庫」が設立され、カトリックに改宗したユグノーには金銭的な報酬が与えられました。一方で、ユグノーの家庭には、不当に重い税金が課せられました。
これらの政策の中でも、最も過酷で非人道的だったのが、「竜騎兵による迫害」でした。これは、竜騎兵(龍騎兵)と呼ばれる国王の兵士を、ユグノーの家庭に強制的に宿泊させ、彼らが改宗するまで、あらゆる嫌がらせや暴行、略奪を黙認するというものでした。兵士たちは、家財を破壊し、食料を食い尽くし、家人を昼夜を問わず苦しめました。この恐怖に耐えかね、多くのユグノーが、心ならずも改宗の署名をせざるを得ませんでした。この政策によって、短期間に数十万人のユグノーが名目上の改宗者(「新カトリック教徒」と呼ばれた)となりました。
これらの「成功」に自信を深めたルイ14世とその側近たちは、もはやフランス国内にユグノーはほとんど存在せず、ナントの王令は有名無実化したと判断します。そして1685年10月18日、ルイ14世は、フォンテーヌブローの宮殿で、ナントの王令を完全に撤回する「フォンテーヌブローの勅令」に署名しました。
この勅令は、フランス国内におけるプロテスタントの信仰を完全に非合法化するものでした。全てのユグノー教会の破壊、全ての公的な礼拝の禁止、そして全てのユグノー学校の閉鎖が命じられました。ユグノーの牧師は、15日以内に改宗するか、さもなければ国外へ退去するよう命じられましたが、一般の信徒が国外へ逃亡することは、ガレー船での漕役刑という厳しい罰則をもって固く禁じられました。子供たちは、カトリックの司祭によって洗礼を受け、カトリック教徒として育てられることになりました。ルイ14世は、この勅令によって、フランスから異端を一掃し、王国の宗教的統一を完成させたと信じていました。しかし、この決定が、フランス自身に計り知れない損害をもたらすことになるとは、予想していなかったのです。
亡命とその後

フォンテーヌブローの勅令は、ユグノーたちに、改宗か、さもなければ信仰を捨てるかという、過酷な選択を迫るものでした。国外への逃亡が固く禁じられていたにもかかわらず、20万人から25万人ものユグノーが、財産を捨て、生命の危険を冒して、フランスからの脱出を決行しました。これは、当時のフランスのユグノー人口の4分の1から3分の1に相当する数でした。
彼らは、プロテスタントを受け入れてくれる国々、すなわち、スイス、ネーデルラント(オランダ)、イングランド、そしてドイツのプロテスタント諸邦(特にブランデンブルク=プロイセン)などを目指しました。これらの国々は、フランスからの亡命者たちを温かく迎え入れました。特に、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは「ポツダム勅令」を発布し、ユグノーの移住を積極的に奨励しました。彼は、ユグノーが持つ優れた技術や知識が、三十年戦争で荒廃した自国の復興に不可欠であることを見抜いていたのです。
このユグノーの大量亡命は、フランスにとって、経済的、文化的に大きな損失となりました。亡命したユグノーの多くは、フランスで最も熟練した職人、有能な商人、そして知識人でした。彼らがフランスを去ったことで、絹織物業や時計製造業といった、フランスが誇る多くの産業が深刻な打撃を受けました。一方で、彼らを受け入れた国々は、その技術と労働倫理の恩恵を大いに受け、産業の発展を加速させました。ベルリン、ロンドン、アムステルダムといった都市には、ユグノーのコミュニティが形成され、その地の経済と文化に新たな活気をもたらしました。ユグノーの亡命は、フランスの国力を弱め、その競争相手であるプロテスタント諸国の国力を強めるという、皮肉な結果を生んだのです。
一方、フランス国内に残ったユグノーたちは、過酷な状況下で、その信仰を守り抜こうとしました。彼らは、森や山中などの人里離れた場所で、秘密裏に集会を開き、礼拝を続けました。この「荒野の教会」と呼ばれる地下教会運動は、特に南フランスのセヴェンヌ山地などで活発でした。1702年、この地域で、カミザールと呼ばれるユグノーの農民たちが、ルイ14世の弾圧に対して武装蜂起を起こします(カミザールの乱)。彼らは、数年にわたって国王軍を相手にゲリラ戦を繰り広げましたが、最終的には鎮圧されました。
その後も、ユグノーに対する迫害は続きましたが、18世紀半ばになると、啓蒙思想の広まりとともに、宗教的寛容を求める声が次第に高まっていきます。ヴォルテールといった思想家たちは、ユグノーに対する不当な迫害を激しく非難しました。
そして1787年、フランス革命の2年前に、国王ルイ16世は「寛容に関する勅令(ヴェルサイユ勅令)」に署名します。これは、ユグノーに完全な信教の自由を認めるものではありませんでしたが、彼らの市民としての身分(結婚、出生、死亡)を法的に認め、財産を所有する権利を回復させるものでした。
最終的に、ユグノーが完全な信教の自由と市民権を回復するのは、1789年のフランス革命によって発布された「人権宣言」を待たなければなりませんでした。人権宣言は、第10条で「何人も、その意見の表明が法によって定められた公の秩序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を与えられてはならない」と謳い、フランスにおける信教の自由の原則を確立しました。それは、檄文事件から2世紀半以上、フォンテーヌブローの勅令から約1世紀を経て、ユグノーが長年にわたって流してきた血と涙の闘いの、一つの到達点でした。ユグノーの物語は、信仰の自由を求める人々の、不屈の精神の証として、フランス史に深く刻まれています。

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