チューリヒとは
16世紀初頭のヨーロッパは、精神的、政治的、そして社会的な大変動の渦中にありました。長きにわたりキリスト教世界の精神的支柱であったローマ=カトリック教会は、その権威と教義に対する深刻な挑戦に直面していました。この巨大な変革の波は「宗教改革」として知られ、ドイツのマルティン=ルターがその口火を切ったことで広く認識されていますが、改革の炎はヨーロッパ各地で同時に、あるいは連鎖的に燃え上がりました。その中でも、スイス連邦の一都市であったチューリヒは、ドイツのヴィッテンベルクと並び、宗教改革運動における極めて重要な中心地として歴史にその名を刻んでいます。チューリヒの改革は、ウルリヒ=ツヴィングリという卓越した指導者の下で推進され、ルター派とは異なる独自の神学的特徴を持つ改革派教会の伝統を築き上げました。それは単なる教義上の変革にとどまらず、都市の政治構造、社会生活、文化、そして市民の日常生活の隅々にまで深く浸透する、包括的な社会改革の様相を呈していました。チューリヒで起こった出来事は、スイス国内の他の都市や地域に大きな影響を与え、さらには国境を越えてフランス、オランダ、スコットランド、そして新大陸アメリカへと広がる改革派教会の潮流の源泉の一つとなったのです。この都市が経験した劇的な変化を理解することは、宗教改革という時代の複雑なダイナミズムと、それが近代ヨーロッパ世界の形成に与えた多面的な影響を解き明かす上で不可欠です。
改革前夜のチューリヒ
15世紀末から16世紀初頭にかけてのチューリヒは、神聖ローマ帝国の枠内にはありながらも、事実上の独立を謳歌するスイス連邦の有力な加盟州でした。アルプス山脈の北麓、チューリヒ湖のほとりに位置するこの都市は、戦略的な地理的条件に恵まれ、商業と手工業の中心地として繁栄していました。人口は約5000人から7000人程度と推定され、当時のヨーロッパの基準では中規模の都市でしたが、その政治的・経済的な影響力は人口規模をはるかに超えるものがありました。
政治と社会構造
チューリヒの政治体制は、ツンフトと呼ばれる同職ギルドが市政の主導権を握る、共和制的な性格を持っていました。1336年のブルンのツンフト革命以降、都市の貴族階級の影響力は後退し、商人や職人といった市民階級が市政を運営するようになりました。市政は大小の市参事会によって担われ、そのメンバーは各ツンフトから選出されていました。このシステムは、市民の政治参加をある程度保証するものであり、都市の自治と独立の精神を育む土壌となりました。市参事会は、法律の制定、税金の徴収、司法権の行使、そして対外政策の決定など、都市の運営に関する広範な権限を有していました。特に重要なのは、市参事会が教会に対する一定の管理権を持っていたことです。司祭の任命や教会の財産管理に関与するなど、世俗権力が教会組織に介入する伝統は、後の宗教改革において、市参事会が改革を主導する上で決定的な役割を果たす伏線となりました。
社会的には、チューリヒは傭兵稼業と深く結びついていました。屈強で知られたスイス兵は、フランス王やローマ教皇、イタリアの諸都市国家など、ヨーロッパ中の権力者たちにとって貴重な戦力でした。傭兵として外国で働くことは、多くの若い男性にとって富と名声を得るための重要な手段であり、チューリヒの経済にとっても無視できない収入源となっていました。しかし、この傭兵制度は深刻な社会問題も引き起こしていました。多くの若者が命を落とし、帰還した者たちも道徳的に荒廃することが少なくありませんでした。さらに、外国勢力が傭兵の供給を確保するためにチューリヒの政治家たちに年金を送り、政治的な影響力を行使するようになると、都市の独立を脅かす腐敗の温床と見なされるようになりました。この傭兵制度に対する批判は、愛国的な感情や道徳的な義憤と結びつき、改革を求める声が高まる一因となりました。
宗教的な状況と人文主義の影響
宗教改革前夜のチューリヒの宗教生活は、他のヨーロッパの都市と同様、カトリック教会の伝統と慣習に深く根差していました。市民の生活は、ミサ、聖人崇敬、巡礼、聖遺物への信仰といった儀式や実践によって彩られていました。グロスミュンスター(大聖堂)やフラウミュンスター(聖母大聖堂)といった主要な教会は、都市の精神的な中心であると同時に、広大な土地や財産を所有する経済的な実体でもありました。しかし、その一方で、教会の世俗化や聖職者の道徳的退廃に対する不満も静かに蓄積していました。高位聖職者の贅沢な生活、下級聖職者の教育水準の低さ、そして贖宥状(免罪符)の販売に代表されるような、教会の金銭的な搾取と見なされる慣行は、敬虔な信者たちの間で疑念と批判を呼び起こしていました。
このような状況の中、チューリヒの知識人層の間で影響力を増していたのが、ルネサンス人文主義の思潮でした。エラスムスに代表される人文主義者たちは、「原典に戻れ」をスローガンに、聖書の原典であるヘブライ語やギリシャ語の研究を重視しました。彼らは、中世スコラ神学の複雑で形式的な議論を批判し、聖書に基づいたシンプルで内面的なキリスト教信仰の回復を訴えました。人文主義は、権威を盲信するのではなく、自らの理性と学識に基づいてテキストを批判的に読解する姿勢を奨励しました。この知的な運動は、チューリヒにおいても受け入れられ、後の宗教改革の指導者となるウルリヒ=ツヴィングリをはじめとする多くの人々に、聖書を新たな視点から読み解くための知的道具を提供しました。彼らは、聖書こそがキリスト教信仰の唯一絶対の権威であるという確信を深め、カトリック教会の伝統や教義を聖書の記述と照らし合わせて批判的に検証するようになりました。この聖書中心主義と人文主義的な教養こそが、チューリヒの宗教改革を突き動かす原動力となったのです。
ウルリヒ=ツヴィングリの登場
チューリヒの宗教改革は、ウルリヒ=ツヴィングリという一人の人物の存在と分かちがたく結びついています。彼の神学、説教、そして政治的指導力がなければ、チューリヒの改革は全く異なる道を歩んだか、あるいはそもそも起こらなかったかもしれません。
初期の経歴と人文主義への傾倒
1484年、スイス東部のトッゲンブルク地方のヴィルトハウスという村で、比較的裕福な農家の息子として生まれたツヴィングリは、幼い頃から優れた知性を示し、高度な教育を受ける機会に恵まれました。バーゼル、ベルン、そしてウィーンの大学で学び、当時最先端の学問であった人文主義の洗礼を受けました。特に、バーゼル大学で教鞭をとっていたトマス=ヴィッテンバッハから受けた影響は大きく、聖書研究の重要性や、キリストの贖罪の死が信仰の核心であること、そして贖宥状の無価値さといった思想に触れました。
大学教育を終えた後、ツヴィングリは1506年にグラールスの教区司祭に就任しました。彼は司祭としての務めを果たす傍ら、ギリシャ語の習得に励み、新約聖書の原典研究に没頭しました。彼はエラスムスを深く尊敬し、その著作を熱心に読み込みました。エラスムスが1516年に出版したギリシャ語校訂版新約聖書は、ツヴィングリにとって決定的な意味を持ちました。彼は聖パウロの書簡をギリシャ語の原文で暗記するほど読み込み、聖書そのものに直接触れることで、カトリック教会の伝統的な教えの多くが、聖書に根拠を持たない後代の付け足しであると確信するに至りました。
1516年から1518年にかけて、巡礼地として有名なアインジーデルンの修道院で司祭を務めた時期は、彼の改革思想がさらに明確になる上で重要な期間でした。彼は、巡礼や聖人崇敬といった外面的な儀式ではなく、聖書に示されたキリストへの信仰こそが救いへの唯一の道であると説き始め、贖宥状の販売を公然と批判しました。このアインジーデルンでの説教活動によって、彼の名は改革を志向する説教者としてスイス各地に知られるようになりました。
チューリヒへの招聘と改革の開始
1518年末、ツヴィングリの評判はチューリヒの指導者たちの耳にも届きました。彼らは、チューリヒの最も重要な教会であるグロスミュンスターの民衆司祭(説教を主たる任務とする司祭)の地位に、空席が生じたことを受けて、ツヴィングリを候補者として招聘することを決定しました。いくつかの反対はあったものの、彼の学識と説教の才能が高く評価され、1519年1月1日、ツヴィングリはチューリヒでの最初の説教を行いました。
この最初の説教から、彼の姿勢は明確でした。彼は、教会が定めた日曜ごとの福音書日課に従うという長年の伝統を破り、マタイによる福音書を冒頭から一章ずつ連続して説き明かすという、当時としては画期的な説教方法(レクティオ=コンティヌア)を始めました。これは、聖書全体を体系的に、そしてその文脈の中で理解させようとする、彼の人文主義的な聖書研究の成果を実践に移したものでした。彼の説教は、スコラ神学の難解な議論や聖人伝の逸話ではなく、聖書の言葉そのものに焦点を当て、それを市民の日常生活や社会の問題に分かりやすく適用するものでした。その力強く、聖書に基づいたメッセージは、多くの市民の心を捉え、グロスミュンスターの聖堂は毎週彼を聴こうとする人々で満員になりました。
ツヴィングリは説教壇から、カトリック教会の様々な慣習を聖書の権威に基づいて批判しました。彼は、聖人への祈り、煉獄の教義、聖職者の独身制、そして断食の義務などを、人間が作り出した聖書的根拠のない教えであるとして退けました。また、彼は傭兵制度の弊害を厳しく糾弾し、チューリヒが外国勢力との同盟から手を引き、中立を守るべきだと訴えました。彼のメッセージは、単なる神学的な議論にとどまらず、社会の道徳的・政治的刷新を求める力強い呼びかけであり、チューリヒの市民社会に大きな波紋を広げていきました。
改革の進展と公開討論会
ツヴィングリの説教は、チューリヒ市民の間に改革への機運を醸成しましたが、それは同時に保守的なカトリック勢力との緊張を高めることにもなりました。改革が単なる個人の思想から都市全体の公的な決定へと移行する上で、決定的な役割を果たしたのが、市参事会が主催した公開討論会でした。
ソーセージ事件と改革の加速
改革運動が公然たる対立へと発展する直接のきっかけとなったのは、1922年の四旬節に起こった、いわゆる「ソーセージ事件」でした。四旬節の期間中、肉食は教会法によって固く禁じられていました。しかし、印刷工クリストフ=フロシャウアーの家で開かれた集まりで、ツヴィングリを含む十数人の人々が、この断食の掟を意図的に破り、燻製ソーセージを食べたのです。ツヴィングリ自身は食べなかったものの、その場に同席し、この行動を弁護しました。彼は、断食の義務は聖書には書かれておらず、人間が定めた規則に過ぎないため、それに従うかどうかは個人の良心の自由に委ねられるべきだと主張しました。
この事件は、チューリヒを管轄するコンスタンツ司教の怒りを買いました。司教はチューリヒ市参事会に対し、教会法を破った者たちを罰し、ツヴィングリの説教を禁じるよう要求しました。ここに、伝統的な教会の権威と、聖書を唯一の権威とするツヴィングリの主張、そしてその間で判断を迫られる市参事会という、チューリヒ宗教改革の基本的な対立構造が明確になりました。市参事会は、司教の要求を即座に受け入れることをせず、この問題を公の場で決着させることを決定しました。この決断が、第一回チューリヒ公開討論会への道を開いたのです。
第一回公開討論会と「67箇条」
1523年1月29日、チューリヒ市庁舎で第一回公開討論会が開催されました。この討論会には、市参事会のメンバー、聖職者、そして市民の代表など約600人が集まりました。コンスタンツ司教も代表団を派遣しましたが、彼らは神学的な問題を議論する権限は公会議にのみあるとして、本格的な討論を避けました。
この討論会の基礎となったのが、ツヴィングリが事前に準備した「67箇条」として知られるテーゼです。この文書は、チューリヒ宗教改革の基本綱領とも言えるもので、彼の神学的立場を明確に示していました。その中心的な主張は以下の通りです。
・福音(聖書)こそが信仰の唯一の源泉であり、教会がそれに付け加えたものはすべて無効である。
・イエス=キリストは人類の唯一の救い主であり、仲介者である。
・ミサはキリストの犠牲の繰り返しではなく、その記念である。
・聖人への祈りや仲介の依頼は、キリストの役割を貶める偶像崇拝である。
・煉獄、聖職者の独身制、断食の義務には聖書的な根拠がない。
・世俗の権威(市参事会)は、神の法に反しない限り、従うべき正当な権威である。
討論会では、ツヴィングリが「67箇条」を聖書の記述を引用しながら次々と弁証していきました。コンスタンツ司教の代表団は有効な反論ができず、沈黙を守る場面が多く見られました。討論の終わりに、市参事会は歴史的な決定を下しました。それは、ツヴィングリが聖書に基づいて説教を続けることを公式に認め、チューリヒの他のすべての聖職者に対しても、聖書に書かれていることのみを説教するように命じるというものでした。
この決定は、極めて重要な意味を持っていました。第一に、チューリヒ市参事会は、司教の権威を退け、宗教的な事柄に関する最終的な判断権を自らが握ることを宣言したのです。これは、世俗権力が教会権力から独立し、その上に立つという、宗教改革における国家教会体制の確立に向けた決定的な一歩でした。第二に、信仰と実践の唯一の基準として、教会の伝統ではなく聖書が公的に採用されたことを意味しました。これにより、チューリ-ヒにおける宗教改革は、もはや後戻りできない公的な運動となったのです。
改革の具体化と第二回公開討論会
第一回公開討論会の後、改革は具体的な形を取り始めました。修道院は閉鎖され、その財産は貧民救済や教育のために使われるようになりました。聖職者の結婚も認められ、ツヴィングリ自身も1524年にアンナ=ラインハルトと正式に結婚しました。
しかし、改革の進め方をめぐって、新たな対立が生じました。特に、ミサの廃止と聖像(イコン)の撤去という問題は、市民の間で大きな議論を呼びました。ツヴィングリは、これらが聖書の教えに反する偶像崇拝であるとして即時廃止を主張しましたが、一部の人々は急進的すぎると考え、慎重な態度を求めました。また、ツヴィングリのかつての協力者であったコンラート=グレーベルやフェリクス=マンツといった人々は、改革のペースが遅すぎると不満を抱き、より徹底的な改革を要求するようになりました。彼らは後に再洗礼派運動の指導者となります。
こうした問題に対処するため、1523年10月に第二回公開討論会が開催されました。今回は、ミサと聖像の問題が主要な議題となりました。ツヴィングリは、ミサがキリストの犠牲を記念する「感謝の食事」に過ぎず、それを犠牲の再現と見なすカトリックの教義は誤りであると論じました。また、教会内の聖像や十字架は、第一戒(汝、我の他に神あるべからず)と第二戒(汝、偶像を造るべからず)に反するものであると主張しました。
この討論会でもツヴィングリの主張が支持され、市参事会は段階的に改革を進めることを決定しました。まず、教会から聖像、聖遺物、そしてオルガンが組織的に撤去されました。市民が暴動を起こすのではなく、市当局の管理下で秩序をもって改革が進められたことは、チューリヒ宗教改革の大きな特徴です。そして1525年の聖木曜日、ついにグロスミュンスターでカトリック式のミサが廃止され、それに代わってツヴィングリが考案した新しい聖餐式が執り行われました。この聖餐式では、パンとぶどう酒が木製の皿と杯で会衆に配られ、祭壇の代わりに簡素なテーブルが用いられました。これは、チューリヒが公式にローマ=カトリック教会から離脱し、独自の改革派教会を樹立したことを象徴する出来事でした。
チューリヒ改革の神学的特徴
チューリヒで確立された改革派教会の神学は、多くの点でルター派の神学と共通点を持ちながらも、いくつかの重要な側面で独自の特徴を示していました。その核心には、ツヴィングリの聖書解釈と神理解がありました。
聖書中心主義の徹底
ツヴィングリの神学の根幹をなすのは、徹底した聖書中心主義です。ルターも「聖書のみ」を掲げましたが、ツヴィングリの適用はより厳格で、ある意味でラディカルでした。ルターの原則が「聖書が明確に禁じていない限り、伝統的な慣習は保持してもよい」というものであったのに対し、ツヴィングリの原則は「聖書が明確に命じていない限り、いかなる儀式や慣習も教会から排除されるべきである」というものでした。
この原則の違いが、礼拝の形式に明確な差異となって現れました。ルター派の教会が、祭壇画やステンドグラス、そして音楽(特にオルガン)といった伝統的な要素の多くを保持したのに対し、ツヴィングリ派の教会は、それらが人間の感覚に訴えかけ、神への純粋な精神的礼拝を妨げる可能性があるとして、徹底的に排除しました。チューリヒの教会内部は、装飾が一切取り払われ、白い壁と簡素な説教壇、そして聖餐式のためのテーブルだけが置かれた、極めて質素な空間となりました。礼拝の中心は、音楽や儀式ではなく、神の言葉である聖書の朗読と、それを解き明かす説教に置かれました。この厳格な聖書主義は、後のカルヴァン主義を含む改革派教会の伝統に深く受け継がれていくことになります。
聖餐論争=象徴説
ツヴィングリの神学がルターの神学と最も鋭く対立したのが、聖餐論(聖体拝領の理解)をめぐる問題でした。これは、プロテスタント陣営の分裂を決定づけた、宗教改革史上最も重要な神学論争の一つです。
カトリック教会は、ミサの聖別の瞬間にパンとぶどう酒が完全にキリストの体と血そのものに変化するという「全質変化説」を採っていました。ルターはこれを否定しましたが、キリストが制定の言葉「これはわたしのからだである」と述べた通り、パンとぶどう酒の「内に、それと共に、それの下に」キリストの体が実在するという「共在説」を主張しました。彼は、聖餐にあずかる者が信仰を持つか否かにかかわらず、キリストの体はそこに物理的に存在すると考えました。
これに対し、ツヴィングリは全く異なる解釈を提示しました。彼は、人文主義的な文献解釈の手法を用いて、キリストの言葉「これはわたしのからだである」における「これ(is)」という動詞を、「意味する(signifies)」と解釈すべきだと主張しました。つまり、聖餐におけるパンとぶどう酒は、キリストの体の実体そのものではなく、十字架上で一度だけ捧げられたキリストの犠牲を思い起こさせ、信仰共同体の結束を示す「象徴」あるいは「記念」であると考えたのです。これを「象徴説」または「記念説」と呼びます。ツヴィングリにとって、昇天したキリストの体は天の父の右の座にあり、物理的に地上の多くの祭壇に同時に存在することはあり得ませんでした。聖餐は、キリストの霊的な臨在を信仰によって体験し、キリストへの忠誠を誓う共同体の儀式であると彼は理解したのです。
この聖餐理解の違いは、1529年にヘッセン方伯フィリップの仲介で開かれた「マールブルク会談」で頂点に達しました。この会談は、ルター派とツヴィングリ派の神学的な一致を図り、神聖ローマ皇帝カール5世からの政治的・軍事的圧力に対抗するためのプロテスタント同盟を結成することを目的としていました。両者は、三位一体、キリストの神性、義認論など15の議題のうち14項目で合意に達しましたが、最後の聖餐論において、どうしても意見の隔たりを埋めることができませんでした。ルターはツヴィングリの象徴説を、聖書の言葉を軽んじる合理主義的な解釈であるとして断固として拒絶し、会談は決裂に終わりました。この分裂は、その後のプロテスタント世界の歴史に長く影響を及ぼし、ルター派と改革派という二つの異なる伝統が形成される決定的な要因となりました。
神の主権と予定説
ツヴィングリの神学のもう一つの重要な特徴は、神の絶対的な主権を強調する点にあります。彼にとって、神は全知全能の存在であり、世界の歴史と個人の運命を含むすべての出来事は、神の摂理と計画のうちにあります。この思想は、彼の予定説にもつながります。ツヴィングリは、誰が救われ、誰が滅びに至るかは、人間の自由意志や行いによるのではなく、神が永遠の昔に予め定めていると信じていました。
この厳しい予定説は、後のジャン=カルヴァンによってさらに体系化されますが、その基礎はツヴィングリの神学にありました。この教義は、人間の努力の無力さと、神の恵みへの完全な依存を強調するものでした。同時に、自分が神に選ばれた者であるという確信は、信者に対して、世俗的な成功や失敗に動じない強い精神的な支えと、神の栄光を地上で実現するための道徳的な義務感を抱かせました。この思想は、改革派の信者たちが示すことの多い、禁欲的で勤勉な倫理観の神学的な根拠となったと考えられています。
社会改革と教育
チューリヒの宗教改革は、教会の教義や礼拝の改革にとどまらず、社会全体の構造を変革する包括的なプログラムでした。ツヴィングリと市参事会は、聖書の教えを社会のあらゆる側面に適用しようと試み、教育、貧民救済、そして市民の道徳生活を監督するための新しい制度を創設しました。
プロフェーツァイと神学校の設立
ツヴィングリは、改革を担う次世代の聖職者を育成することの重要性を深く認識していました。当時の聖職者の多くは、ラテン語の知識が不十分で、聖書を原典で読む能力に欠けていました。この状況を改善するため、ツヴィングリは1525年に「プロフェーツァイ」と呼ばれる画期的な聖書研究会を創設しました。これは、グロスミュンスターで毎日早朝に開かれ、聖職者、神学生、そして関心のある市民が参加しました。
プロフェーツァイでは、旧約聖書がヘブライ語、ギリシャ語(七十人訳)、ラテン語(ウルガタ)、そしてドイツ語で順番に読まれ、それぞれの専門家が注解を加え、最後にドイツ語でその日の箇所の要約と実践的な適用が説教として語られました。これは、人文主義的な文献学の手法を組織的な聖書研究と説教準備に応用したものであり、聖職者の教育レベルを飛躍的に向上させました。さらに、このプロフェーツァイでの共同作業の成果として、1531年に「チューリヒ聖書」として知られる、完全なドイツ語訳聖書が出版されました。これはルター訳聖書とは独立して作成されたものであり、スイス=ドイツ語圏における宗教改革の普及に大きく貢献しました。
プロフェーツァイは、事実上、世界初のプロテスタントの神学校としての機能を果たし、後にカルヴァンがジュネーヴに設立するアカデミーのモデルともなりました。それは、チューリヒが改革派神学の研究と教育の中心地となるための基礎を築いたのです。
貧民救済と社会福祉
宗教改革以前、貧民救済や病人の看護は、主に修道院や教会系の慈善団体によって担われていました。しかし、ツヴィングリは、物乞いを奨励し、根本的な解決にならないとして、このような場当たり的な慈善活動を批判しました。彼は、貧困問題への対応は、教会と市当局が共同で責任を負うべき公的な義務であると考えました。
チューリヒでは、宗教改革に伴い、すべての修道院が解散させられました。しかし、その莫大な財産は没収されて市参事会の金庫に入れられたわけではありませんでした。ツヴィングリの指導の下、これらの財産は「共同の箱」と呼ばれる一つの基金にまとめられ、そこから組織的な社会福祉活動が賄われることになりました。この基金は、本当に働くことのできない貧民、孤児、寡婦への食料や生活必需品の支給、そして学校教育の資金として用いられました。物乞いは厳しく禁じられ、代わりに働く能力のある貧民には仕事が斡旋されました。
この改革は、貧民救済を個人の気まぐれな慈善行為から、共同体が責任を持つ公的な福祉制度へと転換させるものであり、近代的な社会福祉国家の思想の先駆けと見なすことができます。それは、キリスト教の愛の精神を、より合理的で組織的な形で社会に実現しようとする試みでした。
結婚裁判所の設置と道徳規律
ツヴィングリの改革は、市民の私的な道徳生活にも及んでいきました。彼は、社会全体の道徳的水準を高めることが、神の御心にかなうキリスト教共同体を築く上で不可欠であると考えました。この目的のために、1525年に「結婚裁判所」が設立されました。
この裁判所は、市参事会のメンバーと聖職者の代表から構成され、当初はその名の通り、結婚の約束、離婚、姦通といった結婚に関する問題を扱っていました。宗教改革以前、これらの問題は教会法裁判所の管轄でしたが、チューリヒではその権限がこの新しい機関に移管されたのです。しかし、その権限は次第に拡大し、冒涜、賭博、酩酊、贅沢、そして教会の礼拝への欠席など、市民のあらゆる道徳的な逸脱行為を監督し、裁くようになりました。
結婚裁判所は、違反者に対して警告、罰金、そして場合によっては追放といった罰を科す権限を持っていました。これは、教会と国家が一体となって市民の信仰と道徳を規律する体制の確立を意味し、後のジュネーヴにおけるカルヴァンの神政政治を彷彿とさせるものです。この制度は、個人の自由に対する抑圧的な側面を持っていたことは否定できませんが、同時に、宗教改革が単なる教義上の変革ではなく、社会全体のキリスト教化を目指す運動であったことを明確に示しています。
再洗礼派との対立
チューリヒの宗教改革は、カトリック教会との対立だけでなく、改革派の内部からも深刻な挑戦を受けました。ツヴィングリのかつての弟子たちの中から生まれた再洗礼派運動は、改革のあり方をめぐってツヴィングリと激しく対立し、悲劇的な結末を迎えました。
急進派の登場と幼児洗礼の否定
ツヴィングリの初期の協力者であったコンラート=グレーベル、フェリクス=マンツ、ゲオルク=ブラウロックといった人々は、もともとツヴィングリの最も熱心な支持者でした。彼らは、ツヴィングリが聖書に基づいてカトリックの慣習を批判するのを支持し、改革の推進力となりました。しかし、第二回公開討論会以降、彼らはツヴィングリの改革の進め方に強い不満を抱くようになります。
彼らが問題視したのは、ツヴィングリがミサの廃止や聖像の撤去といった改革の実施を、市参事会の決定に委ねたことでした。彼らにとって、聖書が誤りであると示している慣習は、いかなる権威の許可を待つことなく、信者の共同体によって直ちに廃止されるべきでした。彼らは、ツヴィングリが世俗権力である市参事会と妥協し、改革の純粋性を損なっていると批判しました。
この対立が決定的に先鋭化したのが、幼児洗礼をめぐる問題でした。グレーベルやマンツらは、聖書を研究する中で、新約聖書には幼児洗礼を命じる記述も、その実例も見当たらないという結論に達しました。彼らは、洗礼(バプテスマ)は、自らの信仰を告白できる年齢に達した者が、個人の決断に基づいて受けるべき「信者の洗礼」でなければならないと主張しました。彼らにとって、幼児洗礼は本人の信仰告白を伴わない無意味な儀式であり、聖書に反するものでした。
これに対し、ツヴィングリは幼児洗礼を擁護しました。彼は、洗礼を旧約聖書における割礼に相当する、神の契約の民の一員であることを示す「しるし」と見なしました。キリスト教徒の家庭に生まれた子供は、割礼がイスラエルの共同体への加入を示したのと同様に、洗礼によって神の契約共同体の一員として受け入れられるべきだと考えたのです。さらに、ツヴィングリは幼児洗礼の廃止がもたらす社会的な帰結を深く憂慮していました。当時、洗礼は市民としての登録も兼ねており、幼児洗礼の否定は、教会と市民共同体の一体性を根底から覆す、社会秩序に対する脅威と見なされたのです。
最初の再洗礼と迫害
議論は平行線をたどり、1525年1月、市参事会はツヴィングリの立場を支持し、すべての子供に生後8日以内に洗礼を授けることを命じ、グレーベルらの集会を禁止しました。この決定に反発したグレーベル、マンツ、ブラウロックらは、1525年1月21日の夜、マンツの家に集まり、歴史的な行動に出ます。元司祭であったブラウロックがグレーベルに、自らの信仰告白に基づいた洗礼を施すよう求め、グレーベルが彼に洗礼を授けました。その後、ブラウロックは集まっていた他の人々にも次々と洗礼を施しました。これが、宗教改革期における最初の「再洗礼」でした。彼ら自身は自らを「再洗礼派」とは呼ばず、「兄弟団」と称しましたが、幼児洗礼を否定し、成人洗礼のみを認めたことから、敵対者たちから軽蔑的な意味合いを込めて「アナバプテスト(再洗礼派)」と呼ばれるようになりました。
市参事会とツヴィングリは、この動きを公然たる反逆と見なしました。彼らは、再洗礼派が教会と国家の分離を唱え、市民の義務である兵役や誓いを拒否することで、チューリヒの社会秩序そのものを破壊しようとしていると考えました。市参事会は再洗礼派の指導者たちを次々と逮捕し、公開討論会で彼らの主張を論破しようとしましたが、彼らは自らの信念を曲げませんでした。
事態は急速に悪化し、11526年、市参事会は再洗礼を死刑に値する犯罪と定める法律を制定しました。そして1527年1月5日、フェリクス=マンツが、この法律の最初の犠牲者となりました。彼はリマト川で、彼らが実践した洗礼を嘲るかのような形で、溺死刑に処せられました。処刑に際し、彼はラテン語とドイツ語で「主よ、御手にわが霊を委ねます」と祈ったと伝えられています。その後も多くの再洗礼派がチューリヒから追放され、あるいは処刑されました。
この再洗礼派に対する厳しい弾圧は、ツヴィングリとチューリヒ宗教改革の歴史における最も暗い側面の一つです。かつては共に改革を志した仲間を死に追いやったという事実は、宗教的寛容がまだ根付いていなかった時代の厳しさを示すとともに、国家と教会が一体化した体制が、異論に対してどれほど不寛容になりうるかという危険性を物語っています。しかし、再洗礼派の思想は、迫害にもかかわらず生き続け、後のメノナイトやアーミッシュといった平和主義的な教会の源流となり、信教の自由や政教分離といった近代的な理念の発展に間接的ながら影響を与えていくことになります。