アウラングゼーブとは
アウラングゼーブは、ムガル帝国の第6代皇帝であり、その治世は1658年から1707年まで続きました。 彼の統治下で、ムガル帝国は領土的に最大の版図を築き上げましたが、同時にその後の衰退の種も蒔かれたと評価されています。 彼の生涯は、熾烈な権力闘争、広範な軍事遠征、そして厳格な宗教政策によって特徴づけられます。
生い立ちと皇位継承までの道のり
ムヒ・アルディン・ムハンマド・アウラングゼーブは、1618年11月3日にグジャラート州のダーホードで、第5代皇帝シャー=ジャハーンとその妻ムムターズ・マハルの三男として誕生しました。 幼少期から彼は真面目な性格で、学習意欲が旺盛だったと伝えられています。 特にコーランの知識は深く、ペルシャ語やアラビア語にも通じていました。 彼の性格は、宮廷の華やかさや贅沢にはあまり関心を示さず、宗教的で思慮深いものでした。
幼い頃から、アウラングゼーブは卓越した軍事的・管理的才能の片鱗を見せていました。 父シャー=ジャハーンは、彼に幼い頃から数々の軍事的な任務を与えました。 1626年、父シャー=ジャハーンが反乱に失敗した後、8歳のアウラングゼーブと兄のダーラー・シコーは、祖父ジャハーンギール帝のラホール宮廷に人質として送られました。 1628年にシャー=ジャハーンが帝位に就くと、彼らは両親のもとに戻り、アグラ城でアラビア語とペルシャ語を含む正式な教育を受けました。
皇子として、アウラングゼーブは数々の重要な役職を歴任し、その能力を証明していきました。1634年、16歳で初めて1万の騎兵と4000の兵士からなる部隊の指揮官に任命されました。 1635年には、オルチャの反乱した支配者ジュジャール・シングを鎮圧するための軍隊を名目上率い、この遠征は成功を収めました。 1636年、彼はデカン地方の総督に任命され、この地域でニザーム・シャーヒー朝を終わらせるなど、軍事的な成功を収めました。 その後、1645年にはグジャラート州の総督に任命され、宗教的な紛争が絶えなかったこの地域に安定をもたらすことに成功しました。 さらに、ウズベク族やトルクメン族の脅威にさらされていたバルフ地方の総督も務めました。 1648年から1652年にかけては、ムルターンとシンドの総督を務め、サファヴィー朝からカンダハールを奪還しようと試みましたが、兵站の問題や兵器の質の低さから失敗に終わりました。 1653年に再びデカン総督に任命されると、この比較的貧しい地域の開発に努めました。
ムガル帝国では長子相続の原則が確立されておらず、皇帝の息子たちは王位をめぐって軍事的に争うのが常でした。 シャー=ジャハーンは長男でリベラルな思想を持つダーラー・シコーを後継者として指名していましたが、他の息子たちはこれを不満に思っていました。 ダーラーはスーフィズムやヒンドゥー教とイスラム教の融和に関心を持つ学者肌の人物でしたが、軍事経験に乏しいと見なされていました。 一方、アウラングゼーブは厳格なスンニ派イスラム教徒であり、シャリーア(イスラム法)に基づく統治を掲げる、経験豊富な軍事指導者でした。
1657年9月、シャー=ジャハーンが重病に陥ったことをきっかけに、息子たちの間で皇位継承戦争が勃発しました。 これは、皇帝がまだ存命中に起こったという点で、それまでの継承戦争とは一線を画すものでした。 次男のシャー・シュジャーはベンガルで、四男のムラード・バフシュはグジャラートで、それぞれ独立を宣言しました。 アウラングゼーブは当初、弟のムラードと同盟を結び、勝利の暁には帝国を分割統治することを約束しました。
アウラングゼーブとムラードの連合軍は、まずダーラーが派遣した軍を破り、勢いに乗って首都アグラへと進軍しました。 1658年4月、ダルマットの戦いでダーラー・シコーとマールワール王国の連合軍を破りました。 そして同年5月、決定的な戦いとなったサムーガルの戦いで、アウラングゼーブはダーラー・シコーの軍に圧勝しました。 この勝利により、アウラングゼーブの帝国における主権は確固たるものとなりました。
病から回復したシャー=ジャハーンでしたが、アウラングゼーブは父に統治能力なしと宣言し、1658年7月にアグラ城に幽閉されました。 シャー=ジャハーンは、娘のジャハーナーラー・ベーグムの看病を受けながら、1666年に亡くなるまでの8年間をそこで過ごしました。
権力を掌握したアウラングゼーブは、次々と兄弟たちを排除していきました。彼は同盟者であったムラード・バフシュとの約束を破り、彼を逮捕してグワーリヤル城に投獄し、1661年12月に処刑しました。 ベンガルから進軍してきたシャー・シュジャーもカジュワの戦いで破り、彼はアラカン(現在のミャンマー)へ逃亡した後、現地の支配者によって処刑されました。 最も手ごわいライバルであったダーラー・シコーは、追跡の末に捕らえられ、1659年8月に異端の罪で処刑されました。 こうして、血なまぐさい権力闘争を勝ち抜いたアウラングゼーブは、1658年に「アラムギール(世界を征服する者)」と名乗り、正式にムガル皇帝として即位しました。
統治と帝国拡大
アウラングゼーブの49年間にわたる治世は、ほぼ二つの期間に分けることができます。 最初の約20年間(1658年~1681年)は主に北インドの統治に専念し、後半の約25年間(1682年~1707年)はデカン地方の征服にその精力の大部分を費やしました。 彼の統治下で、ムガル帝国は北はカシミールから南はジンジまで、西はヒンドゥークシュ山脈から東はチッタゴンまで広がり、インド史上最大の版図を誇る帝国となりました。
官僚制度と経済の表題のもとで、アウラングゼーブの官僚制度は、彼の前任者たちよりも多くのヒンドゥー教徒を雇用していたことが特徴です。 特に1679年から1707年にかけて、デカン戦役のためにマラーターの採用が増えた結果、ヒンドゥー教徒の官僚の割合は半数増の31.6%に達しました。 彼の治世の後半には、マラーターがラージプートを上回る数になりました。経済面では、アウラングゼーブの治世はムガル帝国の「黄金時代」と見なされることもあります。
軍事遠征の表題のもとで、アウラングゼーブは精力的な軍事指導者であり、帝国の領土を拡大するために数多くの遠征を行いました。北方での戦役では、治世の初期に、北東部のアホム王国(現在のアッサム地方)に対して一連の軍事作戦を展開しました。 1661年、ベンガル総督ミール・ジュムラにアッサム征服を命じ、1662年にはアホム王国の首都ガルガーオンを占領しました。 また、北西辺境ではペルシャや中央アジアのテュルク系部族からの脅威に対処しました。デカン政策の表題のもとで、アウラングゼーブの治世の後半を特徴づけるのが、デカン地方への大規模な軍事介入です。 彼のデカン政策の目的は、政治的、経済的、宗教的な動機が複雑に絡み合っていました。 彼は、マラーター勢力の台頭を抑えるためには、彼らを支援しているデカンのイスラム教国、ビジャープル王国とゴールコンダ王国を征服することが不可欠だと考えていました。 また、これらの国がシーア派であったことも、スンニ派の彼にとっては許しがたいことでした。ビジャープルとゴールコンダの征服では、1681年、息子のムハンマド・アクバルが反乱を起こし、デカンのマラーター王サンバージーのもとに逃げ込んだことをきっかけに、アウラングゼーブは自ら大軍を率いてデカンへ向かいました。 彼はまず、ビジャープルとゴールコンダの征服に乗り出しました。1685年にビジャープルを包囲し、18ヶ月にわたる長い攻防の末、1686年9月にこれを陥落させました。 続いて1687年初頭にゴールコンダを包囲し、裏切りや買収によって同年10月に占領しました。 これにより、ムガル帝国の領土は南インドにまで及び、史上最大の版図を実現しました。マラーターとの戦いでは、ビジャープルとゴールコンダを併合した後、アウラングゼーブはマラーター勢力の完全な鎮圧に乗り出しました。 彼は1689年にマラーター王サンバージーを捕らえ、拷問の末に処刑しました。 しかし、この行為はマラーターの抵抗をさらに激化させる結果となりました。マラーターはゲリラ戦術を駆使してムガル軍を苦しめ、アウラングゼーブのデカンでの戦いは泥沼化していきました。 彼は人生の最後の25年間をデカンで過ごし、ついにマラーターを完全に屈服させることはできませんでした。 この長引くデカン戦争は、ムガル帝国の財政を著しく圧迫し、人的資源を消耗させ、帝国の衰退を招く大きな要因となりました。
宗教政策
アウラングゼーブは、敬虔で厳格なスンニ派イスラム教徒として知られています。 彼は、イスラム法(シャリーア)に基づいた国家の樹立を目指し、前任者たちの寛容な宗教政策を覆す数々の措置を導入しました。 彼の宗教政策は、イスラムの教義を推進することと、反ヒンドゥー的な措置を講じることの二つの側面を持っていました。
イスラム的慣行の奨励の表題のもとで、アウラングゼーブは、宮廷での音楽や飲酒を禁止しました。 また、ムフタシブと呼ばれる役人を任命し、人々がシャリーアに従って生活しているか監視させました。 彼は硬貨にイスラムの信条(カルマ)を刻むことを禁じましたが、これは硬貨が人々の手を渡るうちに汚される可能性があると考えたためです。 彼は「ズィンダ・ピール(生きている聖人)」または「ダルヴィーシュ(修道僧)」としても知られ、その質素な生活様式と高潔な思想で知られていました。 彼はハナフィー法学派の法典である『ファタワ・アラムギリ』を編纂させました。
非イスラム教徒への政策の表題のもとで、ジズヤ(人頭税)の復活は、彼の政策の中で最も物議を醸したもので、1679年に非イスラム教徒に対してジズヤを再導入しました。 この税は、アクバル帝によって廃止されていましたが、アウラングゼーブはこれを復活させました。これはヒンドゥー教徒の間に広範な憤りを引き起こし、差別的な政策と見なされました。ヒンドゥー寺院の破壊では、アウラングゼーブは新しいヒンドゥー寺院の建設を禁じ、後には古い寺院の破壊も許可したとされています。 特に、ジャート族、サトナーミー派、ラージプートの反乱の後、彼の政策はより厳しいものになりました。 マトゥラーのケーシャヴァ・デーヴァ寺院やヴァーラーナシーのヴィシュワナート寺院など、著名な寺院が破壊されたと記録されています。 しかし、寺院破壊の目的や規模については、政治的な動機が主であったとする見方もあり、歴史家の間で見解が分かれています。その他の差別的措置として、ヒンドゥー教徒の商人には、イスラム教徒の商人の倍にあたる5%の通行税が課されました。後にイスラム教徒の商人はこの税を免除されました。 また、ヒンドゥー教徒を公職から排除したとも言われています。これらの宗教的に不寛容な政策は、ヒンドゥー教徒だけでなく、シーア派イスラム教徒やシク教徒など、多くの集団の反感を買い、帝国各地で反乱を引き起こす原因となりました。
各地の勢力との関係
アウラングゼーブの治世は、帝国各地の様々な勢力との絶え間ない闘争によって特徴づけられます。
ラージプートとの関係の表題のもとで、アクバル帝以来、ムガル帝国の安定に不可欠であったラージプートとの同盟関係は、アウラングゼーブの治世に悪化しました。 治世初期には、アンベール王国のジャイ・シングなど、一部のラージプート諸侯とは良好な関係を維持していました。 しかし、ジャイ・シングやマールワール王国のジャスワント・シングといった有力なラージプート諸侯が亡くなると、関係は急速に冷え込みました。 特に1679年、ジャスワント・シングが跡継ぎのないまま亡くなった後、アウラングゼーブがマールワール王国の後継者問題に介入したことが、マールワールとメーワールという二大ラージプート王国との決定的な対立を招きました。 このラージプートとの戦争は、帝国の資源を消耗させ、北インドにおけるムガル帝国の権威を揺るがしました。
シク教徒との関係の表題のもとで、アウラングゼーブはシク教徒に対しても厳しい態度を取りました。 彼は第9代シク教グル、グル・テグ・バハードゥルがイスラム教への改宗を拒んだため、彼を処刑しました。 この出来事は、シク教徒を戦闘的な共同体である「カールサー」へと変貌させるきっかけとなり、ムガル帝国に対する長期的な抵抗運動につながりました。
ジャート族とサトナーミー派の反乱の表題のもとで、彼の宗教政策や重税は、農民層の反乱も引き起こしました。1669年には、ゴークラーの指導のもとでジャート族が反乱を起こしました。 また、サトナーミー派と呼ばれるヒンドゥー教の一派も大規模な反乱を起こしましたが、これらはいずれも鎮圧されました。
晩年と死、そして帝国の衰退
アウラングゼーブは、1681年にデカンに赴いてから死ぬまでの25年間、一度も北インドの首都に戻ることはありませんでした。 彼の巨大な移動軍は、50万人の従者、5万頭のラクダ、3万頭の戦象を擁する大部隊でしたが、その移動の際にはマラーターのゲリラ部隊が後方を襲撃し、兵站を脅かしました。
デカンでの果てしない戦争は、ムガル帝国の国庫を空にし、経済を疲弊させました。 また、皇帝が長期間デカンに滞在したことで、北インドの統治が手薄になり、各地で貴族や地方勢力が自立を強める結果を招きました。 アウラングゼーブは息子たちを信用せず、彼らを常に遠ざけていたため、有能な後継者を育てることができませんでした。
1707年3月3日、アウラングゼーブはアフマドナガルのビンガルで、88歳の高齢で亡くなりました。 彼の死は、ムガル帝国の一つの時代の終わりを告げるものでした。 彼の死後、息子たちの間で再び皇位継承戦争が勃発し、帝国は急速に弱体化していきます。
アウラングゼーブの治世は、ムガル帝国を領土的に頂点に導きましたが、その強硬な政策は帝国内の亀裂を深め、多くの敵を作り出しました。 彼の厳格な宗教政策は、ヒンドゥー教徒やシク教徒、さらにはリベラルなイスラム教徒さえも遠ざけ、臣民の忠誠心を失わせました。 デカンでの長期にわたる戦争は、財政破綻と統治機構の機能不全を招きました。 これらの要因が複合的に絡み合い、アウラングゼーブの死後、わずか50年ほどで偉大なムガル帝国は崩壊へと向かうことになります。
遺産と評価
アウラングゼーブの評価は、歴史家の間でも大きく分かれています。ある者は、彼を敬虔なイスラム教徒であり、帝国の拡大に尽力した有能な統治者として評価します。 彼の治世下で帝国が経済的な繁栄を遂げたことも事実です。 彼は多くのモスクを建設し、アラビア書道の作品を後援しました。
一方で、多くの歴史家は、彼の宗教的不寛容と冷酷さを批判します。 兄弟を殺し、父を幽閉して権力を握った冷酷な野心家としての側面。 ヒンドゥー教徒に対する差別的な政策が帝国の分裂を招き、その後の衰退の直接的な原因を作ったという見方です。
アウラングゼーブは、正義感の強い王、良きイスラム教徒、そしてムガル文化の維持者でありたいと願っていました。 同時に、彼は拡大主義的な国家の長として、しばしば暴力を用いて帝国の支配を広げようとしました。