太平洋とは
太平洋は、ポルトガル語で「穏やかな海」を意味する「Mar Pacífico」に由来します。 この名は、1520年にポルトガル人の探検家フェルディナンド・マゼランが、後に彼にちなんでマゼラン海峡と名付けられる南アメリカ南端の荒れた海域を38日間かけて航海した後、穏やかな海に出たことから名付けられました。
太平洋の命名とその歴史的背景
太平洋は、地球の5つの大洋区分の中で最大かつ最深であり、地球の表面の約3分の1を占めています。 その面積は約1億6525万平方キロメートルで、地球の全陸地面積を合わせたよりも広大です。 北は北極海から南は南極海まで広がり、西はアジア大陸とオーストラリア大陸、東はアメリカ大陸に囲まれています。
ヨーロッパ人がこの広大な海を初めて認識したのは、16世紀初頭のことです。 1513年、スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアがパナマ地峡を横断し、「南の海」を意味する「Mar del Sur」と名付けたのが、ヨーロッパ人による太平洋の最初の発見とされています。 バルボアは、パナマ地峡の海岸から見て南側に海が広がっていたことから、この名前が付けられました。
しかし、今日私たちが知る「太平洋」という名前は、マゼランの探検によって付けられました。 1519年、マゼランはスペイン国王カルロス1世の支援を受け、香辛料諸島(現在のインドネシア、モルッカ諸島)への西回り航路を発見するための探検に出発しました。 5隻の船と約270人の乗組員を率いてスペインを出発したマゼランは、大西洋を横断し、南アメリカの東海岸を南下しました。
1520年11月1日、マゼランの船団は、後にマゼラン海峡と名付けられることになる海峡に進入しました。 この海峡は、南アメリカ大陸の南端とティエラ・デル・フエゴ島を隔てる、航行可能な海路です。 マゼランは、この海峡を「諸聖人の海峡」を意味する「Estrecho de Todos los Santos」と名付けました。これは、彼らが海峡に進入した日がカトリックの祝日である諸聖人の日だったことに由来します。 しかし、後にスペイン国王カルロス5世がマゼランの功績を称え、その名前をマゼラン海峡に変更しました。
マゼラン海峡の航海は困難を極めました。 狭く、予測不可能な風と海流のため、航行は非常に危険でした。 38日間にわたる荒れた海峡での航海の末、1520年11月28日、マゼランの船団はついに穏やかな海域に到達しました。 この穏やかな海に安堵したマゼランは、この海を「Mar Pacífico」、すなわち「穏やかな海」と名付けたのです。
しかし、この「穏やか」という印象は、マゼランが航海した特定の日時の気象条件によるものでした。 実際には、太平洋も大西洋と同様に、時には荒れ狂う海であることが知られています。 それでも、マゼランが付けた「太平洋」という名前は定着し、18世紀までは彼の功績を称えて「マゼランの海」と呼ばれることもありました。
マゼランの探検は、太平洋の広大さをヨーロッパ人に初めて明らかにしました。 当時の地理学的な知識では、南アメリカと香辛料諸島は小さな海で隔てられていると考えられており、マゼランも太平洋横断には3、4日しかかからないと予想していました。 しかし、実際には太平洋横断には3ヶ月と20日を要し、食料と水の不足により約30人の乗組員が壊血病で命を落としました。
マゼラン自身は、1521年4月27日にフィリピンのマクタン島で原住民との戦闘で命を落としましたが、彼の船団の一部はフアン・セバスティアン・エルカーノの指揮のもと航海を続け、1522年にスペインに帰還し、史上初の世界周航を達成しました。 この航海は、地球が球体であることを証明し、その真の大きさを明らかにするなど、地理学的な発見において大きな意義を持つものでした。
太平洋という名前は、マゼランの探検における偶然の出会いと、その後の歴史的な経緯によって定着しました。 バルボアが名付けた「南の海」という名前も、2世紀以上にわたって地図製作者や航海者によって使用され続けましたが、ジェームズ・クック船長の探検以降、「太平洋」という名称がより一般的に使われるようになりました。
フェルディナンド・マゼランの生涯と探検
フェルディナンド・マゼランは、1480年頃、ポルトガルのサブロサまたはポルトで、ポルトガルの下級貴族の家に生まれました。 幼い頃に両親を亡くし、10歳でポルトガル女王の小姓となり、リスボンのレオノーラ女王の小姓学校で地図作成、天文学、航海術などを学びました。
1505年、25歳の時にポルトガル海軍に入隊し、東アフリカへの艦隊に参加しました。 その後、インドや東南アジアでの数々の戦闘に参加し、航海士としての経験を積みました。 1511年には、現在のマレーシアにあるマラッカの征服に参加し、そこでエンリケという名の現地人の従者を得ました。
しかし、マゼランはポルトガル国王マヌエル1世の支持を得ることができず、西回り航路で香辛料諸島に到達するという自身の計画を実現するために、1517年にスペインに移りました。 スペイン国王カルロス1世は彼の計画を承認し、資金を提供しました。
1519年9月20日、マゼランは5隻の船(トリニダード号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、ビクトリア号、サンティアゴ号)と約270人の乗組員を率いて、スペインのサンルーカル・デ・バラメダを出航しました。 船団は大西洋を横断し、南アメリカの東海岸を南下しました。
航海の途中、マゼランは多くの困難に直面しました。 スペイン人の乗組員による反乱や妨害行為、食料不足、壊血病、嵐、そして原住民との敵対的な遭遇などが彼らを苦しめました。 1520年の冬には、偵察任務中だったサンティアゴ号が難破し、1隻を失いました。
1520年10月21日、マゼランはついに南アメリカ大陸を横断する海峡を発見しました。 この海峡は、後にマゼラン海峡と名付けられることになります。 海峡の探検中、残りの4隻のうちの1隻であるサン・アントニオ号が船団から離脱し、スペインに引き返してしまいました。
1520年11月28日、残りの3隻の船はついに太平洋に出ました。 マゼランは、この穏やかな海を「太平洋」と名付けました。 しかし、太平洋横断は彼の予想をはるかに超える過酷なものでした。 食料と水が尽き、多くの乗組員が壊血病で亡くなりました。 マゼラン自身は、保存食のマルメロを個人的に所持していたため、健康を維持できたと言われています。
3ヶ月と20日間の航海の末、1521年3月6日、疲弊した船団はグアム島に上陸しました。 その後、フィリピン諸島に到達し、セブ島の支配者と友好関係を築きました。 しかし、マゼランは現地の政治に巻き込まれ、1521年4月27日、マクタン島での戦闘で毒矢に当たり、命を落としました。
マゼランの死後、残された船団はフアン・セバスティアン・エルカーノの指揮のもと航海を続けました。 トリニダード号は損傷が激しく、後にポルトガルに拿捕されましたが、ビクトリア号はインド洋を横断し、喜望峰を回って、1522年9月6日にスペインに帰還しました。 当初270人いた乗組員のうち、生きて帰還できたのはわずか18人でした。
マゼランの探検は、史上初の世界周航を達成し、地球が球体であることを証明しただけでなく、太平洋の広大さを明らかにし、ヨーロッパ人の世界観を大きく変えました。 彼の航海は、大航海時代における最も重要な航海の一つとされています。
太平洋の地理的特徴
太平洋は、地球上で最も広大で深い海洋です。 その面積は約1億6525万平方キロメートルで、地球の全水面の約46%、地球の総表面積の約32%を占めています。 これは、地球上のすべての陸地を合わせた面積よりも広いです。
太平洋の平均水深は約4,000メートルです。 最も深い地点は、北西太平洋にあるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵で、その深さは10,928メートルに達し、これは世界で最も深い場所として知られています。 南半球で最も深い地点であるトンガ海溝のホライゾン海淵(深さ10,823メートル)も太平洋にあります。
太平洋には、25,000以上の島々が存在します。 これらの島々は、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの3つの主要なグループに分けられます。 ミクロネシアは西太平洋に位置し、マーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島、ギルバート諸島などが含まれます。 メラネシアは南西太平洋に位置し、ソロモン諸島、フィジー、ニューギニア島、バヌアツ、ニューカレドニアなどから構成されます。 ポリネシアは太平洋で最も広大な地域で、ニュージーランドからハワイまで広がっています。
太平洋の島々は、大陸島、サンゴ礁、高島、隆起サンゴ礁台地の4つの基本的なタイプに分類されます。 大陸島は、ニューギニア島やニュージーランドなど、かつて大陸の一部であった島々です。 高島は火山活動によって形成された島々で、ハワイ諸島などが含まれます。 サンゴ礁は、サンゴの骨格が積み重なってできた低地の島々です。
太平洋はまた、「環太平洋火山帯(リング・オブ・ファイア)」と呼ばれる、世界の活火山の75%以上が集中する地域でもあります。 この火山帯は、南アメリカの南端から北アメリカの西海岸、ベーリング海峡を越えて日本列島を通り、ニュージーランドに至るU字型の地域に沿って約40,250キロメートルにわたって伸びています。 世界の地震の約90%がこの地域で発生しています。
太平洋の気候は多様で、西太平洋はモンスーンの影響を強く受けます。 夏には海洋から湿った風が陸地に向かって吹き、雨季をもたらし、冬にはアジア大陸から乾燥した風が海に向かって吹き、乾季となります。
マゼラン以前の太平洋
ヨーロッパ人が太平洋を発見するずっと以前から、多くの人々がこの広大な海を航海し、その沿岸や島々で暮らしていました。 太平洋における人類の移動の歴史は古く、旧石器時代にはすでに現代人が西太平洋に到達していたと考えられています。
オーストロネシア語族の人々は、優れた航海技術を持ち、カヌーのような船を使って広大な太平洋を渡り、多くの島々に定住しました。 彼らの航海は、人類の移動の歴史の中でも特筆すべきものです。
ヨーロッパ人が太平洋を発見する以前、この海は様々な名前で呼ばれていました。 例えば、ハワイの先住民は、この海を「Moananuiākea」と呼んでいました。 これは、マオリ族の「Te Moana Nui a Kiwa」(キワの偉大な海)という言葉と密接に関連しています。キワはマオリの神話における海の守護神です。
中国では、古くは太平洋を単に「海」または「東海」と呼んでいました。 「洋」という漢字は、もともと「広大」や「豊か」といった意味を持つ言葉でしたが、後に海を指す言葉として使われるようになりました。 「太平洋」という言葉が中国で使われるようになったのは、16世紀以降のことです。
1513年にパナマ地峡を横断したスペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、ヨーロッパ人として初めて太平洋を目撃し、これを「南の海」(Mar del Sur)と名付けました。 この名前は、彼が地峡の北側から南に向かって海を発見したことに由来します。 この「南の海」という名称は、マゼランが「太平洋」と名付けた後も、2世紀以上にわたって地図や航海日誌で使われ続けました。
バルボアの発見は、ヨーロッパの地理的知識に大きな影響を与えました。 それまで知られていなかった広大な海の存在が明らかになり、アメリカ大陸がアジアとは別の、独立した大陸であることが示唆されました。 これにより、スペインは南アメリカの西海岸沿いの探検と征服への道を開き、この地域における確固たる足場を築くことになりました。
しかし、バルボアの功績は、彼の政治的な失脚によって影を落としました。 彼の発見の知らせがスペイン国王に届く前に、新たな総督が任命され、バルボアは嫉妬と陰謀の末、1519年に反逆罪で処刑されました。
このように、マゼランが「太平洋」と名付ける以前にも、この広大な海は様々な文化圏で認識され、それぞれに名前が付けられていました。マゼランの命名は、ヨーロッパ中心の視点から見た歴史の一側面に過ぎませんが、その後の世界の探検と交流の歴史において、大きな転換点となったことは間違いありません。