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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)

張居正とは わかりやすい世界史用語2240

著者名: ピアソラ
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張居正とは

張居正(1525年5月26日 - 1582年7月9日)は、明代後期の隆慶帝および万暦帝の治世において、卓越した内閣大学士でした。 彼は、その強力な指導力と広範な改革によって、衰退しつつあった明王朝に一時的ながらも安定と繁栄をもたらしたことで知られています。 彼の生涯は、幼少期からの並外れた才能、官僚制度内での着実な昇進、そして最高権力者としての10年間にわたる治世として特徴づけられます。しかし、その強権的な手法と死後の急激な失脚は、彼の評価を複雑なものにしています。



幼少期と初期のキャリア

張居正は1525年、湖広省江陵県(現在の湖北省荊州市)で生まれました。 幼い頃からその知性は際立っており、12歳で県の生員試験に合格し、翌年には郷試に挑みました。 この時の試験官は、彼の才能が傲慢さにつながることを懸念し、あえて不合格にしたと伝えられています。 この経験は、若き張居正にとって、才能だけでは乗り越えられない壁があることを教える最初の試練となったのかもしれません。
彼の家系は裕福ではありませんでしたが、召使いや乳母を雇う余裕はあったとされています。 張居正自身は、自らの出自を謙虚で貧しいものだったと強調していますが、悲惨なほど困窮していたわけではなかったようです。 彼の才能は早くから地方の有力者の目に留まりました。1536年、11歳の張居正は荊州府知府の李士翺と面会し、その才能を絶賛されます。李士翺は、彼が将来皇帝の師傅にまでなるだろうと予見したといいます。 さらに、視察に訪れた湖広巡撫の顧璘も彼の才能に注目しました。顧璘は、張居正がまだ若すぎるとして郷試には合格させませんでしたが、「この少年は国家を担う器だ」と述べ、彼の将来性を見抜いて学費を援助しました。
これらの有力者からの期待に応えるかのように、張居正は勉学に励み、1540年に郷試に合格しました。 しかし、1544年の会試には失敗します。 3年後の1547年、彼はついに会試と殿試に立て続けに合格し、進士の称号を得て、翰林院に配属されました。 翰林院は、将来の高級官僚を養成するエリート機関であり、ここでの経験が彼の後の政治キャリアの基礎を築くことになります。
官僚としてのキャリアの初期、張居正は当時の明の官界に蔓延していた深刻な派閥抗争の渦中に身を置くことになりました。 当時の政権は、厳嵩とその息子である厳世蕃が牛耳っており、腐敗が横行していました。一方で、徐階を中心とする清流派がこれに対抗していました。張居正は、厳嵩と徐階の両派閥と良好な関係を保つという稀有な立場を築きました。 1554年、彼は病気を理由に一時官職を辞しますが、6年後に復帰し、国子監、そして再び翰林院で勤務しました。 彼は生涯を通じて北京以外の地方官職に就くことはありませんでした。
彼の政治的キャリアにおける最初の大きな転機は、嘉靖帝の治世末期に訪れます。彼は徐階に協力し、長年権力を握っていた厳嵩を失脚させることに成功しました。 この功績により、彼は徐階の庇護のもとで政治的影響力を増していきます。1567年、隆慶帝が即位すると、張居正は内閣大学士に任命され、ついに国家の中枢へと足を踏み入れました。

内閣大学士への道

隆慶帝の治世(1567年-1572年)において、張居正は内閣大学士の一員として着実にその地位を固めていきました。 当時の内閣は、首輔(首席大学士)であった徐階、そしてその後の高拱といった有力者たちが主導権を争う場でした。張居正は、師と仰ぐ徐階の引退後も内閣に留まり、政敵であった高拱と権力を分かち合いました。
1572年、隆慶帝が若くして崩御し、わずか9歳の万暦帝が即位すると、明の政局は新たな局面を迎えます。 幼い皇帝を補佐するため、張居正は皇太后である李氏と、宦官のトップである馮保と同盟を結びました。 この政治状況は、彼の権力基盤を盤石なものにします。即位直後、張居正と馮保は協力して、当時の首輔であった高拱を失脚させました。 その口実とされたのは、高拱が幼い皇帝の統治能力を疑問視するような発言をしたことでした。 これにより、張居正はついに内閣の頂点である首輔の地位に就き、万暦帝の治世の最初の10年間、事実上の最高権力者として明帝国を統治することになります。
万暦帝の師傅としての役割も、彼の権力に正当性を与える重要な要素でした。 彼は幼い皇帝に対して、帝王学の師として厳格かつ熱心な教育を施しました。 毎朝早くから学問と政治について学ぶことを課し、皇帝としての自覚を促しました。 1573年には、儒教の経典である四書についての解説書『四書直解』を万暦帝に献上しています。 この本は、張居正の政治理念や皇帝への期待が込められたものであり、彼の死後もその価値を失わず、後の清代初期においても読まれ続けました。
張居正と万暦帝の関係は、単なる君臣や師弟の関係を超えた、複雑なものでした。 皇帝は張居正を師として、また父のような存在として尊敬していましたが、その厳格な指導と私生活への干渉は、若い皇帝の心に徐々に反発心と不満を育てていきました。 例えば、万暦帝が宮女たちに歌を歌わせようとして、彼女たちが知らなかったために激怒し死刑を宣告しようとした際、張居正は皇太后と共に皇帝の退位すら示唆して厳しく諫め、皇帝がひれ伏して謝罪するまでその態度を崩しませんでした。 このような出来事は、皇帝の行動を戒める一方で、張居正の支配的な印象を強めることにもなりました。
張居正の権力は、皇太后李氏と宦官馮保の強力な支持に大きく依存していました。 皇太后は張居正を深く信頼し、万暦帝に彼を師として敬い、その言葉に従うよう命じました。 馮保は、宮廷内における情報網と影響力を駆使して張居正を支え、政敵の排除に協力しました。 この三者の連携により、張居正は官僚機構を完全に掌握し、自らの意のままに動かすことが可能となったのです。彼は内閣大学士の同僚を自ら選び、吏部(人事担当)や都察院(監察担当)といった重要な中央官庁、さらには地方の要職に至るまで、自らの支持者を任命していきました。
しかし、彼の権力基盤は制度化されたものではなく、あくまで個人的な関係性と権威に依存するものでした。 このことは、彼の死後に改革が覆され、彼自身が断罪される遠因となります。彼は官僚機構の支持や民衆の支持を積極的に求めることなく、トップダウンで改革を断行しました。 そのため、彼の政策は多くの既得権益層の反感を買い、彼の存命中は表面化しなかったものの、水面下では強い不満が渦巻いていました。

万暦中興と諸改革

張居正が首輔として権力を握った1572年から1582年までの10年間は、「万暦の中興」として知られ、明王朝がその歴史の頂点を迎えた時期と評価されています。 彼は「富国強兵」をスローガンに掲げ、儒教的な理想論よりも法家的な実利主義を重視した政策を次々と打ち出しました。 その改革は、財政、軍事、行政、人事など多岐にわたり、衰退しつつあった帝国に新たな活気をもたらしました。

財政改革と一条鞭法

張居正の改革の中でも最も重要かつ影響力の大きかったのが、財政改革、特に「一条鞭法」の全国的な施行です。 16世紀の明の財政は、複雑怪奇な税制と、有力者による脱税の横行により、危機的な状況にありました。 税は土地税や人頭税、さまざまな種類の雑税や徭役(労働奉仕)に分かれており、その徴収は困難を極め、不正の温床となっていました。
一条鞭法は、これらの複雑な税体系を根本から見直すものでした。 その主な内容は、土地税や徭役など、国家に対するほぼ全ての納税義務を、銀による単一の支払いに一本化するというものです。 これにより、納税者は現物(米など)を遠くの倉庫まで運ぶ手間から解放され、地方の徴税機関に銀で直接納付すればよくなりました。 税額は各地域の人口と耕地面積に基づいて算出され、徴税プロセスが大幅に簡素化されました。
この改革を実効性のあるものにするため、張居正は1581年に全国的な土地調査(丈量)を命じました。 これは宋代以来となる大規模なもので、全国の田畑が測量され、その境界、面積、所有者、借地人が記録され、地図が作成されました。 この調査の目的は、皇族や官僚、富裕な地主などが不法に所有し、納税を免れていた膨大な土地を洗い出し、課税台帳に登録することでした。 彼の努力により、1580年までには約1億600万エーカー(約43万平方キロメートル)の土地が課税台帳に記録されたとされています。
これらの財政改革の結果、国家の歳入は劇的に改善しました。 彼は不要な官庁の活動を廃止または制限し、国費で養われる儒学生の数を削減し、郵便駅のサービスを縮小するなど、歳出削減にも厳しく取り組みました。 税の滞納者に対しては厳しい取り立てを行いました。 その結果、16世紀の明政府が通常ほとんど準備金を持たずに運営されていたのに対し、張居正の時代には国庫に莫大な余剰金が蓄積されるという、特筆すべき成果を上げました。 この豊富な資金は、軍備の増強や国家プロジェクトに充てられました。
しかし、一条鞭法はいくつかの問題も抱えていました。税の銀納化は、国内の銀の需要を急増させ、日本やスペイン領からの銀の輸入を促進しました。 これは一時的に対外貿易を活発化させましたが、長期的には国際的な銀の価格変動に明の経済が左右される脆弱性を生み出しました。 特に、国際貿易網に十分に組み込まれていない北方の辺境地域では銀の価値が高く、農民が納税に苦しむという事態も発生しました。

行政改革と考成法

張居正は、腐敗し非効率的になった官僚機構を刷新するため、「考成法」と呼ばれる厳格な人事評価制度を導入しました。 これは、各官庁の業務内容を明確にし、その達成度を厳しく評価するシステムでした。六部(中央の主要官庁)から地方の役所に至るまで、全ての官僚はその職務遂行状況を定期的に報告する義務を負い、目標を達成できなければ処罰されました。
この制度は、官僚たちの間で蔓延していた無責任で事なかれ主義的な態度を一掃し、行政の効率を飛躍的に向上させる効果がありました。 改革政策の着実な実行を担保する強力な手段となり、「富国強兵」という目標の実現に大きく貢献しました。 しかし、この厳格すぎる評価システムは、多くの官僚から強い反発を招きました。彼らは常に監視され、些細なミスも許されないというプレッシャーにさらされることになったのです。この不満は、張居正の死後に彼への非難が噴出する一因となりました。
張居正はまた、官僚機構全体の規模を縮小し、中央政府の地方総督に対する統制を強化しました。 彼は、自らの支持者を中央および地方の要職に配置することで、政策の実行力を確保しようとしました。 これらの措置は、中央集権化を推し進め、皇帝(そして事実上は張居正自身)の権威を強化するものでした。

軍事改革

1550年代のモンゴルによる侵攻を経験した張居正は、国防の強化を最重要課題の一つと捉えていました。 彼は財政改革によって得られた豊富な資金を軍事費に投じ、特に北方の防衛体制の再構築に力を注ぎました。
彼の軍事改革における最大の功績の一つは、名将として知られる戚継光を登用し、全面的に支援したことです。 戚継光は、兵士の新たな募兵・訓練方法や戦術を開発し、明軍の戦闘力を大幅に向上させました。張居正は、戚継光がこれらの改革を北方辺境の軍隊で実行できるよう、政治的な障害を取り除き、必要な予算を確保しました。
また、彼はモンゴルのアルタン・ハーンとの和平交渉を進め、朝貢貿易を許可することで、長年続いていた北方辺境での紛争を沈静化させました。 これにより、軍事的な緊張が緩和され、防衛費の削減にもつながりました。余剰となった兵士は故郷の農地に戻され、生産力の向上にも寄与しました。 この平和な時期は、張居正の死後、万暦帝がより攻撃的な対モンゴル政策に転換する基盤となりました。
張居正の軍事改革は、戚継光が担当した部隊においては大きな成功を収めましたが、その改革を明軍全体に広げるまでには至りませんでした。 それでも、彼の時代に築かれた軍事的な成功と国境の安定は、万暦中興を支える重要な柱の一つでした。

権力の濫用と論争

張居正の強力なリーダーシップと改革は、明王朝に大きな利益をもたらしましたが、その一方で、彼の強権的な手法は多くの論争と反発を生み出しました。彼の権力は絶大であり、時に法や慣習を超えて行使されることがありました。
最も大きな論争を呼んだのは、1577年に彼の父親が亡くなった際の出来事です。 当時の儒教的な規範では、高官は親が亡くなった場合、官職を辞して故郷に帰り、3年間の喪に服す(丁憂)のが義務とされていました。 張居正もこれに従い、辞職を願い出ました。 しかし、当時14歳だった万暦帝は、張居正なしでは国政が立ち行かないとして、彼の辞職を認めず、喪に服すことを免除する勅令を出しました。
この決定は、張居正自身が皇帝に働きかけた結果であると多くの官僚から見なされました。 親孝行を重んじる儒教の価値観に反するこの行為は、彼の政敵に格好の攻撃材料を与えました。 この決定に反対した多くの官僚が、皇帝の命令によって廷臣の前で杖で打たれるという厳しい処罰(廷杖)を受けました。 この事件は、張居正が自らの権力を維持するためには、伝統的な道徳さえも軽んじる独裁者であるという印象を決定的なものにしました。
彼の権力行使は、支持者の登用においても顕著でした。彼は重要なポストに自らの息のかかった人物を次々と任命し、官僚機構内に一大派閥を形成しました。 これは改革を推進するためには必要な措置であったかもしれませんが、彼の敵対者からは、権力を私物化し、縁故主義を助長していると非難されました。
また、張居正自身が豪華な生活を送っていたことも、批判の対象となりました。 彼は皇帝や官僚たちに質素倹約を説きながら、自身は贅沢な暮らしをしていたとされています。 この偽善的な態度は、彼の死後、万暦帝が彼に対して強い不信感と嫌悪感を抱く原因の一つとなりました。 皇帝は、張居正に厳しく質素な生活を強いられていた一方で、その師自身が贅沢三昧の暮らしを送っていたことを知り、深く傷ついたと言われています。
張居正の改革は、多くの既得権益を侵害するものでした。 土地調査によって納税を免れていた地主、行政改革によって職を失ったり権限を縮小されたりした官僚、特権を制限された皇族など、彼の政策によって不利益を被った人々は数多く存在しました。 彼らは張居正の存命中は沈黙を保っていましたが、彼の死を待ちわび、その時が来れば一斉に彼を弾劾しようと機会をうかがっていました。

死と死後の評価

10年間にわたり帝国を牽引してきた張居正は、1582年7月9日に病のため亡くなりました。 彼の死は、明の政治情勢を一変させる引き金となります。彼が築き上げた権力の均衡は、その死とともに崩壊し、抑圧されていた不満が一気に噴出しました。
彼の死後まもなく、政敵たちは万暦帝に次々と張居正を弾劾する上奏を行いました。 その罪状は、収賄、贅沢な生活、権力の濫用、不正な人事、反対意見の弾圧など、多岐にわたりました。 長年張居正の厳しい管理下に置かれ、不満を募らせていた万暦帝は、これらの告発を鵜呑みにしました。 皇帝は、張居正が自分を欺き、贅沢な生活を送っていたことに強い怒りを覚え、彼に対する積年の恨みを晴らすかのように、厳しい処分を下しました。
1584年、万暦帝は張居正の全ての官位と名誉を剥奪し、彼の家財を没収するよう命じました。 彼の家族は悲惨な運命をたどりました。多くの家族や親族が餓死したり、流刑に処されたりしました。 張居正の長男は、過酷な追及に耐えかねて自害したと伝えられています。かつて帝国最高の権力者であった人物の死後の扱いは、あまりにも無惨なものでした。
張居正の改革の多くも、彼の死とともに覆されました。 彼が登用した支持者たちは次々と官職を追われ、彼が築いた財政の黒字は、万暦帝の浪費によって瞬く間に食いつぶされていきました。 張居正の鉄腕支配のもとで一時的に鳴りを潜めていた官僚たちの派閥抗争が再燃し、明の政治は再び混乱と停滞の時代へと逆戻りしていきました。
しかし、皮肉なことに、万暦帝は張居正の政治思想の多くを無意識のうちに受け継いでいました。 地方官僚への不信感、官僚内の派閥政治への嫌悪、そして軍事問題への関心と有能な軍事指導者の重視といった点は、両者に共通するものでした。
張居正の名誉が回復されたのは、彼の死から半世紀以上が経過した後の、明王朝が滅亡する直前の1622年のことでした。 天啓帝によって、彼の官位と名誉は回復され、再評価の動きが始まりました。

遺産と歴史的評価

張居正の遺産は、その功罪両面から評価されるべき複雑なものです。彼の10年間の治世が、明王朝に最後の輝きをもたらしたことは間違いありません。 彼の断行した財政改革と行政改革は、破綻寸前だった国家財政を立て直し、行政の効率を劇的に改善させました。 一条鞭法の全国的な施行は、中国の税制史における画期的な出来事であり、その後の税制にも大きな影響を与えました。 軍事面では、戚継光の登用と北方防衛の安定化により、長期にわたる平和を実現しました。 これらの政策は、明王朝の寿命を数十年延ばしたと評価されています。
しかし、その成功は、彼の強権的な手法と独裁的な権力行使によってもたらされたものでした。彼は制度そのものを変革するのではなく、既存の制度を効率的に運用し、初期の帝国の秩序を取り戻すことを目指しました。 彼の権力は個人的な関係に依存しており、制度的な裏付けを欠いていたため、彼の死とともに改革は人亡政息(指導者が亡くなるとその政策も終わってしまうこと)の運命をたどりました。
彼の厳格すぎる統制と、反対派に対する容赦ない弾圧は、官僚社会に深刻な亀裂と不満を残しました。 また、皇帝に対して厳格な禁欲を説きながら、自らは贅沢な生活を送るという二面性は、彼の評価を著しく損なう要因となりました。
歴史家たちの間でも、張居正の評価は分かれています。 ある者は、彼を王朝の危機を救った偉大な改革者、有能で清廉な政治家として賞賛します。 一方で、別の者は、彼を権力を濫用した独裁者、目的のためには手段を選ばない冷酷な策謀家として批判します。
彼は儒教の教育を受けた学者官僚でありながら、その政策は儒教の理想よりも法家的な現実主義に根差していました。 彼は「国家の利益になるのであれば、自らの生死を問わず実行する」と述べ、強い決意で改革に臨みました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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