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18_80 ヨーロッパ世界の形成と変動 / 東ヨーロッパ世界の成立

聖像崇拝論争とは わかりやすい世界史用語1689

著者名: ピアソラ
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聖像崇拝論争とは

聖像崇拝論争は、8世紀から9世紀にかけてビザンツ帝国で発生した重要な宗教的および政治的対立であり、二つの主要な論争の期間が存在しました。この論争は、宗教的な画像や聖像の使用に対する反対が、教会と帝国の権威によって引き起こされたもので、帝国全体を二分する結果をもたらしました。
この論争は、宗教的な画像の使用を巡る深い神学的議論を引き起こしました。聖像崇拝を支持する者は、聖書の中で神が画像の創造を命じた例を挙げ、アイコンを通じて神の存在を表現することの重要性を主張しました。一方、聖像崇拝を否定する者は、聖書の第二の戒律に基づき、聖像崇拝が偶像崇拝に繋がると主張しました。
聖像崇拝論争の結果、東西教会の分裂が加速し、キリスト教の歴史に深い影響を与えました。この論争は、芸術の礼拝における位置づけに関する数世紀にわたる意見の相違を反映しており、最終的には教会の教義や実践における重要な変化をもたらしました。特に843年に聖像の使用が復活したことは、教会の統一と聖像崇拝の復権を象徴しています。

歴史的背景

聖像崇拝論争は、8世紀から9世紀にかけてビザンツ帝国が直面した重要な宗教的・政治的対立でした。この時期、イスラム勢力の拡大により、ビザンツ帝国は領土を失い、特にシリアやエジプトといった富裕な地域が奪われました。このような状況は、帝国の内部での信仰のあり方に疑問を投げかけ、聖像の使用に対する反発を引き起こしました。
イスラム教の影響を受け、偶像崇拝が神の意に反するという考えが広まりました。特に、神の不可視性や無限性を強調することで、聖像を用いることが神聖な存在を冒涜する行為と見なされるようになりました。このような思想は、聖像を崇拝することが偶像崇拝にあたるという見解を強化し、聖像の使用を禁止する動きが加速しました。
ビザンティン帝国は、宗教的な画像の使用を禁止することで、神の怒りを避けようとしました。726年、皇帝レオ3世は聖像崇拝に対する公の立場を表明し、聖像の使用を禁止しました。この政策は、聖像を崇拝する信者に対する迫害を引き起こし、帝国内での宗教的対立を深める結果となりました。

主要な人物

726年、ビザンツ皇帝レオ3世は、聖像の崇拝が偶像崇拝にあたるとの見解から、宗教的な画像の使用を禁止する立場を取ります。この禁止は730年に公式に施行され、聖像崇拝を支持する人々に対する迫害が始まりました。レオ3世の政策は、旧約聖書の第二の戒律に基づいており、画像の制作と崇拝を禁じるものでした。これにより、聖像崇拝論争が引き起こされ、ビザンツ帝国の宗教的、政治的な緊張が高まりました。
787年、皇后エイレーネーは第二回ニカイア公会議を招集し、聖像崇拝を復活させる決定を下しました。この公会議では、聖像崇拝が再び正当化され、聖像の使用が認められました。皇后の指導の下、教会は聖像を崇拝することがキリスト教の信仰の重要な一部であると再確認し、聖像崇拝論争の新たな局面を迎えました。この復活は、信者たちにとって重要な意味を持ち、宗教的なアイデンティティの再構築に寄与しました。
しかし、843年に聖像崇拝が最終的に復活しました。この出来事は、東方正教会において「正教の祭り」として祝われ、聖像崇拝の復活は信者たちにとって重要な宗教的意義を持つこととなりました。

聖像崇拝論争の終息は、東西教会の分裂の始まりを示す重要な出来事でした。この論争は、ビザンティン帝国の歴史において決定的な瞬間であり、教会の権威と信仰のあり方に深い影響を与えました。聖像の使用を巡る対立は、教会の内部での権力闘争を引き起こし、最終的には東方正教会とローマカトリック教会の分裂を促進しました。このように、聖像崇拝論争はキリスト教の歴史に長期的な影響を及ぼしました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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