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18_80 ヨーロッパ世界の形成と変動 / 西ヨーロッパ世界の成立

アッティラ王とは わかりやすい世界史用語1343

著者名: ピアソラ
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アッティラ王とは

アッティラは、5世紀にフン族を統治した著名な指導者であり、その治世はヨーロッパの歴史に大きな影響を与えました。彼は「神の鞭」とも称され、ローマ帝国に対する数々の軍事遠征で知られています。

生い立ちと初期の統治

アッティラは406年頃、現在のハンガリーにあたるパンノニアで生まれました。彼はフン族の有力な家系に生まれ、叔父のオクタルとルギラがフン帝国を統治していました。434年にルギラが死去した後、アッティラと兄のブレダが共同でフン族を統治することになりました。彼らは東ローマ帝国と和平条約を結び、ローマからの金の貢納を受けることになりました。



東ローマ帝国への侵攻

しかし、アッティラはローマが条約を破ったと非難し、441年に東ローマ帝国への攻撃を開始しました。彼はシンギドゥヌム(現在のベオグラード)やナイッスス(ニシュ)などの重要な都市を占領し、ローマ軍を何度も打ち破りました。この結果、東ローマ帝国はアッティラに対する貢納を増やさざるを得なくなりました。

単独支配とさらなる侵攻

445年、アッティラは兄のブレダを殺害し、フン族の単独の支配者となりました。これにより、彼の拡張主義的な政策がさらに強化されました。447年にはバルカン半島を大規模に侵略し、ローマ帝国にさらなる貢納を強いることになりました。

西ローマ帝国への関与

アッティラの野心は西方にも向けられ、450年にはガリアへの侵攻を開始しました。これは西ローマ帝国の皇帝ウァレンティニアヌス3世の妹、ホノリアとの結婚を求めたことが一因とされています。彼はホノリアからの婚約指輪を求婚の証と解釈し、西ローマ帝国の半分を持参金として要求しました。

カタラウヌム平原の戦いとイタリア侵攻

451年のカタラウヌム平原の戦いでは、アエティウス将軍率いるローマ・西ゴート連合軍と対峙しました。この戦いはアッティラにとって初の大敗とされますが、両軍に多大な犠牲をもたらしました。その後、452年にイタリアを侵略しましたが、飢饉と疫病のために撤退を余儀なくされました。

アッティラの死とフン帝国の分裂

アッティラは453年、結婚式の夜に謎の死を遂げました。歴史的な記録によれば、彼は酩酊状態で窒息したか、激しい出血を起こしたとされています。彼の死後、息子たちの間で権力争いが起こり、フン帝国は分裂しました。

遺産

アッティラの遺産は複雑です。彼は無慈悲な蛮族の指導者として描かれることが多いですが、同時に戦略的な洞察力と様々な部族をフン族の下に統合する能力も認められています。彼の遠征はローマ帝国を弱体化させ、最終的なローマの崩壊に寄与しました。恐ろしい評判にもかかわらず、彼の統治には交渉や外交の瞬間もあったことが歴史的な記録からも明らかです。

総じて、アッティラは歴史上最も恐るべき人物の一人であり、ヨーロッパの最も激動の時代における蛮族の指導者としての恐怖と複雑さを体現しています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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