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18_80 東アジア世界の形成と発展 / 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)

劉備とは わかりやすい世界史用語509

著者名: ピアソラ
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劉備とは

劉備(りゅうび、161年 - 223年)は、中国の三国時代における重要な武将であり、蜀漢の初代皇帝です。彼の生涯と業績は、歴史的にも文学的にも多くの注目を集めています。

生い立ちと初期の活動

劉備は、現在の河北省にあたる涿郡涿県で生まれました。彼の家系は漢王朝の皇族に連なるとされていますが、幼少期は貧困の中で育ちました。若い頃から志を高く持ち、義勇軍を組織して黄巾の乱の鎮圧に参加しました。この時期に、彼は関羽や張飛と出会い、義兄弟の契りを結びました。この三人の結束は、後に「桃園の誓い」として有名になります。

三国時代の幕開け

後漢末期、中央政府の権威が失墜し、各地で群雄が割拠するようになりました。劉備もその一人として頭角を現し、曹操や孫権と並ぶ存在となりました。彼は諸葛亮(孔明)を軍師として迎え入れ、天下三分の計を実行に移しました。この計画に基づき、劉備は益州(現在の四川省)を拠点とし、蜀漢を建国しました。

蜀漢の建国と統治

221年、劉備は漢の後継者を自認し、皇帝に即位しました。彼の治世は、民衆に対する慈悲深い統治と、忠誠心の強い部下たちによって支えられていました。特に、諸葛亮の補佐は劉備政権の安定に大きく寄与しました。劉備はまた、法治を重んじ、農業の振興や治水事業に力を入れました。

晩年と死去

劉備の晩年は、孫権との対立が激化した時期でもありました。彼は義弟関羽の死を契機に、孫権に対する報復戦を決意しましたが、222年の夷陵の戦いで大敗を喫しました。この敗北は蜀漢の勢力に大きな打撃を与え、劉備自身も失意のうちに病に倒れ、翌年に崩御しました。

劉備の遺産

劉備の死後、蜀漢は諸葛亮の指導のもとで存続しましたが、最終的には魏に滅ぼされました。しかし、劉備の名声はその後も高く評価され続けました。彼の人徳と義理を重んじる姿勢は、多くの人々に感銘を与え、後世の文学作品や歴史書においても重要な人物として描かれています。

劉備は、貧困から身を起こし、義兄弟と共に戦い抜いた英雄として知られています。彼の生涯は、困難に立ち向かいながらも理想を追求し続けた姿勢が、多くの人々に勇気と希望を与えました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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