協調外交の展開
ワシントン海軍軍縮条約により、1922年(大正11年)から
加藤友三郎内閣(海相兼任)のもと老朽艦廃棄や戦艦建造中止など海軍軍縮が実施されました。同時に、国内では陸軍軍縮も問題となり、同内閣の
山梨半造陸相のもとで約6万人の兵力が削減され(山梨軍縮)、つづいて1925年(大正14年)の加藤高明内閣では、
宇垣一成陸相のもと4個師団廃止(宇垣軍縮)が実現しました。陸軍はこのとき師団削減と同時に、航空部隊や戦車部隊を新設・増設し、装備の近代化を図りました。また、軍縮の対象となった
将校の失業対策と
国防観念の普及を目的に、中学校以上の学校で
軍事教練が正課となり、配属将校が配置されるようになりました。軍縮の結果、1921年(大正10年)に国家歳出の49%を占めていた軍事費は、1926年(大正15年)には27%と大幅な減少となりました。
ワシントン会議以降、1920年代を通じて、日本政府は国際協調を重視し、貿易振興など経済外交を重視しました。当時、アメリカは日本の最大の貿易相手国であり、1920年代半ばには日本の総輸出額の40%がアメリカ向けで、総輸入額の30%がアメリカからの商品でした。こうした中で、アメリカとの友好関係が最も重要視されるようになりました。
1924年(大正13年)に
加藤高明内閣(幣原喜重郎外相)の成立後、アメリカで
新移民法(排日移民法)が実施され、日本人移民がアメリカに事実上入国できなくなりましたが、外交レベルでは日米両国の協調関係は維持されました。また、日本政府は幣原外相のもとで中国への
内政不干渉政策をとり、特に武力的干渉を行わない方針を保ち、1927年(昭和2年)、国民革命軍の勢力が揚子江流域に及んだ時に、イギリスが日本に共同出兵を提案した時にもこれを拒絶しました。また、革命以降国交が途絶えていたソ連とも1925年(大正14年)加藤高明内閣の時に
日ソ基本条約を結び、日本とソ連の国交が樹立されました。こうした国際協調・対米協調・対中国内政不干渉政策を
幣原外交といいます。
こうした協調外交は、第一次世界大戦による反省と国際平和確立という世界的風潮を背景に、各国も軍縮や協調外交に参加し、ひとまず順調に進みました。軍縮会議はその後も開かれ、1927年(昭和2年)の
ジュネーヴ軍縮会議(最終的に失敗)、1928年(昭和3年)の
不戦条約、1930年(昭和5年)の
ロンドン海軍軍縮会議などが協定され、1930年代まで国際協調の時代が続きました。
しかし、こうした状況の中、日本の軍部や国家主義団体などの間では、ワシントン体制を英米が日本の対外発展を抑えるものであるとし、協調外交や軍縮政策に反対する動きも生まれました。日露戦争以後、軍人の人気が高かった時代に職業軍人を目指した少年たちが将校として一人前になるころ、こうした軍縮の時代がやってきました。兵力削減により、軍人は出世の道が狭まり、失業の不安にさいなまれるようになりました。また、軍人に対する世間の目も厳しくなっていきました。こうした軍部や軍人に対する世間の風潮が厳しくなるにつれ、これに対する反発が軍隊内で高まり、政府の協調外交や軍縮政策に不満を抱き、
テロや
クーデターでそれを打開しようとする
急進派軍人を生み出す背景となっていきました。