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【織田信長と本能寺の変、豊臣秀吉の天下統一、織豊政権、文禄・慶長の役】 受験日本史まとめ 35
著作名: Cogito
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太閤検地と刀狩り

豊臣政権の中心政策が検地と刀狩りでした。豊臣秀吉が行った一連の検地を太閤検地といい、検地帳が石高で記載され、石高制が確立しました。これを天正の石直しといい、それまでの貫高制も石高制に改められました。土地の面積表示も、町・段・畝・歩に統一され、穀物の量を量る升として京枡に統一し、石・斗・升・合を基本単位としました。太閤検地は、はじめ戦国大名と同じ指出検地でしたが、のちに検地竿を用いた竿入検地が原則になりました。また、太閤検地は一つの土地に1人の権利者を認める一地一作人の原則を取り、検地帳に登録された権利者は名請人と呼ばれました。年貢の納入は村請制で納められ、この方法は江戸幕府に継承されていきます。豊臣政権は1591年(天正19年)、全国の大名に領地の検地帳(御前帳)と国絵図の提出を命じ、その石高に見合った軍役を課しました。

一方、戦国時代に頻繁に起こっていた土一揆や一向一揆に苦しめられたことから、1588年(天正16年)農民から武器を没収し、農民の身分を明確にする刀狩りが行われました。ついで、豊臣秀吉は1591年(天正19年)、武家奉公人が町人・百姓になることや、百姓が商売や職人仕事に就くことを禁じた人掃令を出しました。翌年には関白となっていた豊臣秀次が朝鮮出兵の武家奉公人や人夫を確保するために人掃令を出し、武家奉公人・町人・百姓の戸数と人数を調査・確定する全国戸口調査が行われ、兵農分離・農商分離が完成しました。

豊臣秀吉の対外政策

豊臣秀吉は、はじめキリスト教の布教を認めていましたが、1587年(天正15年)に島津氏征討のため九州に入った時に、キリシタン大名の大村純忠が、長崎をイエズス会に寄付してることを知り、大名のキリスト教入信を許可制にしました。このとき、播磨国明石城主高山右近(1552〜1615)に棄教を迫りましたが拒否されたため、その領地を没収しました。その後、宣教師が神社仏閣を破壊しているということから、バテレン追放令を出し、宣教師たちを国外に追放しました。しかし、ポルトガル船や商人の来航は従来通り認めました。1588年(天正16年)、海賊取締令をだし、倭寇などの海賊行為を禁止し、南蛮貿易を奨励しました。

ところがこうした状況の中、1596年(慶長元年)、スペイン船サン=フェリペ号が土佐に漂着した際、乗組員やポルトガル人からスペインが宣教師を領土拡張の尖兵として利用しているとの話が広まり、豊臣秀吉はスペイン系フランシス会を中心とする宣教師・信者26名を捕らえ、長崎に送って処刑しました。

他方、中国の明王朝が弱体化していった国際情勢下で、豊臣秀吉は、マニラのスペイン政庁、ゴアのポルトガル政庁、高山国(台湾)に対し服属と入貢を求めるなど対外政策を積極的に行うようになります。

1587年(天正15年)、対馬の宗氏を通じ、朝鮮の入貢と明への出兵の先導を求めましたが、朝鮮はこれを拒否しました。これに対し1592年(文禄元年)、15万人の大軍を朝鮮に派兵しました。これを文禄の役といいます。釜山に上陸後、日本軍は進軍を進め、漢城(現ソウル)を落とし、平壌(ピョンヤン)も占領しました。しかし、朝鮮の将軍李舜臣(1545〜98)率いる朝鮮水軍の亀甲船の反撃や義勇軍、明の援軍により日本軍は苦戦を強いられ、小西行長(1558〜1600)らの現地軍は休戦し、豊臣秀吉に講和を勧めましたが、この交渉は決裂してしまいました。1597年(慶長2年)、再び14万人の兵が送られましたが、翌年豊臣秀吉の病死後に撤退しました。これを慶長の役といいます。この前後7年に及ぶ日本軍の侵略は、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱と呼ばれ、大きな被害を与えました。



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