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【安土桃山文化、狩野派の活躍、茶道の確立、南蛮文化】 受験日本史まとめ 36
著作名: Cogito
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安土桃山文化

豊臣秀吉は、晩年伏見城に居を移し、この城跡にはのちに桃の木が植えられ桃山という地名が付けられました。このことから、織田信長・豊臣秀吉の居城をとって、この時代を安土桃山時代と呼び、この頃の文化を安土桃山文化といいます。

戦国時代が終わり、統一政権の樹立とともに経済・文化・海外交易が活発となった安土桃山時代には、数々の豪華・壮麗な文化財が作り出されました。織田信長や豊臣秀吉は、これまで多くの文化を担ってきた仏教勢力を弱めたため、仏教の影響力が薄れ、現実的で力強い絵画や彫刻が制作されました。

桃山美術

桃山美術を象徴するのが城郭建築です。安土桃山時代には、山城と異なり交通の利便性が高い平地に作られました。重層の天主の本丸と、土塁や水濠、石垣で作られた郭が一般的な城郭建築となりました。織田信長による安土城、豊臣秀吉による大坂城・伏見城などは代表例で、天下統一の威勢を示した壮麗な城でした。また、秀吉は聚楽第という殿舎も建築しました。こうした城や殿舎の内部には、濃絵(金碧画)の豪華な障壁画(障屏画)が描かれました。これらの壮麗な建築物は現存せず、伏見城の一部を一部を移築して作られた都久夫須麻神社本殿や、聚楽第の一部を移築したと推定される大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣など僅かな遺構しか残っていません。

城郭建築はその後も盛んに行われ、二条城・松本城・彦根城・姫路城など、美しい城が各地に建築されました。17世紀以降の城郭は、豪華な内部装飾が抑えられる一方で、簡素で機能的なものになっていきました。関ヶ原の戦い以後に城主となった池田輝政(1564〜1613)が改築した姫路城は、大天守とこれに連なる3棟の小天守からなる連立式天守閣が壮麗で、その機能美から白鷺城とも呼ばれています。

城や殿舎の内部を彩る障壁画の中心となった絵画の流派が狩野派でした。中でも、狩野永徳(1543〜90)は水墨画と日本古来の大和絵を融合させ、『唐獅子図屏風』『檜図屏風』などの作品を残しました。また、狩野長信(1577〜1654)・狩野内膳(1570〜1616)ら多くの画家が狩野派から出て、狩野永徳の画風を引き継いでいきました。狩野派の門下の中でも、狩野山楽(1559〜1635)は狩野永徳の気風を伝え、『松鷹図』『牡丹図』などの作品を残し、狩野派を発展させました。狩野派は、民衆の風俗画も描いており、狩野永徳の『洛中洛外図屏風』、狩野秀頼の『高雄観楓図屏風』、狩野長信の『花下遊楽図屏風』、狩野内膳の『富国祭礼図屏風』、狩野吉信の『職人尽図屏風』などが著名です。狩野派以外では、『山水図屏風』『牡丹図梅花図屏風』を描いた海北友松、『智積院襖絵』『松林図屏風』を描いた長谷川等伯、雲谷等顔が著名です。




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