韓国併合、インド民族運動で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
日韓協約と韓国併合
・
日清戦争で宗主国の清が敗れると、高宗は
大韓帝国(1897~1910)に改称し皇帝に即位した。こうした中日本は、韓国への支配力を強めるため、三回に渡って
日韓協約を結んだ。日本の支配が強まる中、朝鮮の人々は
愛国啓蒙運動や
反日義兵闘争をおこし、これに対抗した。
・第1次日韓協約(1904)では、韓国の外交・財政に日本政府派遣の顧問を置くことを強要し、第2次日韓協約(1905)では、韓国の自主外交権を奪い、
日本の保護国とした。1907年、韓国の高宗が、オランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を派遣し、第2次日韓協約の無効と日本の不当性を訴えようとした
ハーグ密使事件がおこった。日本はこの事件をきっかけに、高宗を退位させ、第3次日韓協約で韓国政府のすべてが総監の指導を受けることとし、軍隊を解散させた。初代韓国総監となった
伊藤博文は、韓国併合を推進し、朝鮮の愛国者
安重根に暗殺された。
・
1910年8月、
韓国併合条約が調印され、韓国は日本の植民地となった。統治機関として朝鮮総督府が京城(ソウル)に置かれ、寺内正毅が初代総督に就任した。
インドの民族運動
・インドでは、
シャー=ワリー=ウッラーや
ラーム=モーハン=ローイなどが新しい思想を提示した。イギリスはインド統治を強化するため、1858年に
インド高等行政官制度(ICS)を制定し、インド人エリートににイギリスのインド支配の一部分を担わせた。
・インドの思想家
ナオロジーは、インドからイギリスへの富の流出がインドの貧困の根源にあるとし、1883年、政治家
バネルジーが人種差別政策に反対する
全インド国民協議会を結成させた。1885年、イギリスはインド人の不満をそらすため商人・地主・知識人を中心に
インド国民会議を設立し、第一回はボンベイで開催された。
・インド国民会議の参加者は、次第に結束し、
国民会議派という政治結社をつくり、
ティラクがこれを指導した。1905年、ベンガル州をイスラーム教徒の東ベンガルとヒンドゥー教徒の西ベンガルに分割するという
ベンガル分割令(カーゾン法)が制定されると、典型的な分割統治に反対したインド民衆は反英闘争を激化させたため、1911年に撤回された。
・1906年、ベンガル分割令に反対した国民会議派は、
英貨排斥(英製品ボイコット)・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(インド人による自治・独立)・民族教育(植民地教育の否定)の4綱領を
カルカッタ大会で採択した。こうした動きに対し、イギリスは
全インド=ムスリム連盟を組織し、国民会議派の分断を図った。