方法的懐疑
現在でも昔からの習慣や迷信によって、科学的根拠がなくても信じられていることがたくさんありますね。17世紀フランスの哲学者
デカルトは、
物事の真偽を明確にすることで、真理を見つけようとしました。
デカルトは、真理とは誰がどのように疑っても、数学のようにきちんと証明できるものではならないと考え、少しでも疑いの余地があるものは切り捨てて物事を考えるようになります。
このように、真理を得るために物事を疑って考える方法論のことを
方法的懐疑と言います。
われ思う、ゆえにわれあり
しかし、疑っても1つだけ疑いきれない事実がありました。それは
デカルト自身が存在しているという事実です。
「
われ思う、ゆえにわれあり」という言葉は、いくら物事を疑っていても(われ思う)、それを疑っているデカルト本人がその場に存在していている(われあり)事実は否定できない、そんな状況から生まれた言葉なのです。
「われ思う、ゆえにわれあり」はラテン語で「
cogito ergo sum」(コギト・エルゴ・スム)と言います。
演繹法
デカルトが物事を考えるときに使ったのが
演繹法(えんえきほう)とよばれるアプローチです。これはみなさんが普段、数学を解くときに使っている考え方そのものです。
まず、単純で確実な前提を挙げます。よく使われているのが、「人間はみな死ぬ」という命題です。
「人間はみな死ぬ」という事実は、単純で確実(明確)な真理ですね。・・・①
これに、証明をしたい文章をぶつけてみます。
例えば「ソクラテスは人間である」を考えてみましょう。・・・②
①と②より「ソクラテスは人間なので死ぬ」ということが言えます。
これは紛れも無い事実ですね。これが演繹法とよばれる考え方です。