公武合体(こうぶがったい)と
尊王攘夷(そんのうじょうい)は、幕末の京都でぶつかった2つの政治路線です。
公武合体は、朝廷と幕府を結びつけて幕府を立て直そうとする考え。
尊王攘夷は、天皇を尊び、外国の勢力を打ち払おうとする考えです。この記事では、どちらも朝廷を重んじた2つがなぜ争ったのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる公武合体と尊王攘夷の違い」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・どちらも朝廷を重んじたのに、なぜ対立したのか
・公武合体を推したのは誰で、尊王攘夷の中心はどの藩だったのか
・京都でぶつかった八月十八日の政変では、何が起きたのか
1分でわかる公武合体と尊王攘夷の違い
2つの路線の違いは、一言でいえば幕府への向き合い方です。
公武合体は、朝廷と結んで幕府を立て直す路線
朝廷の権威と幕府を結びつけ、幕府の政治を立て直そうとする考えです。推したのは幕府のほか、薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)や、越前藩の松平慶永(まつだいらよしなが)といった、有力な藩の人々でした。
尊王攘夷は、開国を進めた幕府を批判し、攘夷を迫る路線
水戸藩で生まれた学問、水戸学(みとがく)の影響を受けて広まった考えで、京都で運動の中心になったのは長州藩の尊王攘夷派です。長州藩は幕府に攘夷の実行を迫り、外国の船を砲撃しました。
ぶつかった場面は、八月十八日の政変
文久3年(1863年)8月18日、公武合体を推す薩摩藩と会津藩が、京都で朝廷を動かしていた長州藩の尊王攘夷派と、これと結んだ急進的な公家を京都から追放しました。
どちらも朝廷を重んじる点は同じでした。分かれたのは、その先で幕府をどう扱うかです。この違いが、京都での対立になって表に出ました。
おまけトリビア
八月十八日の政変で長州藩を追った薩摩藩は、のちにその長州藩と手を結び、幕府を倒す動きへ進みます。公武合体を推した藩が、倒幕の側へ移ったのです。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、2つの路線の関係をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■背景:条約調印が生んだ亀裂
対立の出発点は、1858年の
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)です。幕府は、孝明天皇(こうめいてんのう)の許しを得ないまま調印しました。開国で物価が上がり、外国への反感も強まるなか、幕府への批判は、天皇を尊ぶ尊王論と、外国を打ち払う攘夷論を結びつけた尊王攘夷運動へと広がっていきます。
一方の幕府は、1860年に大老(たいろう)の
井伊直弼(いいなおすけ)が桜田門外で暗殺され、権威が揺らぎました。そこで進めたのが、朝廷と結んで立て直しを図る公武合体です。
■公武合体を推したのは誰か
公武合体の「公」は朝廷、「武」は幕府と諸藩を指します。推したのは幕府だけではありません。薩摩藩では藩主の父だった島津久光が、越前藩では藩主を務めた松平慶永が、朝廷と幕府の協力で政治を立て直す立場をとりました。
公武合体の代表的な例が、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を、十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の夫人に迎える
和宮降嫁(こうか)です。ところがこの縁組は尊王攘夷派の反発を呼び、推し進めた老中の
安藤信正(あんどうのぶまさ)は、1862年に江戸城の坂下門外(さかしたもんがい)で襲われて負傷しました。
■尊王攘夷の中心は長州藩
尊王攘夷は、天皇を尊ぶ「尊王」と、外国の勢力を打ち払う「攘夷」を結びつけた考えです。幕末には、本居宣長(もとおりのりなが)らの国学(こくがく)とともに、水戸藩(みとはん)で発達した水戸学の影響を受けて広まりました。
担い手は藩だけではなく、
三条実美(さんじょうさねとみ)ら急進的な公家も加わりました。そのなかで京都の中心になったのが、長州藩です。
文久3年(1863年)5月10日は、朝廷が決めた攘夷決行の日で、幕府も諸藩にこの日の攘夷実行を通達していました。長州藩は幕府に攘夷の実行を迫り、関門海峡(かんもんかいきょう)を通る外国の船に砲撃を加えます。幕府が考える攘夷は、外国との交渉で退去させることでした。長州藩の動きは、幕府の方針とも食い違っていました。
■何が同じで、何が違うのか
| 項目 | 公武合体 | 尊王攘夷 |
| 幕府の位置づけ | 立て直す対象 | 批判し、攘夷を迫る対象 |
| 朝廷の位置づけ | 権威を借りて幕府を立て直す支え | 天皇を尊ぶ考えの拠りどころ |
| 主な顔ぶれ | 幕府、薩摩藩の島津久光、越前藩の松平慶永 | 長州藩、急進的な公家 |
| 代表的な動き | 和宮降嫁 | 外国の船への砲撃 |
共通しているのは、朝廷を重んじる姿勢です。違うのは、その先で幕府をどう扱うかでした。幕府を立て直す側と、幕府を批判して攘夷を迫る側。この違いが、京都での争いにつながります。
試験に出るポイント
「どちらも朝廷を重視した」という共通点と、「幕府を立て直す公武合体」「開国を進めた幕府を批判する尊王攘夷」という違い。この2点に、八月十八日の政変(会津藩と薩摩藩が長州藩を京都から追放)を加えて書けるようにしておくと、記述問題で差がつきます。
■京都でぶつかった八月十八日の政変
文久3年(1863年)に入ると、長州藩と、これと結んだ急進的な公家が朝廷で力を強めました。この動きは、天皇みずから攘夷の戦いを指揮する計画にまで進みます。
ところが、孝明天皇は急進的な動きを好みませんでした。そこで薩摩藩と会津藩が動き、文久3年(1863年)8月18日、藩兵で御所(ごしょ)の門を固めます。そのうえで開かれた朝廷の会議で、長州藩は御所の警備の役目を解かれました。三条実美ら公家7人は長州へ逃れました(七卿落ち、しちきょうおち)。
政変のあと、朝廷は島津久光や松平慶永ら公武合体派の人々を参与(さんよ)に任じ、朝廷の会議に加えました。しかし参与たちの話し合いは、間もなく分裂します。翌年の元治元年(1864年)には、長州藩が京都に兵を進めて禁門の変(きんもんのへん)を起こしますが、敗れました。
■史実と学説
確かなのは、八月十八日の政変で動いたのが会津藩と薩摩藩、追われたのが長州藩と急進的な公家だったことです。一方、細かい点では説明が分かれます。
和宮降嫁の年は、1861年とする説明と1862年とする説明があります。京都からの下向と、江戸での婚儀の時期がずれるためで、年単位で断定できる出来事ではありません。坂下門外の変で安藤信正を襲った人々も、「水戸浪士」と書く説明と「尊王攘夷派」と書く説明に分かれます。藩の色分けも固定ではありません。公武合体を推した薩摩藩のなかにも、有馬新七(ありましんしち)ら尊王攘夷の過激派がいました。文久2年(1862年)、島津久光は藩士を差し向けて、京都の伏見で彼らを鎮めています(寺田屋事件、てらだやじけん)。尊王攘夷の中心だった長州藩のなかにも、公武合体による連合政権をめざして動く人々がいたとされます。「長州藩ははじめから尊王攘夷だった」と決めつけると、流れがつかめなくなります。
■トリビアの真相:追放した相手と組んだ薩摩藩
薩摩藩は、政変の3年後にあたる1866年(慶応2年)に、長州藩と薩長同盟(さっちょうどうめい)を結びました。かつて京都から追放した相手と手を組み、のちに幕府を倒す動きへ進みます。
「公武合体派だから最後までこう動いた」と読むと、かえって幕末が分かりにくくなります。その時点で誰が何を目指していたのかを、場面ごとに確かめるのが確実です。