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17_80 近代日本の形成とアジア / 開国・明治維新

大久保利通とは?維新の三傑は、結局何をした人かをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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大久保利通(おおくぼとしみち)(1830〜1878年)は、明治新政府の中心にいた政治家です。薩摩藩の下級武士の家に生まれ、幕末には幕府を倒す運動を進めました。明治に入ると版籍奉還や廃藩置県を推し進め、初代の内務卿(内務省の長官)として産業を育てる政策に取り組みます。この記事では、西郷隆盛・木戸孝允と並ぶ「維新の三傑」(明治維新で大きな働きをした3人)の一人である彼が、結局何をした人なのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる大久保利通」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・下級武士の大久保利通は、なぜ新政府の要職につけたのか

・新政府の要人として、大久保利通は何をしたのか

・なぜ大久保利通は、「維新の三傑」に数えられるのか


1分でわかる大久保利通


大久保利通とは、一言でいえば、幕府を倒す中心となり、新政府では国のしくみを整えた人物です。

倒幕の中心となり、新政府の要職につく

薩摩藩の下級武士だった大久保利通は、藩の実力者の島津久光に認められ、西郷隆盛らとともに幕府を倒す運動の中心になりました。公家の岩倉具視と組んで王政復古(新しい政府をつくる宣言)を実現させ、新政府では参議という要職につきます。

版籍奉還から内務省まで、国のしくみを変える

新政府では、木戸孝允や西郷隆盛らとともに、1869年の版籍奉還と1871年の廃藩置県を推し進めました。同じ1871年には岩倉使節団の副使として欧米を視察し、1873年には内務省をつくって初代内務卿となり、殖産興業(国が産業を育てる政策)を進めます。

倒幕と国づくりの両方で中心にいた「維新の三傑」

「維新の三傑」は、西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通の3人です。大久保利通は、倒幕でも新政府の国づくりでも中心にいた人物として、その一人に数えられます。


つまり大久保利通は、倒幕から新政府の国づくりまで、どちらでも中心にいた人物です。1878年、東京で士族に襲われて亡くなりました。

おまけトリビア

大久保利通が亡くなったとき、手元の現金は当時のお金で140円ほどで、借金は8,000円ほど残っていたと伝えられます。国の事業に、自分の財産まで使っていたためといいます。


ここから深掘り


ここからは、さらに詳しく解説します。

■大久保利通の生涯


年出来事
1830年薩摩藩の下級武士の家に生まれる
1866年薩摩藩の側で、薩長同盟の成立に関わる
慶応3年12月岩倉具視らと組み、王政復古を実現させる
1869年参議になる。版籍奉還が実現する
1871年大蔵卿になる。廃藩置県を推し進める。岩倉使節団の副使として出発
1873年征韓論に反対する。内務省をつくり、初代内務卿になる
1874年佐賀の乱を鎮める。台湾出兵の後始末で清に渡る
1877年西南戦争を鎮める。内国勧業博覧会の総裁を務める
1878年紀尾井坂の変で暗殺される


■なぜ下級武士が、新政府の要職についたのか


大久保利通は薩摩藩の下級武士の家に生まれ、同じ町内で育った西郷隆盛とは幼なじみでした。身分は高くありませんでしたが、藩の実権を握る島津久光に認められて側近となります。

大久保利通は西郷隆盛とともに藩を動かし、幕府を倒す方向へ向かわせました。1866年には、薩摩藩の側で薩長同盟の成立に関わります。そして公家の岩倉具視らと連携し、慶応3年12月に王政復古を実現させました。幕府を倒し、新しい政府をつくることを宣言した政変です。

新政府ができると、大久保利通は参与という役職に任じられ、1869年には参議になりました。倒幕を実現させた中心人物だったことが、要職につく土台になったとされます。

■新政府の要人として何をしたのか


大久保利通が新政府で進めたことは、大きく4つあります。

1つ目は、藩をなくす改革です。版籍奉還は、藩主が藩の土地(版)と人(籍)を朝廷に返す改革で、1869年に薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が先に願い出ました。1871年の廃藩置県は、藩を廃止して府と県を置き、国が直接地方を治める仕組みに変えた改革です。大久保利通は、木戸孝允や西郷隆盛らとともに、この2つを推し進めました。
廃藩置県の中心がだれだったかは、資料によって書き方が分かれます。西郷隆盛の指導力で断行されたとする資料、木戸孝允の邸宅で西郷隆盛・大久保利通らが計画をまとめたとする資料、大久保利通が中心だったとする資料があります。


2つ目は、税と産業の改革です。大久保利通は大蔵卿(財政を担当する役所の長官)として年貢にかわる税制を求め、地租改正を進めました。地租改正は、収穫高に応じて米で納める年貢をやめ、土地の値段に応じてお金で税を納めさせる改革です。1873年には内務省をつくって初代内務卿となり、警察や地方行政、産業を育てる仕事を受け持ちます。殖産興業の一つとして、1877年に第1回内国勧業博覧会を開きました。

3つ目は、欧米の視察と外国との関わり方です。大久保利通は1871年、岩倉使節団の副使として欧米へ向かい、欧米の進んだ技術や文化に強い衝撃を受けたとされます。1873年に帰国すると、西郷隆盛が自ら朝鮮に使節として行くことを求めていました。大久保利通は、まず国内を整えるべきだとして、これに反対します。西郷隆盛らが政府を去ったこの政変を、明治六年の政変といいます。

4つ目は、士族の反乱への対応です。大久保利通は、1874年の佐賀の乱では全権を受けて鎮圧にあたり、同じ年には台湾出兵の後始末のため清に渡って交渉しました。1877年には、西郷隆盛を担いだ士族の反乱である西南戦争を、政府の側で鎮圧しました。

■なぜ「維新の三傑」に数えられるのか


大久保利通は、幕末には薩摩藩の中心人物として、西郷隆盛とともに幕府を倒す運動を進めました。明治に入ると、版籍奉還や廃藩置県、内務省と殖産興業などで、国づくりを進めます。倒幕と国づくりの両方で中心にいたことが、三傑に数えられる大きな理由とされます。
人物評は分かれます。冷静沈着な政治家と評される一方、内務省を拠点に政治を進めたことは、一部の役人が政治を握る「有司専制(ゆうしせんせい)」だと批判されました。


■最期と、暗殺の朝の言葉


明治11年5月14日(1878年)、大久保利通は馬車で出かける途中、東京の紀尾井坂付近で、石川県の士族島田一郎ら6人に襲われて亡くなりました。紀尾井坂の変です。

この日の朝、大久保利通は福島県令の山吉盛典に、明治の30年を3つに分けて考えていると語ったと伝えられます。次の10年は内政を整え産業を興す時期で、自分はそこまで内務の職を務めたい、という内容です。

■トリビアの真相


大久保利通の死後、財産は現金140円ほどに対し、借金が8,000円ほど残っていたと伝えられます。予算のつかない国の事業に、自分の財産を使っていたためです。

試験に出るポイント

大久保利通は薩摩藩出身で、西郷隆盛・木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれる。版籍奉還(1869年)と廃藩置県(1871年)を推し進め、1871年に岩倉使節団の副使として欧米を視察した。1873年には征韓論に反対し(明治六年の政変)、内務省をつくって初代内務卿となり、殖産興業を進めた。1878年に紀尾井坂の変で暗殺された、という流れで押さえましょう。

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日本史用語集 山川出版

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