薩英戦争(さつえいせんそう)は、文久3年7月2日(1863年)に薩摩藩とイギリスが鹿児島湾で戦った戦いです。原因は前の年に起きた
生麦事件でした。勝敗はつかないまま終わっています。この記事では、戦いが起こった理由、双方の損害、そして講和までを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる薩英戦争」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・生麦事件のあと、なぜイギリスの軍艦が鹿児島湾に来たのか
・薩摩藩とイギリスは、それぞれどんな損害を受けたのか
・勝敗がつかないまま、戦いはどう決着したのか
1分でわかる薩英戦争
薩英戦争とは、一言でいえば、生麦事件をめぐって薩摩藩とイギリスが撃ち合い、勝敗がつかないまま終わった戦いです。
薩摩藩が、イギリスの要求に応じなかった
文久2年、薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)の行列に行き会ったイギリス人が、薩摩藩士に斬られる生麦事件が起こりました。イギリスは幕府から賠償金を受け取り、薩摩藩にも犯人の処罰と賠償金を求めました。しかし薩摩藩は応じませんでした。
文久3年7月2日、鹿児島湾で戦いが始まった
イギリスは軍艦7隻を鹿児島湾へ送り込みました。交渉は進まず、7月2日に戦いが始まります。暴風雨の中で薩摩藩の砲台と艦隊が撃ち合い、4日、艦隊は鹿児島湾を去りました。
双方に大きな被害が出て、勝敗はつかなかった
イギリス側は旗艦の艦長が戦死し、死傷者は60人以上にのぼりました。薩摩側も城下町の約1割が焼け、藩の工場群だった集成館(しゅうせいかん)が壊されています。このため、勝敗がつかないまま終わったと説明されます。
戦いのあと、薩摩藩とイギリスは同じ年のうちに横浜で講和しました。薩摩藩は賠償金を幕府から借りて支払い、犯人は「逃亡中」とされて処罰されませんでした。その後、薩摩藩はイギリスに近づいていきます。
おまけトリビア
開戦の前、薩摩藩はスイカ売りに変装した藩士をイギリス艦に乗り込ませ、奇襲しようとしました。しかし艦隊に警戒され、この作戦は失敗しています。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、薩英戦争をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■薩英戦争の背景
当時の日本では、外国人を実力で追い払おうとする攘夷(じょうい)の主張が高まっていました。そのなかで文久2年8月(1862年)、武蔵国橘樹郡生麦村(いまの横浜市鶴見区)で生麦事件が起こります。薩摩藩主の父として藩の実権を握っていた島津久光が、江戸から薩摩へ帰る途中でした。その行列に行き会ったイギリス人4人のうち3人が、薩摩藩士に斬られて死傷しました。
イギリスの代理公使は、まず幕府に公式の謝罪と10万ポンドの賠償金を求め、幕府はこれに応じて支払いました。次に代理公使は、幕府の統制が薩摩藩には及んでいないと見て、薩摩藩に直接、犯人の処罰と2万5000ポンドの賠償金を求めることにします。
薩摩藩は、「生麦事件に関して責任はない」と答えて、この要求を拒みました。そこでイギリスは、文久3年6月末、軍艦7隻を鹿児島湾に送り込みます。
■戦いの経過
艦隊が着いたあとも、交渉は進みませんでした。7月2日、イギリス側が薩摩藩の汽船3隻を捕らえ、これをきっかけに薩摩藩の砲台が一斉に砲撃を始めた、という説明が多く見られます。この日は暴風雨で、海は荒れていました。このとき、薩摩藩の
五代友厚(ごだいともあつ)と
寺島宗則(てらしまむねのり)が、イギリス側の捕虜になっています。
イギリス艦隊は射程の長いアームストロング砲を使い、砲台や城下町を撃ちます。薩摩藩の砲台もこれに応じ、砲弾は旗艦に当たって、艦長と副長が戦死しました。翌3日にも砲撃が続きます。4日、弾薬や石炭が減り、多くの死傷者を出していた艦隊は、鹿児島湾を去りました。
■双方の損害と講和
| 時期 | 出来事 |
| 文久2年8月 | 生麦事件が起こる |
| 文久3年 | 幕府がイギリスに賠償金10万ポンドを支払う |
| 文久3年6月末 | イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に来る |
| 文久3年7月2日〜4日 | 薩英戦争 |
| 同じ年 | 横浜で講和する |
イギリス側は、旗艦の艦長と副長のほか、戦死者13人、負傷者50人を出しました。薩摩藩側も戦死者5人、負傷者十数人を出したうえ、城下町の約1割が焼け、藩の工場群だった
集成館も失われています。
講和の話し合いは、同じ年のうちに横浜で行われました。薩摩藩は、2万5000ポンドの賠償金を、幕府から借りて支払います。ただ、この借りたお金は、幕府に返さなかったといわれています。生麦事件の犯人は「逃亡中」とされ、処罰は行われませんでした。このほか、イギリスが薩摩藩の軍艦の購入を世話することも、講和の内容に含まれています。
そのあと、互いの実力を知った薩摩藩とイギリスは、急速に接近しました。薩摩藩は、外国の軍事力の強さを知って、攘夷は実行できないと悟りました。そして戦後まもなく、イギリスへ留学生を送り出します。
■史実と学説
まず、生麦事件の経緯は、書かれ方が分かれています。イギリス人が馬に乗ったまま行列に入り込み、列を乱したためだという説もあれば、下馬してよけるように言われたのに、よけなかったという説、下馬して道を譲るようにという指示が、言葉の壁で正しく伝わらなかったという説などがあります。どの説にも共通するのは、行列に行き会ったイギリス人が薩摩藩士に斬られた、という点だけです。
戦いの始まり方も、書き方が分かれます。イギリス側が汽船を捕らえたのをきっかけに薩摩藩の砲台が撃ち始めた、とする説明が多い一方で、交渉への回答がないままイギリス艦隊が砲撃を始めた、とする説明もあります。
勝敗については、損害の大きさと終わり方から、「勝敗が決しないまま終わった」と書かれるのが一般的です。イギリスは旗艦の艦長らを失って艦隊を引き上げ、薩摩藩は城下町と集成館に大きな被害を受けました。どちらの勝ちとも言い切れません。
数字は、資料によって幅があります。イギリス側の戦死13人・負傷50人は複数の資料で一致しますが、薩摩側は戦死者5人・負傷者十数人とする説明がある一方で、内訳の書き方が違う資料もあります。講和が成立した日も、書き方が分かれています。
■トリビアの真相
おまけトリビアで紹介したのは、「
スイカ売り決死隊」と呼ばれる作戦です。戦いの前、薩摩藩は果物やスイカを売る商人に変装した藩士をイギリス艦に近づけ、艦内で奇襲をかけようとしました。
しかし、艦隊はこれを警戒しており、作戦は失敗に終わります。交渉と並行して、薩摩藩が戦いに備えていたことが分かる逸話です。
試験に出るポイント
生麦事件(1862年)→ 薩英戦争(1863年)→ 薩摩藩とイギリスが接近、の流れが最重要です。薩英戦争は薩摩藩とイギリスの戦いで、勝敗はつかないまま終わり、横浜で講和しました。そのあと薩摩藩は攘夷は実行できないと悟り、イギリスに近づいたことも、あわせて押さえましょう。